2019年5月31日 (金)

若き日の思い:世俗的な欲望に背を向け、天上の深奥の流れに乗って出家し、いまもまた歩み続けています

若き日の写真を見つけました。若き日のメモを見つけました。若き日の写念仏を見つけました。

高野山に登ると決意したとき、出家を決意したとき、高野山を降りて塾に就職したとき、その塾をやめるとき、止むに止まれぬ思いが身体を駆け巡りました(その思いは一種の狂気なのかもしれません)。

そこには世間的な出世心や金銭的な欲望や単純な知的欲求はなく、遙かなる天上から、深奥なる内なる世界から、その両者から溢れ出てくるエネルギーが私を突き動かしました。そして今もそのエネルギーに乗って生きています。

そのために、ときには世間的な常識から外れることもあります。また世俗的な楽しみが、あまり好きではありません。飲む打つ買い、他者を支配するという世俗的な欲望を理解できません(理解したくもありませんが)。

真言密教の法で祈り、その教えを受け納得し、気付き、目覚め、感じ、体得することほど面白いことは私にはありません。そしてその一端を周りに伝え、共に歩む人と手を携えて歩み、一人でもほんの少しでも共鳴していただくことが至高の喜び。今はただそのために動いています。

寺子屋も、
環境省登録環境カウンセラーも、
中日文化センターの講師も、
ロータリー活動も、
徳川宗春卿のことも、
異宗教間対話も、
すべてが私にとって真言密教という大きな道の中のこと。

こうした道は誰にでも開かれたものではありません。ですから理解してもらえないことが多くあります(残念ながら表面的なお坊さんほどわかってもらえません)。

それでも私は今の道を歩んでいきます。
共に歩もうとする人がいる限り。
私から何かを感じ取っていく人がいる限り。

来月の半ばには、得度して丸34年を迎え、35年目を歩むことになります。あのときの深き強き思いを見つめ直し、その大きな流れに改めて感謝したくなり、こうした投稿をしました。

 

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2018年9月20日 (木)

定期的な祈りは何故必要?

高家寺では毎月21日の月例弘法大師報恩日としてお祈りをしています。

毎月、何故に定期的にお祈りをするのでしょうか?

私たちは現実世界の中で生活しているからです。現実世界では、煩悩の泥の中で生きて行かねばなりません。
その泥に汚染されずいるためには、定期的な浄化が必要です。部屋を使えば必ず部屋は汚れるので、掃除が必要であるのと同じです。

お坊さんは毎日の祈りで、浄化しています。ただなかなかそれは檀信徒には難しいもの。

だからこそ、檀信徒の方々には、せめて月に一度は、祈りで浄化してもらうことが最大の狙いです。

また、皆で祈ることで自分一人ぼっちではないということを感じてもらいながら、浄化をしてもらいたい、というのが高家寺の月例弘法大師報恩日の狙いの一つです。

その浄化とともに、ご縁のある方々の菩提を祈ることができますので、これもまた狙いの一つです。

高家寺に限ることではありません。ご縁のある寺社に定期的に訪れて、普段の生活の煩悩というドロを浄化されてはいかがでしょうか。

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2017年8月18日 (金)

縁は目に見えない 目に見えない縁が目に見える現象となる ご縁に感謝の祈りを捧げ続けていきたい

一人一人が祈る姿は美しい。
祖先を中心としたあらゆるご縁のある方々やあらゆるご縁のある物事・出来事への祈り。
縁は目に見えない。しかし縁は無いわけではない。目に見えない縁が、目に見える形に顕れたのがこの現象世界。
だからこそ、目に見える儀式で、目に見えない縁に祈りを捧げることも大切。その祈り縁に作用し、一人一人にまた影響を及ぼす。
縁を知るものと知らぬものとの差は少なく無い。

周りを見ると、祈りを忘れた人々が増えた一方、祈りを大切にする人々も増えているようにも思う。この両極化が何を意味するのかは分からない。

できれば一人一人が、見えない縁に感謝の祈りを捧げ、目に見える現象世界がより気持ちの良い世界であって欲しい。
そのための祈りと活動と発信を続けて行きたい。
(^ ^)

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2017年4月17日 (月)

今日は何の日? 平成29年(2017年)4月17日=旧暦3月21日は真言高祖弘法大師(空海)の入定日。 承和2年(835年4月22日)のこと。 

今日は何の日?

旧暦3月21日
真言高祖弘法大師(空海)の入定日。
承和2年3月21日(835年4月22日)のこと。
高野山では壇場伽藍御影堂に入ることができる。

今日は未明(四時頃)に、
自坊の大師堂で金剛界立ての大師法を修す予定

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2016年12月13日 (火)

真言密教はインド密教そのままではない。中国さえも飲み込んで日本で独自に発展

「真言密教はインド密教そのままではない。
 むしろインドではなし得なかった深みを身に着け
 それを弘法大師が真言密教として練り上げた」

ある講義を聞いて感じたことのほんの一部。
あまりにも膨大な内容なので
今 ここに すべてを書けない(^^;
それゆえにほんの僅かな感想を。

***
最近、密教と言うとチベット仏教が表に出る。
チベット仏教は
ナーランダやヴィクラマシラーという
インド仏教大学の直系と意識が強い。
そのまま受け継いでいるからだ。
しかしそれは源流であり
学ぶべきものではあるが
日本の真言密教が受け継ぐものではない!

ナーランダやヴィクラマシラーという
インド仏教大学の直系の教えの流伝には
もうひとつの流れがある。
それが中国へ渡り、
当時世界最大の都市であった長安で練りに練られ
密教は中国哲学をも飲み込んだ。
そして出来上がったのが日本へ渡った真言密教。
インドの思想と中国の思想という
二つの巨大な思想を飲み込んだ。
インド仏教ではなし得なかった成長をし
その教えを弘法大師は日本へ運び
より深化させた。

その教えの深淵は Samaya(三摩耶)

あえて、私は言いたい。
「日本に伝えられた日本密教は
 インド・チベット仏教をも遥かに凌駕した教えである」
と。

ごめんなさい。これ以上は書けません。
講義の中の100分の一も書けていません(^^)
***

約三十年ぶりに
ある先生の講義を受けた。
ショックであった。

文献学者でもあった先生が
自らの体験の中で
文献学を遥かに超えられていた。
先生の求法が
肌に取るように感じさせられ
そして深く深く心に染み渡った。

思わず、我が師匠までもが
身を乗り出され
最後には最大限の賛辞。

誰でも理解できるような内容ではなかった。
しかし、真言の教えを一通り学んだものならば
今回のお伝えいただいた内容は
強烈なインパクトを持つはずだ。
師匠の会に参加している者は幸いである。
心より打ち震える感動であった。

これでまた祈りの時間が変わる!
心から感謝したい。

いまはまだこのお話を
敷衍する時期ではないようなので
内容については書けないが、
いつか先生がこれを御自らのコトバで語られるはず。

その時まで待って欲しい。

自動代替テキストはありません。

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2016年3月27日 (日)

#偶像崇拝 と #仏像 #仏画 について雑感 仏教のそれらは真理の一表現

偶像崇拝と仏像・仏画について雑感
初期仏教では仏像や仏画を偶像崇拝として基本的には認めていませんでした。ところがガンダーラやマトゥラーで仏像が作られてからは一転して仏像や仏画が制作され、崇拝の対象として変化していきました。

では仏像や仏画に対しての崇拝は偶像崇拝なのでしょうか?

おそらく大乗仏教初期の僧侶は相当悩まれたと思います。しかしその悩みを突破され、仏像や仏画を上手に内に取り込んでいかれたようです。

その一例として、もっとも多くの仏像や仏画を扱う密教の立場でものを見つめると、ありとあらゆるものが大日如来の表現の顕現です。特に仏像や仏画は、お姿や持ち物、色に深い意味が込められています。

弘法大師(空海)は、お経を始め仏の教えを人の姿で表したものが如来や菩薩であるとまで言い切って居られます。

つまり、仏像や仏画はこの世の真理を形として表したものであり、単純な偶像ではないということです。その仏像や仏画を通して、その奥にある真理に祈りを捧げるのが、本来のあり方ということになるでしょう。

心ある、真言行者はこのことを深く理解しています。単純に仏像や仏画そのものをありがたがることはありません。

あたかもその仏像や仏画が神さまのごとく祈りを捧げると、そこにあるのは天部の欲望に満ちた神さまである可能性が強く出てきます。

あくまでも仏像仏画は真理の表現。

だからこそ、一つ一つの仏像や仏画が表現しているものは大切。そのお姿が心の琴線に触れるほど優れている場合は、真理そのものにつながりやすいのだと思います。その意味でも仏像や仏画を大切にしたいものです。

仏像や仏画は単純な偶像崇拝ではありません。

補足ですが、密教では古代インドの習俗を取り込んでいます、その習俗をそのまま認めるのではなく、大乗仏教の哲学を付与し、習俗そのものをおこなうことで大乗仏教が身につきやすいように工夫をしています。仏像や仏画も、こうした考え方が原点にあり、偶像崇拝に仏教哲学を付与して、偶像崇拝ではなく、真理への到達のための良い意味での大切な道具にしたのかもしれませんね。

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2015年1月14日 (水)

二者択一の疑問を包み込む度量を身につけたい

おはようございます。今朝は一時半に起きて沐浴して本堂に。一時間十分の修法と二十分の勤行。そしてもう一度シャワー(このおかげで寒さから逃れています)。
今日は後七日御修法の結願日。うちの檀信徒数名と共に京都東寺に出かけます。このところ十年近く毎年行っているので恒例になっています。真言宗の最高法儀。その後拝みは、やはり行かねばと思い・・・
今回は非常に悩みました。大学の恩師が大学で最終講義だからです。ギリギリまで悩みました。一度はカミさんに任せることで決まったのですが、昨年末の朝の祈りの際に、疑問が涌いたのです。
最終講義は私個人の恩。
御修法は檀信徒とともに住職としてのもの。
真言宗の最高法儀の日に、真言宗の宗門大学でなぜわざわざこんな日に最終講義?大学の事務方に聞いたのですが、明確な答えをいただけませんでした。
恩師には申し訳ないのですが、私は御修法を選びました。後日お詫びの手紙を書くつもりです。弟弟子が最終講義に行くので、そちらは彼に任せようとも思います。
いろいろなことに気づき始めると、いろいろな疑問が生じてきます。それを包み込む度量は今の私には欠けています。二者択一の場合、どうしても天秤にかけてしまうからです。しかし、少しでも疑問を内に抱えつつ、それを徐々に紐解きながら前に進みたい、そう願ってやみません。

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2014年11月25日 (火)

松長有慶『高野山』岩波新書を読んで 感想ザックリと

師匠である松長有慶先生の『高野山』(岩波新書)を
読んでのざっとした感想です。

高野山の通史は知っているようで知らないことが多く
良い学びになりました。

改めて感じたのは、真言僧侶とって
高野山の寺院は樹木の幹のような存在。
私たち地方寺院は枝葉。
幹には実は付きませんが
幹が太くなければ枝葉も広がりません。
枝葉は光合成のエネルギーを幹に送り
幹は大地からのエネルギーを枝葉に送る。
お互いがお互いの役目を果たして
一本の木が生き生きとするもの。
高野山のご住職や跡継ぎの方々の
大変さを思い知るとともに
祖山という大地から
私たち枝葉に送って頂いていること
改めて感じました。
実を付けないからと
非難する地方寺院もあるようですが
祖山には祖山の役目
地方寺院には地方寺院の役目があり
その両者が揃ってこそ曼荼羅が成立するもの。
どちらがどうのではなく
共にお互いを思いやって進んで行かなくてはと
改めて感じさせられました。
曼荼羅宗としての心構えを
再認識させていただきました。

また、これ一冊で、案内人ができます。
逆に言うと一般の方々で
この本を読まれている方々がおられることを
私達真言僧は知っておかねばならないとも言えるでしょう。
今以上にしっかりと学ばねばなりません。

真言宗の歴史とも重なりますので
高野山真言宗以外の真言宗の方々にも
ぜひ読んでいただきたい一冊です。

余談ですが来年の1200年の団体参拝時に
参加者全員に配ろうと思います。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004315085…

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2014年8月 2日 (土)

表面的には同じでも、中身が全く異なる・・・集団的自衛権をめぐる発言

あるSNSと、宗教関連のメディアを見ました。一方は、東大の元教授として原発問題を始め今の日本が抱える多彩な問題をずっと正面に見据えて発言を続けられている島薗進上智大学教授。一方は、某寺院のある宗団の役職の方。
お二方とも同じように集団的自衛権に疑問を呈する意見表明をされています。
ところがお二方の文章を読むとなにか全く別のことを言っているように感じてしまいました。 島薗先生は、学者らしく歴史的にも、実際に起きている現象をも見つめられての意見表明。私自身の意見を整理するためにもとても貴重な見解を示されています。そこにあるのは単純に賛成とか反対ではなく、生きる根源とは何なのかを見つめられてのもの。毎回毎回、本当に考えさせられています。
一方は、現役の僧侶。平和を守るべきであり、集団的自衛権に反対を表明されています。至極まっとうなことを言っているのですが、なにか上滑り。なぜこのような人の意見を載せる必要があるのか分かりませんでした。いろいろ調べてみると、このかたは、この方の宗内での対立の一方の急先鋒で、正義を振りかざし相手を糾弾し続けているという方であることが分かりました。僧侶とは僧伽サンガ、すなわち和合衆。仲良く平和に暮らす集団のこと。それにもかかわらずこの方は、宗派内で対立を起こして、一方では正義の名のもとに平和を訴えるという矛盾を大きく抱えていました。だからこそ文章を読んでも心に響かなかったのでしょう。この方の文章を宗教系のメディアが載せたのも、その宗派内での争いの延長なのかもしれません。この方だけでなく、同じように反対を単順に表明されている方々が多数いることも、最近知りました。
大乗仏教は二極を否定します。賛成とか反対とか、単順に割り切る考えは大乗仏教的ではありません。大乗仏教の僧侶はもっと総合的に物事を見つめ、現象ではなくその考え方の根本にメスをいれるべきのように感じます。
では、「お前はどうなのか?」と問われれば、私は現政権を擁護する気はありませんし、今回の政権の行動には疑問を持っています。しかし単純な反対論者ではありません。何かの機会に、どこかで表明できればと思っています。

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2014年7月16日 (水)

遊歩和尚のつぶやき「組織の目的って何?300年ほど前に徳川宗春公が藩士たちに警告していたこと」

遊歩和尚のつぶやき「組織の目的って何?300年ほど前に徳川宗春公が藩士たちに警告していたこと」

今日の午前中はある組織への加入のお誘いを受けました。午後には既に属している組織からの通達事項がありました。一日を振り返り、ふと感じたことがああります。

主婦というオリジナルカテゴリーを持つ女性はそうでもないのですが、男性の多くは組織に属することを望むことが多いようです。

政治でも国や党や派閥に属し、宗教でも宗団に属し、会社や公共団体という組織、組合という組織、町内会という組織。とにかく色々と考え組織を作っています。

それは独りではできないことを組織的にすることに便利ならしめるためであり、より効率的に、互いに助けあうためのものであるはずです。ですから組織は、時には大いなる力を発揮します。

しかし、この組織も硬直化するとどうなるかというと、個人を縛り上げ、本来の目的とは全く関係のない組織の維持という別の論理が飛び出してきます。そうなると本来の組織を作った目的は後退し、逆に個人を苦しめたり、他を支配するために便利なものへと変貌していってしまいます。権力闘争が生まれ、組織としての最初の目的は失われてしまいます。

しかしその組織を本来の姿に戻そうには、力も知恵も、相当なものが必要です。独りや少人数では到底できることではありません。改革をするためにと、最初のうちは良き思いで進んでいくのですが、権力を得るたびにその思いは現実に押しつぶされていき、いつのまにか自分は自分が批判してきた人々よりもより一層硬直化した考えになってしまうもの。

それを尾張七代藩主徳川宗春公は『温知政要』というマニフェストで
「世間の様子をよくよく考えてみると、どんなことでも用いられるべき人がまだ志を得ずに役職にも就かない初めの頃は”私が事を執り行なう役職に就いたのならば、上のためにも下のためにも全てのことで滞る事なくうまく仕 事をしてみせるのに”と、心に思い口にも言って、もどかしいように言うのだが、その職に就くやいなや今までの心とは大きく異なり始め、自分が笑い謗ってきた人たちと少しも変わらなくなってしまい、かえって今までの同輩の人たちを引きずり落とすようなことばかり考えるようになることが必ずと言って良いほど起こってくる。皆が皆、私欲の卑しい心から考え方が変わってしまうからである。それと同じように既に上に立っている者も、最初は物珍しいこともあって世間から”賢い方”と言われたいので随分と慎み深く行ってはいるが、後には徐々に退屈な心が持ち上がって政務も都合次第で動くようになり、理由もなくだらしなくなる。秦の始皇帝は 天下を統一できたくらい人に畏敬されるような人であったが、おごりたかぶり勝手な振る舞いをするようになり、最後にはとても愚かにも長生不死の薬を求めるようになり、ほんの僅かな年数で滅んでしまった。その他にも漢の武帝や唐の玄宗なども始めのふるまいと後のふるまいとでは大きく違うようになってしまった。だからこそ最初の考えや工夫も志が半ばにもならないうちに必ずくじけるように見える。慎み畏れ心せねばならないことだ。だからこそ古き偉人は”始めは必ずあるが、よく終わることは少ない”と戒められたのだ。」(現代語意訳)
と述べています。
尾張藩62万石、実質上は100万国を超える組織に属しているからこそ感じるものなのでしょう。また600万石の幕府の組織の硬直化を間近に見ていたからでもありましょう。

自分自身が、批判される立場にならぬよう、今後も自戒していきたいと強く感じさせられました。

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