2014年12月30日 (火)

久司道夫氏逝く 本堂で祈りの捧げた

本尊聖観自在菩薩。大悲の仏。今朝の祈りの場。

今朝も思い切り早起きをした。寺子屋の元の生徒たちが集まっていたので、私は彼らだけにして八時に寝室に入った。一時半に目が覚め、私の書斎に行くと彼らはまだ話しをしていた。

すぐに沐浴し、その後にパソコンを開くと、久司道夫さんが亡くなったことを知った。マクロビオティックの大家。私も彼の影響を間接的だが多大に受けている。何度かお会いしたこともある。

本堂で修法をし、その後に三井英光師から伝授していただいた光明真言加持土砂の略作法で久司さんの菩提を弔った。

今年は一時代を象徴される方々が何人も亡くなった。大きな大きな時代の転換点なのかもしれない。

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2014年12月25日 (木)

僧侶はもっと胸を張って葬儀を語るべき 神社との違いを見つめて

日本の神々は現世の存在であるので死を厭います。ですから喪中は神社への参拝を控えるようにいわれます。ただし、抜け道というものはあるもので、鳥居をくぐらなければ神社へのお参りはOK。むしろ身近な者の死の場合は、三十三年経つと先祖霊として神々と合一していくものなので、氏神様への祈りはとても大切。

時折、神仏は仲が悪いとかいう不埒な人たちが居ますが、神仏分離は明治維新に政治的に引き起こされたもの。そうして勝手な考えの暴走は止めたいものです。

一方、仏は生死を超えた三世(過去・現在・未来)に渡り、浄土を有しますので、死を厭うことはありません。もちろん仏教はあの世だけが大切なのではなく、現世も大切にします。あの世重視はむしろ仏教では珍しいといったほうが良いでしょう。むしろ、あの世(彼岸・真理)の中に此の世(俗世)が包み込まれており、あの世から見れば俗世との境界はなく、此の世から見れば人の言葉によって生まれた境界があると見る方が良いかもしれません。だからこそ現世でしっかりと生きることを重視するのでしょう。

そう考えると、仏教が葬儀を司るのも、此の世の言葉で縛られた俗世からの解放という意味が大切に思えます。先師方が仏教とは直接関係ない葬儀を取り込んだのは、とても意義深く思えます。現世のみではないので仏教には死の穢れはありえませんし、現世での言葉という枠組みの解放を伝えるのも仏教ですから、故人や参列者にそれを伝えるのも僧侶の大きな役目。

この文章を書いていて、仏教者は葬儀を司ることをもっともっと胸を張って良いと感じました。

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2014年9月10日 (水)

偶然の一致が連続しています。最近の目立つ例を二つ挙げれば・・・改めて感謝

このところ直感力が増しているのか、偶然の一致が連続し

ています。最近の目立つ例を二つ挙げれば・・・

1)内閣改造がおこなわれつつあるとき、とある会合でとある国会議員に、ふと浮かんだ言葉で「政務官とはどのような役目ですか?」と尋ねました。その代議士は自分には関係のない話だけどもと前置きされて、説明をしてくださいました。すると、翌々日にその代議士は政務官を打診され急遽上京し、とある省の政務官になられました。昨日、その会合があったのですが、一緒に居た人たちもビックリしていたらしく「住職なにか見えていたの?」と尋ねられました。にっこり笑って「何も見えませんよ」とお応えしました。

2)その同じ会合で昨日、法事の引き物の話が出て、カタ
ログの話題で盛り上がりました。高級なものから安価なものまで。翌日である今朝、義弟(実妹の夫)実家の実家(妹の嫁ぎ先の実家)であるとある神社から五十日祭の引き物のカタログが送られてきました。思わず笑ってしまいました。

私は周りに「善き偶然の一致が連続しているというのは、それくらい縁というものに目が開かれている証拠。運が良いってことですよ。」とよく語っています。高家寺に関わっていると偶然の一致が連続していき、善き流れになるのは事実です。

その一番の恩恵を受けているのは住職である
私なのだと改めて感謝の思いをいだき合掌してしまいました。


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2013年3月12日 (火)

神仏共に・・・二つの異なるものの和合・・・偶然の一致の折り重なり

題:神仏共に・・・二つの異なるものの和合・・・

昨日の311はちょうど14時46分18秒に
天河弁財天に居ましたので、

カミさんと二人で拝殿で祈ろうと思っていました。
すると宮司さんの若さんが出てこられ、
「今から祈る所です」とおっしゃられ、
偶然にも一緒に祈ることになりました。
最初は神式の祈り、
最後は般若心経と弁財天真言、大師宝号、そして玉串。

少し話が変わりますが
最近、ある大学の名誉教授とお話していたのが
東北の地の鎮魂慰霊に何がもっともよいかということを
色々と検討していました。
その中で、宝筐院陀羅尼が最も大切であると意見が一致。
最近は、宝筐院陀羅尼を毎日お唱え続けていました。

もう一つ話が飛びますが
尾張七代藩主徳川宗春を研究していて
彼の隠居謹慎の引き金は
南北朝問題であったことが見えて来ました。
宗春の時代に、南北朝問題をめぐって
京都所司代が入れ替わるなど
朝廷と幕府が対立していたのです。
南北朝問題は、江戸時代を通し
明治維新、明治時代にいたるまで
日本の中でも大きな深い傷でした。

ここで話を徐々に戻していきます。
宗春のこともあったので特に南朝には気をつけていました。

南北朝時代、南朝方は東北と縁の深い方々が居られました。
南朝方の後村上天皇も皇子時代に東北に居られたほどです。
そうしたこともあり、また時間的な制約もあったので
昨日の311は東北ではなく
南朝に深い縁のある吉野から西吉野に出かけ
各地で祈りを捧げて来ました。
そこで時間的にちょうど天河弁財天に居たのです。
宮司さんの若さんと一緒に祈りを捧げ、
その後に南北朝に関する会話をしました。
すると、天河弁財天の裏に南北朝の和合の慰霊塔として
宝筐印塔を建ててあるとおっしゃられたのです。
愕然としました。
この時私は宝筐院陀羅尼について何も述べていませんでした。
偶然の一致でした。

その場所に向かい、
宝筐印塔の確認を取り祈りを捧げて来ました。
写真はその宝筐印塔と説明板です。
Hokyointo01
Hokyointo02

二つの異なるものの和合
ここに大きな意義を見出しました。
先の名誉教授と電話でやり取りし
ロゴスとハーモニー、これが大切なテーマであることも確認。
深く物を思わせられた天河弁財天でした。

(大きく飛ぶ別の話があり、別稿で記します。)

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2012年10月20日 (土)

院号道号戒名雑感

これからお通夜。
最近、戒名の上に置く道号に対して色々考えている。戒名は、出家名なのでここに俗名を入れることを私は避けている。私の名前の一文字を入れた仏教語から選定している。道号は、その人の人となりを表す言葉なので、本来は俗名を避けるべきなのだろうが、通称という説を取り入れてこの道号に俗名の一文字を入れさせていただいている。今回は三文字の俗名の方であったので、その上二つを道号とした。たまたま『金剛頂経』の中の言葉であったからだ。時代が変わり俗名が通称となってしまった昨今、字(あざな:通称)と諱(いみな:本名)が一つになってきている。あからこそ、字(あざな)にあたる道号に諱を入れるのも大切に感じている。ちなみに江戸時代は自分の諱を院号にする例も時折あった。私は院号で、その人の人となりを表すようにしている。今回は珠算が初段という方であったので、珠をとり寳珠院とさせていただいた。今後は、、院号に諱を、道号に人となりを表す通称を、という例も出てくるかもしれない。ただし、暫くは今の方針を貫き、機会があれば見なおしてみようと思っている。
私たち僧侶にとっては、何十人何百人のうちのお一人だが、死というのは人にとって一生に一度のもの。ましてや俗名以上に、その人の人生を表すのが院号道号戒名。だからこそ、時には徹夜し、経典から文字を検索し、最高の名をと思い工夫をし続けている。

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2012年9月 2日 (日)

筆頭檀家総代の奥様の死に臨み

筆頭檀家総代の奥様が亡くなられました。江戸時代からの我が寺の総代の家に生まれられ、四女であったにもかかわらず婿を迎えて家を継がれた方でした。誇り高き努力家。この寺の復興の良き相談相手のお一人であったので、とても寂しく感じています。
今朝未明に連絡を頂いて、戒名をゆっくりと考えました。そして朝になり枕経に赴き、祈りを捧げていると全く別の戒名が浮かんできました。寺に戻り、SATで典拠があるかどうかを調べ、
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/
院号は真言宗の両部大経の一である『大日経』に、道号は釈尊のお母様の摩耶夫人(まやぶにん)について記された『仏昇忉利天為母説法経』に、戒名は両部大経の一である『金剛頂経』に属する『守護国界主陀羅尼経』に典拠となる言葉を見つけました。
本来の戒名の命名は、経典の意味から文字を選ぶべきなのでしょうが、浅学ですのであまりにも幅が狭く深みも浅いので、逆転させて意味ある漢字を選び、それが経典にあるかどうか、意味がかなっているかどうかを調べています。このおかげで、逆に沢山の文章を読むことができ、思わぬ発見もしばしばあり、今ではこの方法を用い続けています。そして度牒をお渡しし、裏には院号道号戒名の意味と出典の典拠を記して、お通夜に用いて得度式を行い、その度牒は遺族にお渡ししています。

江戸時代までの日本は、生まれた時、少し大きくなった時、大人になった時、隠居後、そして死後で名前が変わって行きました。その時その時で名前を変え、立場に合わせて生まれ変わって、新たな生命を得ていたようです。明治になり、なんでも一つにしようとする西洋の動きに合わせて、日本のこの伝統文化は廃れ、今では戒名さえも滅びようとしています。
田舎の片隅ですが、私は日本のこの伝統文化を細々とながら守って行きたいと思っています。
明日はお通夜、明後日は告別式。真言宗ですので、お通夜は得度式、告別式は灌頂の儀式を行う予定です。
筆頭総代の奥様を心よりお送りするつもりです。

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2012年8月14日 (火)

豪雨の中のお盆参りの棚経。でも全く濡れませんでした。

お盆のお参りが一段落しました。今日は、突如の豪雨や落雷がありましたが、なぜかその時間帯はお参りをしており檀家さんの家の中。その玄関を出ると雨がやみ、雨に濡れずに済みました。晴れ男健在って感じでした。
今日の法話は、辛抱と我慢の違いを語り、九月八日に行われる宗春卿の講演の宣伝をし、宗春の慈忍についてお話ししました。
お盆参りは、五分くらいで終わらせる僧侶の方が多いようですが、私の場合は読経十分、法話五分、対話五分を行い移動しています。一日二十件が限界ですが、それでもこのスタイルは貫いていきたいと思っています。年に一度ご家族が集まる時ですから、対話は大切なものと強く感じているからです。

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2012年2月28日 (火)

田舎から僧侶を迎える葬儀が徐々に増え始めているとのこと。

先日、ある四国に住まれる老僧より聞かされたこと。
最近、東京や横浜での葬儀が増えてきたとのこと。
東京や横浜での葬儀料が高騰しているため
田舎から僧侶を迎え、ホテルに宿泊してもらっても
結果的には安く済むことが大きな原因らしい。
ただそのおかげで、先祖を大切にする気持ちも
一分で徐々に復活仕掛けていると聞かされた。

一部で起きている現象だろうが
単純に一現象として捉えることはできなかった。

このことを私たち僧侶はどう受け止めていけば良いのか。
町と田舎とは事情が違うし
今後に向ける対応が異なってくるのも事実。

私自身答えは出ていないが
深く考えさせられるお話であった。
その直後、26日は葬儀の導師を務めた。
家族の希望で、家族葬であった故に、
余計に考えさせられている。

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2010年7月 2日 (金)

イオンの葬儀の仲介に関して雑感

大手のスーパーのイオンが葬儀業に参入。
寺院に渡すお布施の金額を明示し
仲介に打って出るというのだ。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100702/trd1007020055000-n1.htm
イオンの儲けは対葬儀社のもので
寺院に関してはあくまでも仲介のみで
手数料は受け取らないという。

まずお寺のお布施とは何か。
布施は檀信徒が気持ちで寺院に差し出すものであり
葬儀に対しての対価ではない。
これは寺院側の建前であるがとても大切な部分。
ところが檀信徒は
お布施を葬儀や戒名法名の対価として
捉えているのが一般である。
ここにイオンが目をつけてきた。
寺院側の建前と檀信徒の感覚。
このギャップに入り込み
檀信徒側に立って
葬儀のお布施を対価として明示化した。

もちろ仏教界側は困惑している

しかし、仏教界内部からの告発に近い形で話をすれば
多くの寺院が、戒名に値段を決めている。
院号や居士号などで、いくらいくらと決めているお寺も少なくない。
また脇につく僧侶(伴僧)に対しても
お布施の金額を決めている例がほとんどである。
さらに言えば、世襲化の進んだ寺院では
葬儀はあくまでも家業の一部であり
商売の一環になっている例の方が多い。
ひどい話になると
「お布施が少ない」
と叱りつけたりする例も聞く。

今回のイオン問題は
仏教界に取っては良い機会になるような気がする。
あくまでも布施を主張するのであれば
全てにおいて金額設定をせずに
お気持ちだけで進めていけば良い。
もちろん最低の基準を設けることは問題ないが
あくまでもお気持ち。
これを押し通す必要があるだろう。
一方、もしこのイオンの提示する
お布施の明示化が行われるのであれば
葬儀屋も課税されているわけであるから
あくまでも商取引。
私個人の意見では対価となるので
課税対象となるべきだと思う。
金額を一切明示しない葬儀は
非課税(これは内々の取り決めもなし)
明示する場合は課税
このあたりが落しどころなのではないだろうか?
もちろんお守りやその他の授与も
金額明示の物販ならば消費税課税
それ以外は消費税非課税。

宗教法人に対する課税問題が問われている昨今
むしろ仏教界側から何らかのアクションが必要ではないのか。

ではうちのお寺はどうなのか。
基本は居士や大姉号を着けている。
院号は希望で付ける。
信士や信女を望まれる場合は、それを着けている。
そしてそれに対する基準は設けていない。
いやむしろ戒名によって
布施の値段が変わるようなことは一切行っていないし
金額にかんしては基準を提示することはあっても
あくまでも・・程度とし
少なくても多くても
差別化しないし
とりたてて何かを伝えることもしない。
今後もこのスタイルは貫いていくつもりだ。
葬儀に対する御礼としてのお布施のみ。
気持よく出して頂ける範囲でお願いし続けていこうと思う。
しかしこれはあくまでも高家寺だけのこと。
私の小さなこだわりに過ぎない。
ちなみにイオンの示した金額を定価ではなく
あくまでも基準値とするのならば
私はそれほど問題とは思わない。

もちろん各寺院が決めることであり
それぞれの考え方がある。
それを尊重したい。

ちなみに、高家寺の葬儀の内容は
http://www.kokeji.com/realfuneral.html
に記してある。

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2009年3月22日 (日)

映画『おくりびと』をDVDでカミさんと共に観る

アカデミー賞の外国作品賞のオスカーを受賞した『おくりびと』
今まであまり注目されていなかった納棺士の物語。
死への旅立ちを見送る仕事。

なぜこの映画がアカデミー賞を受賞したのか
分かる気がした。

「死は門である」
この言葉の持つ意義は大きい。
また今まで仕事としてあまり表舞台に立っていなかった仕事。
しかし仕事に貴賎はないことを改めて見せ付けてくれたのと
生と死とは何かを目の前に突きつけてくれたような気がする。

余談だが、この映画は納棺士だけではなく
僧侶にもとても大切な内容であることを感じさせられた。
坊さんの葬儀を扱った映画もあって良いのではないかと感じる。

先日、大叔父の死に立ち会った際に
この納棺士は若い女性たちであった。
実に丁寧な仕事をしていた。
この映画の影響は既に実践おばまで及んでいることを
今日、改めて実感した。
映画の影響力の凄さを感じる。

アマゾンでは

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001Q2HNOW/prpmenade-22

にて『おくりびと』のDVDを購入ができます。

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