2008年6月19日 (木)

本の紹介『千道安』 千利休の長男の物語

本の紹介『千道安』
鳥影社

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862651321/prpmenade-22

千利休の長男、それが千道安。
千家は、表・裏。武者小路の三千家が有名。
この三千家は、
利休の娘ちょう と、
利休の後妻宗恩の連れ子である少庵との
子である千宗旦が祖であり、
三千家を京千家と呼ぶのに対し、
道安を堺千家と呼ぶ。

道安はかなりの茶人であったらしく
利休も一目を置いており
時には利休の代わりもなすほどであったと言う。
利休の死後、蟄居謹慎となったが後に許され
利休の堺千家としての跡を継ぎ
その堺千家は嗣子に恵まれず断絶したが
宗和流や石州流の祖となった。

その道安に関しては三千家に遠慮をしたのか
それとも資料が三千家側のものが圧倒的であったためか
なかなか記されることがなかった。

今回その道安について
娘みよ の口を借りて綴られたのがこの書。

作者は我が師松長有慶高野山真言宗管長猊下の奥様の
斎藤史子(ペンネーム)さん。
大学時代、私も習ったことがある。
東北大学の大学院を出ておられる才媛で
フランス文学を専攻されていた。
裏千家のお茶もされている。

なかなか読みやすい一冊。
お茶に興味のある人は是非
そして江戸初期の千家を取り巻く歴史に興味のある方にも是非
さらに女性の目で語られた小説としても是非
お勧め。

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2007年12月11日 (火)

吉良町で意味のある偶然の一致

今日も起きた意味のある偶然の一致。もちろん毎日起きているが、今日のは強烈な一撃だった。

200712112151000カミさんの元のボス、佐藤謙一郎氏に誘われてカミさんと共に車で吉良町に出かけた。東岡崎で佐藤先生をピックアップ。出かけた先は、華蔵寺。吉良上野介の菩提所。佐藤先生もかつての支援者の方に誘われてのことで、お寺であるということで、お寺関係の私を誘っていただいたものだった。

実はこの四月に私は、吉良町の社会福祉協議会からの依頼で、環境問題と仏教の講演会をさせていただいた。その帰りに華蔵寺を訪れお墓をお参りしていた。こうした偶然もあるんだなぁと、思いながら今日も出かけた。

実は吉良家とはちょっとした因縁があるのかもしれない。 http://mantra.way-nifty.com/osho/2007/03/index.html の三月四日にも記したが、私の出身地が愛知県一宮市で浅野家と深い因縁がある場所。出身小学校は浅野小学校。また高家筆頭(肝煎)であった吉良家、うちの寺の名前は高家寺などなど

ご住職からいろいろお話を伺い感慨深く華蔵寺を後にした。というのも高家寺は元々岐阜市加納にあったお寺。華蔵寺の開山は加納出身ということであり、その方が加納を出てしばらくして大名が入れ替わり、高家寺建立。地縁もここにあった。

そして、裏にある花岳寺。ここは吉良上野介の先祖のお寺で、姉君が多額の寄付をした寺でもある。ここの鈴木御住職よりお話を伺い、新たなことをいろいろ知る。

・浅野匠頭の菩提所の泉岳寺は、吉良家出身の方が開いたお寺。
・浅野匠頭の赤穂での菩提寺もまた花岳寺という名前。
・大石内蔵助の妻のりくの出身地の豊岡で大洪水が起きたとき、吉良町の役人が援助に行った。

などなど、浅野家と吉良家は相当な縁があるようだった。お話は尽きなかったが、もっともっといろいろ学ばせていただきたい内容だった。帰り際に、この鈴木ご住職に、私が僧侶になった大恩人である養老の大悲閣の故玄興和尚のことをお話したら、ビックリされた。なんと、鈴木ご住職は玄興和尚の弟弟子であったのだ。私も驚いてしまった。玄興和尚が子供の頃の私を可愛がってくれたおかげで、私の僧侶の理想像がある程度出来上がっていた。私たち家族にとっての大恩人。その兄弟弟子の方と、期せずしてこうして出会った。

相手は臨済宗。私は真言宗。よくよく聞くと、往古は、その花岳寺は真言宗のお寺であったことも分かった。

帰る寸前であったので別れを惜しみつつ、再会をお約束した。車に乗り、思わず合掌。ふと気付くと涙が一筋流れ出していた。嬉しかった。

この偶然の一致は、意味のある偶然の一致として私を包んでくれた。高祖弘法大師と玄興和尚に導かれたような気がする。鈴木御住職とは、また来春に訪れてゆっくりお話しをしようと思う。

今日の一日をプレゼントしていただいた佐藤先生に縁を繋いでくれたカミさんに、吉良家浅野家の方々、鈴木ご住職、玄興和尚、高祖に深く深く感謝する。

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2007年12月 5日 (水)

刷り込み 太陽エネルギー・大化の改新から考える

般若心経講座。今年最後のもの。常連さんが年末で忙しく、今日は参加者はお二人のみだったが、逆に親しくお話させていただけた。

最初に、般若心経を一巻お唱え。次に、般若心経のもっとも大切な部分を伝えた。内容は、参加者のお楽しみなので、ここでは記さない。そして次に、地球システムについてのお話。松井孝典博士の本を中心に、私なりの見解を伝えた。特にソーラーエネルギーが、第二のフロンになりかねないということについては考えていただけたように思う。太陽エネルギーは地球に優しいという刷り込みがどこかにあるのではないかという話しだった。

そして、最後に大化の改新のお話し。私達の耳に届いている大化の改新は実は疑問符だらけということをお伝えした。このことについてもう少し詳しく書きに記そうと思う。

歴史を見るとき、ある地点にポイントを置き、そこから輪を広げていくことが多い。歴史理解にはこれはとても有効な方法だ。しかし、そのポイントを置く段階で、自分に刷り込まれてしまっている知識があるかどうかを検証することは重要である。大化の改新を調べるなら、聖徳太子vs蘇我氏となりやすい。しかし、本当に聖徳太子と蘇我氏の対立はあったのだろうか?そこで、この歴史を書いた人物に焦点を当ててみる。その人物は天武天皇?こじきや日本書紀の編纂を命じた人だ。ここで楽観視するのではなく、もう少し見つめてみると、実は古事記も日本書紀も天武天皇が存命中には完成されていない。完成されたのは、天武天皇妃の持統天皇のとき。ということは、時の権力者は持統天皇であり、藤原不比等。この持統天皇に関しては里中満知子さんの天上の虹という漫画がある。二十巻出ているがまだ未完だそうだ。彼女のライフワークでもあるらしい。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062606828/prpmenade-22 この持統天皇の父親は天智天皇。藤原不比等の父親は藤原鎌足。すなわち大化の改新を起こした二人の中心人物。ということは単純に考えて、大化の改新は良い行いとして歴史に残されるように持統天皇も藤原不比等も画策するはずである。そうなると、蘇我氏が悪人であったかどうかが実に疑わしくなる。というのも、天武天皇は天智天皇が死去した後に吉野に下り、結果的には尾張から美濃に掛けての勢力を結集して、天智天皇の息子の大友皇子に壬申の乱で勝利する。この尾張には入鹿池という蘇我入鹿が作った人工の湖がある。美濃には蘇原という蘇我氏の領土があった。これらから美濃から尾張に掛けては蘇我の勢力範囲であり、その蘇我の力を使って大海人皇子すなわち天武天皇は大友皇子を滅ぼしたことになる。つまり、構図的には蘇我氏vs反蘇我氏が、壬申の乱でも成立していたといえるのではないだろうか。すなわち、大化の改新とは蘇我入鹿や蝦夷という蘇我の宗家が殺されたのは間違いないが、あくまでも個人レベルの暗殺劇であって、決して革命というほどの大きな影響力を持った出来事ではなかったのではないかと推察される。現実に大化の改新後も天智天皇はなかなか即位できなかったし、鎌足も表舞台にはそえからほとんど出てこない。さらに天智天皇の事跡を非難する文章も散見され、本当は天智天皇は決して英雄ではなかった可能性も残されている。ということは、蘇我氏と聖徳太子が対立していたということ自体が疑問に持たれる。現実的に聖徳太子は蘇我氏を外戚に持つし、彼の残した文献は蘇我蝦夷宅にあり、それが大化の改新で燃えてしまったというのはあまりにもできすぎといえないだろうか?ひょっとすると、大化の改新の後も聖徳太子の編纂した歴史書はあったが、持統天皇や藤原不比等らによってあらたな歴史書である古事記や日本書紀が編纂されたことによって、消滅させられたのではないかとも推察される。

あまり突っ込むと、言いたいことが消えてしまうのでこのあたりにしておくが、私たちが当たり前と思っていることも、実は多くは思い込みやすり込みがあるのではないかということを言いたかっただけのこと。それを大化の改新をモデルケースにお話しをさせていただいた。当たり前と思っていることにもう一度光を当て、本当に刷り込みは無いかどうかを検証する必要がある。私も、できる限りそれを実証していきたいと感じている。

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2006年5月27日 (土)

日本初の女性天皇とは

01010919 昨日、高野山へ行く途中で奈良県葛城市の忍海(おしみ)というところに寄った。ここに不思議な古墳がある。写真を見ていただくと分かるのだが、天皇陵として宮内庁が管轄しているのだが・・・。

飯豊天皇・・・宮内庁・・・とされている。ところが、公式記録にはこの天皇は存在していない。公式記録に存在していない天皇陵が宮内庁管轄で存在している。ここに大きな矛盾がある。なぜなのか?01010923

この天皇の記録上の名前は、忍海部女王/青海皇女/飯豊女王/忍海部女王/飯豊郎女/忍海飯豊青尊/飯豊皇女/飯豊青尊/。

名前から類推すると、渡来系の忍海一族と関係があったものと思われる。忍海や青海とは「おうみ」すなわち「近江」つまり琵琶湖を意味する言葉。おそらく彼女は琵琶湖となんらかの関係があったものと思われる。滋賀県長浜市南部に田村山という丘がある。別名「諸神の岡」。この西の麓に「忍海神社」と呼ばれる村社がある。いくつかの神社が集められ、明治時代にこの名前となったといわれる。この神社との関係からも、飯豊天皇は近江琵琶湖と大きな関係があったと類推される。

しかし、彼女は女性。しかも推古天皇よりも古い時代の女性天皇。推古帝は今でこそ33代天皇とされているが、江戸時代は34代の天皇とされていた。たとえ短い期間であったおはいえ、自分の宮殿を持っていた天皇。それが第24代飯豊天皇。その天皇が公式記録から天皇として抹消され、それにもかかわらず天皇陵は存在し、天皇という名で宮内庁が管轄しているという矛盾。ここに何か秘められたものがるようだ。

日本で初めての女性天皇。この女性をどのように扱わねばならなかったのか、ここに日本史のミステリーがある。この天皇陵、実に入り口が分かりにくい。ここにも何かの意味があるのだろうか?単なる私の憶測に過ぎないのだろうか?

近江の忍海神社は我が家の先祖がお祈りしてきた神社。そこに縁を感じ、今回この天皇陵を訪れ、心より冥福を祈ってきた。

01010921

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