2017年8月18日 (金)

縁は目に見えない 目に見えない縁が目に見える現象となる ご縁に感謝の祈りを捧げ続けていきたい

一人一人が祈る姿は美しい。
祖先を中心としたあらゆるご縁のある方々やあらゆるご縁のある物事・出来事への祈り。
縁は目に見えない。しかし縁は無いわけではない。目に見えない縁が、目に見える形に顕れたのがこの現象世界。
だからこそ、目に見える儀式で、目に見えない縁に祈りを捧げることも大切。その祈り縁に作用し、一人一人にまた影響を及ぼす。
縁を知るものと知らぬものとの差は少なく無い。

周りを見ると、祈りを忘れた人々が増えた一方、祈りを大切にする人々も増えているようにも思う。この両極化が何を意味するのかは分からない。

できれば一人一人が、見えない縁に感謝の祈りを捧げ、目に見える現象世界がより気持ちの良い世界であって欲しい。
そのための祈りと活動と発信を続けて行きたい。
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2017年7月20日 (木)

今日(7月20日)は何の日? 役行者(役小角:神変大菩薩)の忌日 「役行者は個人的な超能力だけであったのではなく、葛城地域の親分であったのではないか?」

今日(7月20日)は何の日?
役行者(役小角:神変大菩薩)の忌日
「役行者は個人的な超能力だけであったのではなく、葛城地域の親分であったのではないか?」

現行の暦であるグレゴリオ暦701年7月20日(旧暦 大宝元年6月7日:ユリウス暦701年7月16日)、稀代の修験行者役行者こと役小角(えんのおづぬ)が遷化した。

役行者に関しては伝説的な話が多く、どれが本当の話なのかはわからない。すべてを削ぎ取り、確実な事績だけを追っていても役行者の実像はわかりにくい。そうした、いわゆる学術的な判断で役行者を見つめると、そこにあるのは骨だけで、血肉が全く感じられない。むしろ後世の人が彼をどうして驚くほどの超能力者のように考えたのか、その心理の集合体こそが役行者の実像なのではないかと思う。

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真言を見つめると
「おん ぎゃくぎゃく えんのうばそく あらんきゃ そわか」
この真言から見えてくるものがある。「ギャク ギャク」とは聖天(歓喜天)の真言にも用いられ、聖天と役行者を結びつけている点が興味深い。聖天はビナヤカと呼ばれる魔物たちの首領にして彼らをよく使う。役行者も前鬼・後鬼という鬼神をよく使うと言われている。そうしたことから結び付けられたのではないだろうか。ここから読み取れるのは役行者は、人々から忌み嫌われる存在さえも使役できるほど懐の深い人であったことである。

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ただ役行者は自らの出身地の奈良県葛城の神でもある一言主神が働かないことを責め立て、一言主の讒言によって伊豆へ流されてしまったという。これは一言主は、葛城賀茂のすぐ隣であり同族ではあるが、そうした身内の働かない者の讒言により失脚してしまったことを意味しているのではないだろうか?しかし、役行者のような呪術者が、単純に部下もしくはそれに相当する者の讒言によって流されてしまっては話は面白くない。ここを一言主という神の名を使うことにより、葛城でも東部に属する一言主の地域の人が、葛城の同族であり中部に属する高鴨神社の一族である役行者に反旗を翻したことを意味しているのではないかと思う。

それでも役行者は伊豆でも霊力を発揮し続け、霊峰富士山に毎晩登ったという伝説が生まれ、一層役行者の名声は高まっていった。孔雀明王法をよくしたという伝説につながるのも、孔雀は毒変じて薬となす明王であり、衆生とともによく生きた彼の性格を表しているのではないかと思う。

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超能力者としての彼についても面白いが、その超能力を覗いてみてみても彼の事績はとても面白い。むしろ単独の修行者というよりは、葛城地域の親分というイメージが浮かび上がってくる。

役行者に関してはミステリーが多い。今回は役行者が地域の親分であった可能性を見つめてみたが、超能力者である彼の側面についてはまた後日臨んでみようと思う。

今日は役行者を思い、彼が信仰した金剛蔵王権現に祈りを捧げてみようと思う。

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2017年7月19日 (水)

今日(7月19日)は何の日? 山岡鉄舟の忌日 「武士道を貫いた維新の英雄は金も名誉も命もいらぬ禅の居士」

今日(7月19日)は何の日?
山岡鉄舟の忌日
「武士道を貫いた維新の英雄は金も名誉も命もいらぬ禅の居士」

明治21年(1888年)7月19日、9時15分、明治の偉勲のひとりである山岡鉄舟が、皇宮(皇居)に向かって結跏趺坐のまま絶命した。享年満51歳。半世紀を維新とともに駆け抜けた英雄の一人である。

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高校生時代、不思議に思っていたことがあった。勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城は有名であるが、将軍徳川慶喜の側近であるはずの勝海舟がどうやって西郷隆盛と会談に臨んだのであろうか?という疑問である。いきなり江戸城で会談し、お互いに相手を理解しようというのは、いくらなんでも、勝海舟と西郷隆盛であっても無理なこと。ではその背後に何があったのか?それを調べていくうちに、無血開城のときに山岡鉄舟が立ち会っていたことを知った。山岡については、幕末の剣の達人で、弘法大師流の書の名人であり、志水の次郎長と意気投合したということしか知らなかった。なぜ一介の御家人が立ち上がったのだろうか?

実は、勝海舟は身動きの取れない自分の代わりに山岡に西郷と会うように頼み込んだ。山岡はその勝の意を受けて、江戸城無血開城の前に、駿府の官軍の陣営にいきなり乗り込んだ。しかも「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大きな声を出して堂々と入っていったという。そしてそこで西郷隆盛と会談。勝海舟から全権を預けられて山岡と西郷隆盛の会談がなった。そこでのやり取りはまさに真剣勝負。大きく撃てば大きく響く西郷。山岡の迫力と胆力に大きく響いた。そして、互いに譲歩をしあい、結果的には江戸城無血開城へと繋がった。西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と山岡を賞賛したという。

維新後、新政府に入り、西郷の願いで35歳のときに明治天皇の侍従として仕えた。しかし、西郷とは十年という約束をしており、45歳で皇宮を去り、維新で斃れた者の菩提を弔うために普門山全生庵を建てた。彼は、僧侶ではなく居士としての禅者であった。長徳寺願翁・竜沢寺星定・相国寺独園・天竜寺滴水・円覚寺洪川の下に参じ禅を究めていき、居士として天竜寺滴水から印可を与えられたる

そして満52歳を迎える直前(数53歳)に、胃がんで逝ってしまう。会葬者は五千人だったという。

山岡の一生涯は、西郷の言う「金も名誉も命もいらぬ」禅の居士であったと思う。だからこそ今北洪川(鈴木大拙の師)、高橋泥舟(山岡の義兄)らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設したのだろう。

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私も山岡の逝去した年齢を超えた。だからこそ、若くして逝った英雄山岡の生涯を見つめて彼の思いを受け止めてみたい。

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2017年7月15日 (土)

今日(7月15日)は何の日? 奈良時代の玄昉(げんぼう)僧正の忌日 「奈良時代の秘密を背負った傑僧」

今日(7月15日)は何の日?
奈良時代の玄昉(げんぼう)僧正の忌日
「奈良時代の秘密を背負った傑僧」

746年7月15日(旧暦天平18年6月18日)、筑紫(福岡県太宰府市観世音寺五丁目)の観世音寺別当である玄昉が遷化した。

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彼の俗姓は阿刀氏である。阿刀氏からは、玄昉の師匠の義淵、玄昉の弟子の善珠という法相宗の高僧が出ています。また、弘法大師(空海)の母方は阿刀氏で、この阿刀氏が真言宗の総本山東寺(教王護国寺)の勝手方(執事)を担ってきました。この阿刀氏の神社が東寺の東北にある石上(いそのかみ)神社。石上の本社は天理にある石上神宮。物部氏の神社です。ここから見ても分かるように阿刀氏は物部一族。怪僧として名高い道鏡は弓削氏出身ですがこの弓削氏も物部一族です。

物部といえば仏教排斥で蘇我氏と争ったことになっていますが、その物部と同族である阿刀氏は奈良から平安にかけての傑僧を出し、奈良の仏教界をリードしていました。物部が仏教を排斥したかどうかは別問題ですので詳しくは述べませんが、蘇我氏も含めて飛鳥時代から奈良時代の謎はいろいろあるようです。

そのなかでも際立って不思議な人物が、今日を忌日としている玄昉僧正です。

吉備真備と共に唐に二十年間留学し、玄宗皇帝により高く評価され、経論5000巻の一切経と数多くの仏像と共に帰朝した。聖武天皇の母君である藤原宮子の病を癒し、聖武天皇から絶大な信頼を得ることになった。
聖武天皇の皇后藤原光明子(光明皇后)の皇后宮(元藤原不比等邸宅)の隅に隅寺(すみでら)が創建されており、その初代となったのが玄昉である。隅寺は海龍王寺といい、留学生たちの安全を祈願するお寺にもなった。

(歴史的に見るとこの海龍王寺は留学や海外渡航する人たちが祈願する日本の代表的なお寺だと思っている)

余談だが海龍王の娘が善女龍王であり、弘法大師ととても縁が深いのは何らかの理由があろう。善女竜王の夫は牛頭天王であり、祇園祭の祭神。玄昉の忌日・弘法大師の忌日・祇園祭の祭日が、三日以内にあるのもまた面白い。

ところが、藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で藤原広嗣の乱を起こし、藤原仲麻呂が権力を握ると玄昉は筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に遷化した。

権力者によって排斥され、そのときにさまざまな噂を塗りつけられ、俗説が定説化してしまった人物の代表が玄昉僧正。記録が少ないので研究は大変であるが、時代背景を見直して、彼の事績を見つめ直すことは重要である。そこに大仏をはじめとする奈良時代の秘密が隠されているように思える。

玄昉僧正、今日はゆっくりと祈ってみようと思う。

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2017年7月14日 (金)

今日(7月14日)は何の日? 宇井伯壽師の忌日 「三河武士の如き仏教学の泰斗」

今日(7月14日)は何の日?
宇井伯壽師の忌日
「三河武士の如き仏教学の泰斗」

1963年(昭和38年)7月14日、日本の仏教学の泰斗、宇井伯壽博士が逝去した。享年満81歳。宇井博士は愛知県宝飯郡御津町(現在の豊川市)で1882年(明治15年)6月1日に生まれる。茂七という名であった。道号は活翁。

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十代前半で、現在の豊川市伊奈町にある東漸寺で出家し伯壽となる。曹洞宗の僧侶となった。優秀で住職より「「たとえわしの袈裟を質に入れても、お前は大学まで出してやる」と言われたという。現在の愛知中学・東洋大学京北高校を経て、東京帝国大学印度哲学科に入学。曹洞宗東慈寺(岩手県)の住職でもある木村泰賢東京帝国大学教授は同期であり、彼とともに高楠順次郎に師事する。高楠をして「これこそ本当のアルバイト(学術論文という意味)だ」と言わしめたが、木村が主席で宇井は次席であった。ドイツのチュービンゲン大学(ガルベ教授に師事)・イギリスのオックスフォード大学・ケンブリッジ大学などに留学。東京帝国大学から博士号を得、東京帝国大学や東北帝国大学で教鞭をとり後進を育成。
また僧侶としては出家した東漸寺の住職になる。ただし寺からの収入は全て弟子の育成に用いたという。

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駒澤大学学長にもなり、帝国学士院会員となり、文化勲章も受賞している。東京大学インド哲学の基礎を作った人物でもある。戦前・戦後に渡る日本を代表する仏教学者であり、中村元も彼の弟子。

『印度哲学史』『禅宗史研究』『仏教思想研究』『仏教思想の基礎』『仏教哲学の根本問題』『摂大乗論の研究』『仏教汎論,上下』『唯識二十論研究』『釈道安研究』『陳那著作の研究』など。

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伝統的な仏教学に対してヨーロッパの文献学を導入。サンスクリット・パーリ・漢訳の各経典論疏に対する多大な知識を用いて仏教思想とインド思想を研究した。また原始仏教の縁起説を論理学的解釈することを唱えるなど、多大の業績を残す。現代の仏教学の基礎を作り上げたひとりでもある。

三島由紀夫が『豊饒の海』を書くために宇井の『摂大乗論』などを読み込み、阿頼耶識を理解しようとしたのは知る人ぞ知る話。

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不思議なことに宇井の結婚の記録は全く残っていないらしく、結婚したのはおそらく留学から帰国の一年後くらいのことではないかと推測されている。年齢は15歳違っていた。

伯寿は、死ぬまで三河弁丸出しだったという。若いうちから禿頭であり、三河の田舎者そのもの。学風も質実剛健の三河者らしく、厳密な考証で一言一句も疎かにしない研究態度であったという。仏教学に一生を捧げた三河者。彼もまた三河武士のような人であったのかもしれない。

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2017年7月12日 (水)

今日(7月12日)は何の日? 鈴木大拙(すずきだいせつ)の忌日 「日本的霊性ZENを世界に広めた居士」

今日(7月12日)は何の日?
鈴木大拙(すずきだいせつ)の忌日
「日本的霊性ZENを世界に広めた居士」

昭和41年(1966年)7月12日、満95歳、鈴木大拙居士が逝去した。日本の禅を世界に知らしめた大功労者である。

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彼は出家者ではない。しかし、学生時代から鎌倉円覚寺の今北洪川や、その跡を継いだ釈宗演に参禅していた。今北洪川は在家仏教を称揚した禅僧であり、釈宗演は「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた初めての僧侶であった
鈴木は本名を貞太郎という。釈宗演は今北洪川の師である京都の相国寺の大拙承演と同じ名を貞太郎に授けた。鈴木は、本名よりも居士号である鈴木大拙として有名になっていく。。今北洪川は元々は江戸時代末期に私塾を開いていた在家者であったが『禅門宝訓』を読んで出家への思いを立ち難くなり、妻子を捨てて出家した人物である。その彼は在家仏教を大切にし、強く影響を受け今北洪川の師匠の名を得た鈴木大拙が出家することなく在家居士として活躍することになったのは面白い。

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鈴木は釈宗演に選ばれ渡米し、日本仏教の思想の中核をなす如来蔵の重要な典籍『大乗起信論』を英語訳して出版。『大乗仏教概論』など数多くの著述を英語でなし禅をアメリカに伝えた。帰国後は円覚寺に住み、学習院で英語を教えるようになる。釈宗演の下に出入りしていた神秘主義思想の神智学徒のベアトリス・レインと知己を得て結婚。彼女の力を得て日本仏教を英語に直し、大谷大学教授となり京都へ移住。英語で大谷大学より博士号を取得した。ベアトリスの影響で神秘学にも興味を示していた。だからこそ「霊性」という言葉を彼は多用したのかもしれない。「霊性」で臨済禅や浄土を理解しようとした稀有な存在でもあった。妻が先立ってからも積極的に海外に出かけZENを布教して回る。

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彼が居なければ欧米にこれほどZENが有名になることはなかったであろう。また禅にともなう日本文化も彼を通して世界に広まったと言っても過言ではない。
日本仏教の居士として世界を駆け巡り日本仏教、特にZENを広めた功績は多大である。世界規模で見たら、二十世紀最大の仏教徒の一人に挙げられるのではないだろうか?

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今日は鈴木大拙の本を読んで、日本的霊性を見つめてみようと思う。そして彼の師匠である今北洪川と釈宗演を見つめてみたい。ここに今の僧侶の進むべき道のヒントがあるように思えてならない。

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2017年7月 6日 (木)

今日(7月5日)は 天台僧 源信師の千周忌 阿弥陀浄土への純粋な信仰者

今日(7月5日)は何の日?
天台僧 源信の忌日 (太陽暦に換算) 
「今日2017年(平成二十九年)7月6日は源信の千周忌に当たる」

今日からちょうど千年前の1017年7月6日(旧暦寛仁元年六月十日)、天台僧で、阿弥陀信仰が深かった源信が数え76歳にて遷化。阿弥陀如来像の手に糸を結びつけ、その先を自らの手に結び、合掌しながら入滅したという。

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源信は、比叡山中興の元三大師良源の弟子であった。村上天皇より法華八講の一人に選ばれるほどの俊才であった。しかし、信仰心篤き母の諌めもあり、横川の恵心院に篭って、ひたすら阿弥陀信仰の道を極めるようになる。師匠の良源が死の床についた時、源信は『往生要集』の執筆にかかった。良源が示寂した翌年、脱稿する。その真摯な阿弥陀信仰の姿勢を高く評価され時の権力者の内覧左大臣藤原道長からも帰依を受け権少僧都を受けたが、翌年には辞している。恵心院の権少僧都となったことで恵心僧都とも呼ばれるようになる。

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『往生要集』は浄土宗や浄土真宗の教書でもあるが、書かれている内容は単純な称名念仏ではない。観想念仏が非常に重要視され、浄土教として天台宗から独立しようとしたいとはまったく見受けられない。源信は、むしろ止観業や遮那業といった天台の教えの延長線上に浄土教を置き、それに専修していた。

『往生要集』は地獄極楽や欣求浄土厭離穢土を平安の世に広めることになる。平安中期から阿弥陀浄土信仰が急速に広まった一因でもある。また北宋(中国)に逆輸入された貴重な一緒でもある。

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結果的には、この書に触発された法然上人や親鸞聖人とその弟子たちが浄土教を大成させていき、またその他の各宗派に多大な影響を与えたのは間違いない。念仏と密教を両立させる動きもあったほどである。

源信の戒名の一文字である「源」の字は、法然上人の戒名である源空、その師匠である源光、また尾張徳川家の代々の戒名にも源(浄土宗であり源氏であることも意味しているか?)の一文字を使っていることは興味深い。

今日は源信の千周忌。「南無阿弥陀仏」の称名念仏をしっかりとお唱えし、源信の純粋な信仰を感じてみようと思う。

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2017年6月26日 (月)

今日(6月26日)は何の日? 伝教大師最澄最澄師の忌日 「最も澄んだ源流の大乗仏教僧」

今日(6月26日)は何の日?
伝教大師最澄最澄師の忌日
「最も澄んだ源流の大乗仏教僧」

822年6月26日(旧暦弘仁十三年六月四日)、伝教大師最澄が比叡山にて遷化。享年数え五十六歳(満54歳没)。

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伝教大師はその名の示すように最も澄んだ方であったように思う。だからこそ後進の弘法大師(空海)に対しても弟子の礼を取ることができたのであろう。そして最も源流の澄んだ方であったからこそ、弟子たちはそれぞれの流れを作ることができたのではないだろうか?鎌倉仏教が花開いていったのも、この最澄師の最も澄んだあり方が基底にあるように思う。円仁・円珍・栄西・法然・道元・親鸞・日蓮等、大きな川を作っていった。

先日調べていて知ったことがある。最澄・比叡山・延暦寺は基本中の基本であるが、実は延暦寺という名前を伝教大師はつけていない。第十代崇神天皇七年に日枝山の山頂から現在の日吉大社に大山咋神が移され、天智天皇七年(669年)には大津京の守護神として奈良の三輪山大神神社より大物主神の分霊を日吉大社の場に勧請された。伝教大師は、その日枝の山に延暦七年(788年)に寺院を建立した。現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。延暦寺の名は伝教大師が遷化されて一年後に勅許されている。つまり伝教大師生前中は一乗止観院が正式名であり、延暦寺は存在していないことになる。これには驚いた。
ちなみに高野山の金剛峯寺は弘法大師自身がつけた名前であり、東寺を教王護国寺と名付けたのは後世の人である。

いずれにしても最澄という人は、純粋に純粋に法華一乗を追い求め、常に経典と向かい合い止観を極めて行った人であることは間違いない。そしてその澄んだ思いが、数多くの傑出した僧侶を輩出していったのであろう。

今日は伝教大師の追福菩提を祈りたいと思う。

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2017年6月22日 (木)

今日(6月22日)は何の日? 高田好胤師の忌日 「昭和の傑僧の知恵」

今日(6月22日)は何の日?
高田好胤師の忌日
「昭和の傑僧の知恵」

「究極の語りのエンタテイナー」といわれ「話の面白いお坊さん」と評判になられた高田好胤師が平成十年(1998年)6月22日に遷化された。享年数七十五歳。

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檀家がなく、荒れていた興福寺とともに法相宗の本山である薬師寺の再興のために、三つの方法論を用いられた。

1)分かりやすい説法
訪れた修学旅行生に直接語りかけた。また各地で講演をし、数多くの著述をして布教に努められた。

2)仏像の出開帳
薬師寺の日光菩薩や月光菩薩など、国宝級の仏像を出開帳して、多くの方々に拝んで頂き、衆目を集められた。

3)般若心経の写経
これこそが高田師の最も有名な活動。多くのお寺もこれを真似るが、オリジナルの薬師寺は今もシステム的に最も優れていると言って良い。

高田師は20世紀の傑僧であったのは間違いない。学ぶべきことは多数ある。こうした世間的な活動だけではなく、玄奘三蔵法師から基法師をとおし奈良時代の仏教界を牽引した瑜伽行唯識(法相)の教えを内面化された事実も見逃せない。

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今日は高田師の説法をYoutubeで聴いて、内面の深化と、外への広報の両面から学ぼうと思う。

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2017年5月19日 (金)

今日(5月19日)は何の日?「 国語学者金田一春彦博士の忌日」 強く願うと道が拓ける ”四声点の手がかり”

今日(5月19日)は何の日?

国語学者金田一春彦博士の忌日
テーマ「強く願うと道が拓ける ”四声点の手がかり”」

昭和16年(2004年)5月19日のこの日、国語学者の金田一春彦博士が逝去した。マスコミなどにも顔を出し、国語学者の中では抜群の知名度を誇ったのではないだろうか?あの穏やかな口調も印象的である。岩波新書の『日本語』など数多くの著書を著している。、

金田一博士の詳しい略歴はwikipediaでも見てもらうとして、東京外国語大学助教授時代に博士号を東京大学でとったときの論文に注目したい。
『四座講式の研究』
四座講式とは栂尾明恵上人が作ったと言われる声明(仏教音楽)。釈尊の徳を慕う想いを表したもの。真言宗では涅槃会(常楽会) に一晩掛けてうたわれる。
この研究が基になって金田一博士はポリドールから真言宗の仏教音楽のレコード『真言声明』を監修し、レコード部門芸術大賞を受けた。
また密教学芸賞をも受賞している。

個人的なことだが、何も知らずに一昨日から弘法大師(空海)の『文鏡秘府論』を読み始めていた。漢詩の作り方の辞典である。弘法大師の著述のキーワードの一つが漢詩であり、漢詩を作って読み解きたいと思ったからだ。『文鏡秘府論』なかなか難しい著述で、特に四声店は手がかりがなかなかつかみにくい。なにか良い本はないかと思っていたら、金田一博士がその四声点(漢字の発音の仕方)の権威であることを知った。これはありがたい。博士の著述を手に入れて明恵上人や高祖弘法大師の思いに触れてみようと思う。

強く誓願すると道は拓ける

金田一博士の略歴を調べていて、改めて感じた。

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