2019年9月 7日 (土)

他者と何が違うのか? ある田舎真言坊主の独白

他者と何が違うのか?


少し、自問した。


すると、高校時代に大きな転機があったことが分かった。

父が単身赴任海外出張していたバンコクを訪ね、貧民街を伯父と二人で歩いてから人生観が変わった。

それまでは全くの理系で、人を相手にすることが苦手だった。ところが、その貧民街を歩いて、自分の持つ視野の狭さに躓いた。心の奥底に眠っていた自分が目覚めてしまった。

そんな時、本を読む機会が増えた。和訳だがギリシア古典を読むようになり、ついには哲学書に手を出してしまう。ハイデガーだった。さっぱり分からなかったが、読破して喜びを感じる。

そこから、キェルケゴールや、ショーペンハウエルなどの実存系の哲学書にはまっていく。しかし、読めば読むほど、奥底の声が違うと叫んだ。

聖書を読み始めた。旧約から新約を読み始めふた回り読破した時、ヨブ記の特異性に惹かれていった。

そんなある日、本屋でカール・ヒルティを知る。嵌ってしまった。法律学者であり政治家であった彼の根幹は聖書であった。『キリストにならいて』を彼を通して知り、愛読書とした。今思うと恥ずかしながら、パン屋で種無しのパンを焼いてもらい、ワインを買ってきて、一人でイエスを想い、食をしたことも数度ある。

それから、本だけではなく、宗教関連施設を訪ね、僧侶や神父、牧師を訪ねていくようになった。

その途中で、京都国立博物館で初めて曼荼羅(伝真言院曼荼羅と高雄曼荼羅)を見て、時間を失った。一時間、経っていたが私には1分も感じていない状況だった。

弘法大師への思いが募り、高野山に登ってしまう。


私の基本は、この頃にあった。乱読とは言え、多くの西洋古典や西洋哲学書を読んだ。ヒルティの影響が強く、カントやギリシア古典を多読した。聖書を何度も読んだ(通読はニ回)。その時の読書が、その後の密教理解にとても役立った。むしろ、密教を理解するための訓練を、カントやギリシア古典・聖書を通しておこなっていた。これも今思えば、私という自我を形成するために必要な過程であったと思う。

咀嚼する牙は西洋哲学やギリシア古典・聖書によって磨かれていた。


ヒルティを久しぶりに手に取った。岩波の『幸福論』は五冊は買っている。それくらいボロボロになるまで読んだ。書き込みもした。彼の全集も手に入れ、『幸福論』はドイツまで行ってドイツ語まで手に入れ、気になる単語の元の単語を調べるようにもなっていた。そして、いつのまにか、密教という牙でヒルティを読むようになっていた。


このところ、お寺の住職として、流れに流されている感が少なからずあった。

久しぶりのヒルティはそれを元に戻してくれた。


あの時の、心の奥底からの情熱を改めて見つめると、恥ずかしいが、やはり相当な熱量であったと思う。方向も間違ってはいなかった。もう一度、その流れの基本を見直す機会を得たように思う。


明日から変わるわけではない。


しかし、大きな大きな流れの中で生きている自分の個性を見つめ直せたことは大きい。

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2019年6月25日 (火)

形式的な宗旨よりも信仰心

広く深い信仰心を持つ人は匂いでわかる。
宗旨宗派を超え手と手を取り合える。

それは人知を超えた感覚。
互いに補完しあえる、
いわゆるオーラや使命があるのかもしれない。

宗派が同じであることよりも、
信仰心の広さと深さを
分かり合える人の方が
心地良い。

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2019年5月31日 (金)

若き日の思い:世俗的な欲望に背を向け、天上の深奥の流れに乗って出家し、いまもまた歩み続けています

若き日の写真を見つけました。若き日のメモを見つけました。若き日の写念仏を見つけました。

高野山に登ると決意したとき、出家を決意したとき、高野山を降りて塾に就職したとき、その塾をやめるとき、止むに止まれぬ思いが身体を駆け巡りました(その思いは一種の狂気なのかもしれません)。

そこには世間的な出世心や金銭的な欲望や単純な知的欲求はなく、遙かなる天上から、深奥なる内なる世界から、その両者から溢れ出てくるエネルギーが私を突き動かしました。そして今もそのエネルギーに乗って生きています。

そのために、ときには世間的な常識から外れることもあります。また世俗的な楽しみが、あまり好きではありません。飲む打つ買い、他者を支配するという世俗的な欲望を理解できません(理解したくもありませんが)。

真言密教の法で祈り、その教えを受け納得し、気付き、目覚め、感じ、体得することほど面白いことは私にはありません。そしてその一端を周りに伝え、共に歩む人と手を携えて歩み、一人でもほんの少しでも共鳴していただくことが至高の喜び。今はただそのために動いています。

寺子屋も、
環境省登録環境カウンセラーも、
中日文化センターの講師も、
ロータリー活動も、
徳川宗春卿のことも、
異宗教間対話も、
すべてが私にとって真言密教という大きな道の中のこと。

こうした道は誰にでも開かれたものではありません。ですから理解してもらえないことが多くあります(残念ながら表面的なお坊さんほどわかってもらえません)。

それでも私は今の道を歩んでいきます。
共に歩もうとする人がいる限り。
私から何かを感じ取っていく人がいる限り。

来月の半ばには、得度して丸34年を迎え、35年目を歩むことになります。あのときの深き強き思いを見つめ直し、その大きな流れに改めて感謝したくなり、こうした投稿をしました。

 

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2019年1月26日 (土)

「他山の石」  あれ?なにか変。よくよく見ると・・・

「他山の石」

ある真言のお坊さんが、画師に仏画を描いてもらったそうです。その仏画をネットで拝見。説明では胎蔵大日如来と公言されれていました。

しかし・・・あれ?なにか変。よくよく見ると・・・

・身体の色が白色
・月輪の中に蓮華が描かれる
これは金剛界大日如来のもの

胎蔵大日は
・身体は肌色・・・または黄金色
・蓮華の上に月の輪が載っている

もししこの絵のとおりならば、それは胎蔵大日ではなく、仏眼(胎蔵大日が金剛界の三昧に入る)とするのが正確です。

また細部ですが
・八葉白蓮華ではなく五色の多弁の蓮華
・宝冠が単純すぎる
これは如法に描かれていない

素人がこうした物を作るのは仕方がないと思うのですが、プロが喜んでいるのを見ると悲しくなります。

だからといって。知己ではない方の物ですから直接にお伝えすることはできません。

またそれを描いた方も、描いていただいた方も喜んでおられるので、一概に間違いだと糾弾することもできません。

なんとなく過去の一字金輪や仏眼など、いずれかの作品を真似ているのでしょう。

こうした作品を作る場合、自分勝手に作るのではなく、仏画や仏像に秀でた方にアドヴァイスを頂くことはとても重要に思えます。

仏像や仏画に限らず、あらゆる分野で自分勝手に物事をする方が増えています。

知っていて省略するのと知らずに省略するのとは大きく異なります。

私自身、その作品を見て、顧みて、知らずに省略したり真似たりしてはいないかチェックしたいと感じました。

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2018年11月 8日 (木)

奥義を得るには

誰もが奥義に達するわけではない。
またあるレベルの犠牲や努力もなしに、
奥義は得られない。
しかも奥義は言葉では伝わらない。

シンボルを体得すると、
時や場所を超えて
奥義は目の前に現れる。

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2018年11月 7日 (水)

師が弟子を選ぶのではなく弟子が師を選ぶ

最近の密教に危機を感じています。それは、伝えられる者があるレベルの犠牲や努力を払って求めるものであり、伝える者が公募して教えるものではないからです。

「師匠が白いものを黒いと言ったら弟子はそれを受け入れなくてはならない。しかし、白いものを黒という師匠は問題。白いものを白いと言える師匠を選ぶべき。師匠が弟子を選ぶのではなく、弟子が師匠を選ぶもの。」
これは我が師が、密教の師弟関係を述べたものです。本当にこれは大切なことです。

ところが最近の傾向として、この人に学びたいということで、入門したり伝授を受けたり、受講することが少なくなってきました。資格要件があるとは言え公募された学院や伝授会・講義伝で学ぶことが殆ど。こうした公募されたものの中では、一人一人の機根(能力や縁)に合わせて、師匠は特殊な言葉を使うことができません。あくまでも汎論的な表現にとどまり、一人一人の奥深くに届く象徴を用いにくいのが現状ではないでしょうか?

多人数で学ぶのではなく、少人数で学ぶ。こうした機会が減っていることが、真言宗や天台宗の弱体化に繋がっているように感じます。
真言や天台の教えが弱まっているのではなく、それを受け継ぐ者の意志が弱いというのが根っこのように思います。

仰ぎ願わくば、各寺院のご住職方がもっと門戸を開いて少人数の教えを伝えていける体制が欲しいところです。
さらに受け継ぐ者は犠牲を払ってでも受け継ぎたいという思いを強くて持つことが肝要です。

師弟教育を考えた時、こうした根本を見忘れたくないものです。

繰り返します。密教の教えが弱くなったのではありません。それを受け継ぐ者の意志、ここに問題があります。

我が師は、今でも月に一回、ご自宅で少人数の輪読会を開いてくださっています。これに参加するには、時間をかなり割かなければなりません。時間的にも経済的にも労力的にも大きな犠牲を払い、我が師匠に学びたいと強い意志を持ってこうした会に積極的に参加しているメンバーには深く敬意を覚えますし、それぞれがしっかりと尊敬すべき活動をしているのも事実です。そして何よりも、一人一人の参加者を深い懐で見守ってくださり、受け入れてくださる師匠には、心の底より感謝しています。

こうした場が、世界のあちこちで営まれること、祈るばかりです。

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2018年9月20日 (木)

定期的な祈りは何故必要?

高家寺では毎月21日の月例弘法大師報恩日としてお祈りをしています。

毎月、何故に定期的にお祈りをするのでしょうか?

私たちは現実世界の中で生活しているからです。現実世界では、煩悩の泥の中で生きて行かねばなりません。
その泥に汚染されずいるためには、定期的な浄化が必要です。部屋を使えば必ず部屋は汚れるので、掃除が必要であるのと同じです。

お坊さんは毎日の祈りで、浄化しています。ただなかなかそれは檀信徒には難しいもの。

だからこそ、檀信徒の方々には、せめて月に一度は、祈りで浄化してもらうことが最大の狙いです。

また、皆で祈ることで自分一人ぼっちではないということを感じてもらいながら、浄化をしてもらいたい、というのが高家寺の月例弘法大師報恩日の狙いの一つです。

その浄化とともに、ご縁のある方々の菩提を祈ることができますので、これもまた狙いの一つです。

高家寺に限ることではありません。ご縁のある寺社に定期的に訪れて、普段の生活の煩悩というドロを浄化されてはいかがでしょうか。

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2018年3月 8日 (木)

知ると知らざると・・・「富貴について」

28783677_10213417394581012_22128992 あるお茶人との対話で思うことあり。「富貴」という言葉

、単発で見ると、お金が多いとか貴族であるとか、そんな

下世話な意味に取れる。しかし、『論語』を知る者には、

「死生有命・富貴在天」という言葉が浮かび、下世話な話

とは全く異なる次元の意味が汲み取れる。

知ると知らざると、どちらが大きな間違いがあるのか?

私たちは知らないことが多すぎる。一生かけて学び続けて

いくからこそ、それまで見えない世界が見えて来るように

思う。

ちなみに写真の大日如来。気づく者、知る者には足元にあ

る仏像にも注意がいく。金胎両部。これも知る者のみ解る

こと(^。^)

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2018年3月 2日 (金)

空を見て独白  煩悩もまた慈悲

空を見て独白(^。^)
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雲一つない天気。昨日の嵐から一転、穏やかな日。真っ青というよりは、やや春霞がかかっている。霞は優しさを生む。
密教では雲や霧は煩悩の象徴だが、慈悲と観ることもある。なぜ煩悩が慈悲なのか若いうちは理解しがたいと思っていた。歳を重ねると、自然現象の霞にその意味を見出せるようになった。煩悩は優しさに繋がる。煩悩もまた昇華すれば菩薩の位でありうる。
最近はなんでも公開とか一方では個人情報とか両極端にすすんでいるが、密教の目から見ると両極端は戯論に過ぎない。世の中は、理想と現実の両方が絡み合って動いている。どちらか一方に寄るのではなく、どちらも包み込むような生き方をしていたいものだ。
若い頃、喧嘩っ早かった自分が微笑ましい(。-_-。)

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2018年2月28日 (水)

不動護摩 諸尊諸神の威徳を思う

Homa20180228 平成30年2月28日の不動護摩。
平成7年9月から毎月焚き続けている。
自分一人で祈る護摩もあるが、信者さんと共に焚く護摩も、約270回ほどになった。
その間、色々と工夫を凝らしてきた。その間に、浪切不動尊の御分身を祀るようにもなった。
お厨子も不思議なご縁でやって来た。
向かって右側に祀る日本の神々の大麻も美濃の旧家に祀ってあった御社を頂いて祀った。サイズも偶然にぴったりであった。
護摩が終わり、信者さんも帰られ、独り護摩堂で佇みながら、しみじみと、変化してきた日々を振り返った。
護摩堂に居てくださる御本尊はじめ諸尊諸神の誓願や威徳を思いつ、本堂をあとにした。

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