2018年4月 4日 (水)

#銀河英雄伝説 Die Neue These が始まった。前作を見た人はおそらく少なからず違和感を覚えるだろう。それでも・・・

#銀河英雄伝説 Die Neue These が始まった。前作を見た人はおそらく少なからず違和感を覚えるだろう。主要キャラクターの絵がかなり変化している。良い意味での一人ひとりの人間的臭みが表現されていた前作。それに比べ、今回は時代に合わせてか、人間的な臭いを感じにくくなっている。
しかし、原作が優れていることもあり、今回は今回で楽しめそうな気がする。声と絵に慣れるには数回掛かりそうだが、それでも純粋にこの話を楽しみたい。
特に、独裁による問題とその超克、民主主義の良さと衆愚という酷さをもう一度考えてみたい。今の時代にとても重要だから。
http://gineiden-anime.com/

今回はあっさり過ぎ去ったが、次回で、アスターテ会戦でのラップの無念さをどこまで描くんだろうか・・・ジャン・ロベール・ラップの死は恋人ジェシカの人生を狂わせる。平和運動に傾斜していくジェシカと、主人公ヤン・ウェンリーの人生にも多大な影響を与えていく。だからこそラップの死は重要な場面。さて、どうするのか?

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2018年3月 9日 (金)

民主制と独裁制 それぞれの優劣どこにあるのか?

独裁政権が増えつつある昨今。

欲望でできた歴史の長い独裁制。
歴史が浅く人間の理性でできた民主制。
単純に後者が良いとするのではなく、
何において優劣があるのか、
しっかりと見極めなければならない時代なのかも?

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2018年2月27日 (火)

寛容でありかつ倫理観の高い人間を目指したいもの

朴槿恵前大統領にたいし、懲役30年、罰金1185億ウォン(約118億円)という途方もない罰を求刑した韓国の検察。さらに李明博元大統領をまもなく事情聴取する方針を固めたとか。
そしてこれを支持する国民。
鳴り物入りで自分たちが選んだ大統領を見世物のように断罪する。これを「浄化作用がある」と自慢する国民性があまりにも悲しい。
そう思うと、日本はじっくりと腰を据えた総理大臣を支持するようになった。どうでも良いことで足を引っ張る野党議員もいるが、それでも国民の圧倒的多数が首相を支えている。
首相が辞めても決して弾劾することはないだろう。非難をすることはあっても、決して裁判にかけたりすることはない。これを「浄化作用がない」という頓珍漢なことをいう国民もほとんど居ない。

寛容でありかつ倫理観の高い人間を目指したいもの。隣の国のニュースを見て、日本の良さを改めて感じる。

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2017年7月20日 (木)

今日(7月20日)は何の日? 役行者(役小角:神変大菩薩)の忌日 「役行者は個人的な超能力だけであったのではなく、葛城地域の親分であったのではないか?」

今日(7月20日)は何の日?
役行者(役小角:神変大菩薩)の忌日
「役行者は個人的な超能力だけであったのではなく、葛城地域の親分であったのではないか?」

現行の暦であるグレゴリオ暦701年7月20日(旧暦 大宝元年6月7日:ユリウス暦701年7月16日)、稀代の修験行者役行者こと役小角(えんのおづぬ)が遷化した。

役行者に関しては伝説的な話が多く、どれが本当の話なのかはわからない。すべてを削ぎ取り、確実な事績だけを追っていても役行者の実像はわかりにくい。そうした、いわゆる学術的な判断で役行者を見つめると、そこにあるのは骨だけで、血肉が全く感じられない。むしろ後世の人が彼をどうして驚くほどの超能力者のように考えたのか、その心理の集合体こそが役行者の実像なのではないかと思う。

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真言を見つめると
「おん ぎゃくぎゃく えんのうばそく あらんきゃ そわか」
この真言から見えてくるものがある。「ギャク ギャク」とは聖天(歓喜天)の真言にも用いられ、聖天と役行者を結びつけている点が興味深い。聖天はビナヤカと呼ばれる魔物たちの首領にして彼らをよく使う。役行者も前鬼・後鬼という鬼神をよく使うと言われている。そうしたことから結び付けられたのではないだろうか。ここから読み取れるのは役行者は、人々から忌み嫌われる存在さえも使役できるほど懐の深い人であったことである。

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ただ役行者は自らの出身地の奈良県葛城の神でもある一言主神が働かないことを責め立て、一言主の讒言によって伊豆へ流されてしまったという。これは一言主は、葛城賀茂のすぐ隣であり同族ではあるが、そうした身内の働かない者の讒言により失脚してしまったことを意味しているのではないだろうか?しかし、役行者のような呪術者が、単純に部下もしくはそれに相当する者の讒言によって流されてしまっては話は面白くない。ここを一言主という神の名を使うことにより、葛城でも東部に属する一言主の地域の人が、葛城の同族であり中部に属する高鴨神社の一族である役行者に反旗を翻したことを意味しているのではないかと思う。

それでも役行者は伊豆でも霊力を発揮し続け、霊峰富士山に毎晩登ったという伝説が生まれ、一層役行者の名声は高まっていった。孔雀明王法をよくしたという伝説につながるのも、孔雀は毒変じて薬となす明王であり、衆生とともによく生きた彼の性格を表しているのではないかと思う。

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超能力者としての彼についても面白いが、その超能力を覗いてみてみても彼の事績はとても面白い。むしろ単独の修行者というよりは、葛城地域の親分というイメージが浮かび上がってくる。

役行者に関してはミステリーが多い。今回は役行者が地域の親分であった可能性を見つめてみたが、超能力者である彼の側面についてはまた後日臨んでみようと思う。

今日は役行者を思い、彼が信仰した金剛蔵王権現に祈りを捧げてみようと思う。

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2017年7月18日 (火)

今日(7月18日)は何の日? 西郷従道の忌日 「成程大臣は器量の大きな軍人 才よりも徳で生きた人」

今日(7月18日)は何の日?
西郷従道の忌日
「成程大臣は器量の大きな軍人 才よりも徳で生きた人」

明治35年(1902年)7月18日、海軍初めての元帥西郷従道侯爵が逝去した。

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西郷従道というと、私の頭に浮かぶのはまず愛知県犬山市の明治村にある西洋風の邸宅である。白亜の洋館はとても品が良い。彼の名を初めて知ったのは、その明治村であった。彼のことを調べて、かれの懐の深さがとても惹かれるようになった。

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西郷従道は言わずと知れた維新の三傑西郷隆盛の実弟である。若き日は島津斉彬の茶坊主龍庵であったが還俗して慎吾と名乗る。

斉彬を信奉し尊王攘夷派の精忠組として明治維新で活躍する。

本来の諱(いみな:本名)は隆興(りゅうこう)であったが、薩摩弁の訛のために役人が「じゅうどう」と聞き取り、そのまま「従道」としたほどおおらかな人であった。通称は慎吾。

征韓論で兄の隆盛が下野した時、大山巌たちとともに陸軍少将として残った。西南戦争の際は陸軍卿代行として、兄との直接の戦禍は交えなかった。

参議・陸軍卿をつとめ伯爵となり、海軍大臣に就任。従来の度量の大きな性格を遺憾なく発揮したという。元老・枢密顧問官・海軍大将・侯爵となり元帥号を受けた。

総理大臣の候補として再三再四推薦されていたが、従兄の大山巌とどうように生涯それを受けることはなかった。それは兄西郷隆盛が西南戦争で逆賊の汚名を受けたことに対する弟としての思いがあったという。

西郷従道の生涯は学ばされることが少なくない。

「成程(なるほど)大臣」と呼ばれたほど人の話をよく聞く人であったという。しかも、細かいことは部下に任せ、功績も部下のおかげとし、大きな判断や責任は自分が背負ったという。まさに上に立つ者の鑑といえる。

尊敬してやまなかった兄隆盛に同行せずに、西南戦争の際も調整役に徹して政府に残り薩摩と政府の緩衝役で有り続けた。情深き人ではあったが情に流されず対局を見誤らなかった姿勢は大いに学ぶところ。1283857

才のある人というよりは、徳のある人であり続けた。だからこそ山本権兵衛のような才のあるものを上手に使えたように思う。

写真を見る限り、優しげな眼光の奥には、一徹な薩摩武士の片鱗が見える。

西郷従道も人であり、それなりの人間的な欠点はあったように思う。それでもそれを覆う如き器量の大きさは学ぶべきところがある。兄の悲しみを背負いつつも、あの白亜の西洋館のようにきれいな心が底にあったように感じる。今日は「才よりも徳」というい事をしっかりと見つめてみようと思う。

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2017年7月17日 (月)

今日(7月17日)は何の日? 第二代グレイ伯爵の忌日 「有能な政治家の伯爵は紅茶好きでその名を残した」

今日(7月17日)は何の日?
第二代グレイ伯爵の忌日
「有能な政治家の伯爵は紅茶好きでその名を残した」

1845年7月17日、元首相であったグレイ伯爵がイングランドの北部ホーウィック・ハウスで逝去した。ホイッグ党の有力議員で、野党に甘んじていたホイッグ党を政権に着かせたホイッグ党の指導者であり多くの人たちから信頼篤き政治家であったが、彼の名前はその政治的な名声よりも別のところにある。

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スタートレックThe Next Generation(TNG) で、USS-Enterprise1701DおよびEの艦長のピカード(設定ではフランスのブドウ農園主の息子)がいつも注文していたもの、それが「ホットのアールグレイ」である。

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アールグレイとは、ベルガモットで柑橘系の香りをつけた紅茶。フレーバーティーの一種である。日本ではアイス紅茶として人気があったが、最近では温かい紅茶でも人気が高い。

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アールとは、Earlつまり伯爵という意味で、アールグレイとはグレイ伯爵という意味である。いろいろな伝説があり確証に至っていないが、いずれも第二代グレイ伯爵である。

実は私も、高校生時代からアイスのアールグレイが好きであった。トワイニングの缶を手に入れて四季を通してよく飲んでいた。ところがTNGでピカード艦長がホットのアールグレイを飲んでいる姿を見て、試しにホットで飲んでみた。最初はその芳醇な香りに戸惑いもあったが、慣れてくるといつのまにか紅茶はホットのアールグレイを飲むようになっていた。今も紅茶が美味しいお店ではホットのアールグレイを頼むことが多い。

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もちろん今日はホットのアールグレイを飲むつもりだ。

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2017年7月16日 (日)

今日(7月16日)は何の日? 板垣退助の忌日 「自由民権運動 板垣退助 清貧気概の政治家」

今日(7月16日)は何の日?
板垣退助の忌日
「自由民権運動 板垣退助 清貧気概の政治家」

大正8年(1919年)7月16日、自由民権運動で国民の圧倒的な人気を誇った板垣退助が逝去した。

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板垣は土佐の中級藩士の嫡男として生まれた。「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母は叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と退助は晩年、自分の少年時代を振り返り述懐している。そうした性格もあり、蟄居させられ、その間に庶民との交流を得る。このときに庶民目線の板垣の政治的な思想の基盤が生じた。明治維新を駆け抜ける。
維新の功により参与・続いて参議となるが、朝鮮国の無礼に激怒し西郷隆盛らと征韓論を主張する。しかし西洋帰りの岩倉具視らにより閣議決定を反故にされ、西郷とともに下野してしまう。
ここから、退助の政治活動が本格化していく。退助は五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成し、自由民権運動を推進していく。

岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷(岐阜事件)。これが「板垣死すとも自由は死せず」というフレーズで世間に知れ渡っていく。実際は「吾死スルトモ自由ハ死セン」ということばであった。

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その後、叙爵を三度打診された。二度は断るが、三顧の礼に反するということで三度目に叙爵して伯爵となる。しかし、子孫はその爵位を承けることはなかった。それは自由民権運動と家族制度は相容れなかったからである。彼は爵位があったために衆議院議員にはなれなかった。しかし、多くの議員たちをバックアップし、自由民権運動を支えていく。時には内務大臣として入閣することもあったが、基本的には自由民権運動の象徴として在野であることが多かった。

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彼は清廉潔白であった。岐阜事件で襲った犯人を特赦してほしいと願い出て特赦させ、犯人から謝罪されることもあった。中江兆民は「板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人である」と評したほどであった。

板垣は今の多くの政治家たちに欠ける気概を持って生きた人である。政権を望むのではなく、権力を望むのではなく、ひとりひとりの国民が自由闊達に生きていくことを目指して政治運動をしてきた。彼の生き様は様々なことを教えてくれるのは間違いない。

近日中に、彼が襲われた場所(岐阜公園内)に行き、「吾死スルトモ自由ハ死セン」の想いを受け止めたいと思う。

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2017年7月14日 (金)

今日(7月14日)は何の日? 宇井伯壽師の忌日 「三河武士の如き仏教学の泰斗」

今日(7月14日)は何の日?
宇井伯壽師の忌日
「三河武士の如き仏教学の泰斗」

1963年(昭和38年)7月14日、日本の仏教学の泰斗、宇井伯壽博士が逝去した。享年満81歳。宇井博士は愛知県宝飯郡御津町(現在の豊川市)で1882年(明治15年)6月1日に生まれる。茂七という名であった。道号は活翁。

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十代前半で、現在の豊川市伊奈町にある東漸寺で出家し伯壽となる。曹洞宗の僧侶となった。優秀で住職より「「たとえわしの袈裟を質に入れても、お前は大学まで出してやる」と言われたという。現在の愛知中学・東洋大学京北高校を経て、東京帝国大学印度哲学科に入学。曹洞宗東慈寺(岩手県)の住職でもある木村泰賢東京帝国大学教授は同期であり、彼とともに高楠順次郎に師事する。高楠をして「これこそ本当のアルバイト(学術論文という意味)だ」と言わしめたが、木村が主席で宇井は次席であった。ドイツのチュービンゲン大学(ガルベ教授に師事)・イギリスのオックスフォード大学・ケンブリッジ大学などに留学。東京帝国大学から博士号を得、東京帝国大学や東北帝国大学で教鞭をとり後進を育成。
また僧侶としては出家した東漸寺の住職になる。ただし寺からの収入は全て弟子の育成に用いたという。

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駒澤大学学長にもなり、帝国学士院会員となり、文化勲章も受賞している。東京大学インド哲学の基礎を作った人物でもある。戦前・戦後に渡る日本を代表する仏教学者であり、中村元も彼の弟子。

『印度哲学史』『禅宗史研究』『仏教思想研究』『仏教思想の基礎』『仏教哲学の根本問題』『摂大乗論の研究』『仏教汎論,上下』『唯識二十論研究』『釈道安研究』『陳那著作の研究』など。

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伝統的な仏教学に対してヨーロッパの文献学を導入。サンスクリット・パーリ・漢訳の各経典論疏に対する多大な知識を用いて仏教思想とインド思想を研究した。また原始仏教の縁起説を論理学的解釈することを唱えるなど、多大の業績を残す。現代の仏教学の基礎を作り上げたひとりでもある。

三島由紀夫が『豊饒の海』を書くために宇井の『摂大乗論』などを読み込み、阿頼耶識を理解しようとしたのは知る人ぞ知る話。

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不思議なことに宇井の結婚の記録は全く残っていないらしく、結婚したのはおそらく留学から帰国の一年後くらいのことではないかと推測されている。年齢は15歳違っていた。

伯寿は、死ぬまで三河弁丸出しだったという。若いうちから禿頭であり、三河の田舎者そのもの。学風も質実剛健の三河者らしく、厳密な考証で一言一句も疎かにしない研究態度であったという。仏教学に一生を捧げた三河者。彼もまた三河武士のような人であったのかもしれない。

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2017年7月13日 (木)

今日(7月13日)は何の日? 江戸幕府九代将軍徳川家重の忌日? 「評価の見直しが必要! 障害を持ちつつ多くを部下に任せた優れた人事をおこなった傑物」

今日(7月13日)は何の日?
江戸幕府九代将軍徳川家重の忌日?
「評価の見直しが必要! 障害を持ちつつ多くを部下に任せた優れた人事をおこなった傑物」

1761年7月13日(旧暦宝暦11年6月12日)、江戸幕府九代将軍であった大御所徳川家重が薨去した。中興の英雄八代将軍吉宗の長男。偶然にも新暦では父の忌日のちょうど十年後の翌日に薨去したことになる。生来、病弱であり、ポリオを患っていた可能性が指摘されている。そのために一部の幕府官僚から軽く見られていたようだ。

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父親の八代将軍吉宗は、親政であった享保の前半は御側御用取次の小笠原胤次・有馬氏倫・加納久通と老中水野忠之と共に親政を行っていた。ところが、従五位下(譜代の一般大名)筆頭の松平乗邑(のりさと)が老中になってからは、官僚政治へと変わっていった。水野忠之は実権を奪われ、御側御用取次の面々は旗本から小大名に格上げされて逆に自由を奪い、将軍吉宗自身は後継者育成に意識を傾かせ、実務に関しては老中を筆頭にした官僚組織を徹底的に用いた。

吉宗が、家重付きの西之丸老中としたのは美濃加納藩主安藤信友・上野沼田藩主黒田直邦・下総古河藩本多忠良(本多平八郎流宗家)・美濃岩村藩主松平乗賢たちである。本多は一年のみであったが、いずれも名君で名高いあ優秀な人物である。西之丸老中は本丸老中と異なり幕府の政務には携わらない。次期将軍の養育を主な業務とする。吉宗は、政務の本丸老中を切れ者の松平乗邑に預け、家重の養育には人格者を配置したことがよく分かる。そして家重自身も彼らを大切にした。一方、家重は乗邑を嫌い、彼の実弟を西之丸若年寄から追放したりしている。
西之丸老中だけではなく、小姓も大岡忠光という人格者を配置し、田沼意次も家重によく仕えた。

家重は、見た目は暗愚であったかもしれない。しかし、遺体からすると歴代将軍の中では最も顔立ちは整った人物であったという。決して彼は中身までもが暗愚であったわけではなく、それを外に伝える方法に障害があっただけではないだろうか。その思いを最もよく受け止めたのが御側用人となる大岡忠光である。

家重は、官僚として横柄を究めたという理由で、将軍に就任した直後に松平乗邑を蟄居謹慎処分にした。そして父が敷いた官僚制度を良しとせず、御側用人による側近政治を始める。しかも、父の時代の最後に老中となった下総佐倉藩主堀田正亮はじめ老中たちを罷免することなく彼らの政務を大切にした。そのときに見出した人物の一人が尾張藩の縁戚である越智松平武元である。家重はまさによく人を見極めた優れた人物であったのかもしれない。

障害を持つものへの評価が低かった時代にトップに立った徳川家重。自分ができないことのために、人事をよくよく見極め、自分は何もしなくとも政務が動いていくようにした稀有な人物であったように思う。障害を持つ人への偏見に満ちた見方をしている、彼へのあまりに低い評価は見直すべきではないだろうか?

障害者と、組織のトップのあり方のお手本の一つといえるかもしれない。

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2017年7月12日 (水)

今日(7月12日)はなんの日? vol.2 暴れん坊将軍こと徳川宗の忌日 「米将軍と呼ばれた忍耐の人」

今日(7月12日)はなんの日? vol.2
暴れん坊将軍こと徳川宗の忌日
「米将軍と呼ばれた忍耐の人」

1751年7月12日(旧暦寛延4年6月20日)、江戸幕府八代将軍であった大御所徳川吉宗が薨去した。享年数え68歳。

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紀州家二代徳川光貞の四男として生まれたが、母親の身分も低いこともあり家老の加納家に預けられて育てられた。次兄の次郎吉が亡くなるとお召により江戸藩邸に移る。数え13歳で従四位下右近衛権少将主税頭を初任官し、松平頼方(最初は頼久)と名乗る。半年後に五代将軍綱吉が紀州藩邸に訪れた際は控えの間に居たが、将軍家御側用人柳澤吉保のはからいで、将軍に初謁見。越前(福井県)葛野藩3万石藩主となるも、紀州徳川家の御連枝(分家)であったので江戸の常住となる。数え二十二歳の時、二人の兄が続いて亡くなり、紀州徳川家五代藩主吉宗となる。
六代将軍家宣が薨去した際に、尾張四代藩主徳川吉通の次の七代将軍候補となるが、家宣実子の家継が七代藩主となる。数え33歳のときに、家継が薨去。すでに徳川吉通も薨去しており、その弟の尾張徳川六代目の継友と将軍位を競うが、家宣夫人近衛煕子の裁定で吉宗に決まる。煕子の姪の安己姫は継友の婚約者であったが、煕子は吉宗を選んだ。奇行の多い継友ではなく、紀州藩を立て直した英雄吉宗であったからかもしれない。
吉宗は、五代将軍綱吉を敬愛していた。お墓も彼と合祀されるほどである。またその御側用人大老格であった柳澤吉保は吉宗には恩人でもあった。その柳澤を蔑ろにした老中格の間部詮房と、将軍家儒官であり鬼と呼ばれた権力者新井白石を吉宗は退けた。吉宗の政策は綱吉よりも家宣に近かったが、吉宗は真鍋も新井も徹底的に排除し、彼らが行なった政策をひっくり返してしまう。

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老中も徐々に入れ替え、享保年間の前半は岡崎藩主水野忠之、後半は大給松平家宗家の乗邑を中心に政治を行った。一般的には御側御用人を通じた親政であったと言われるが、それは前半であり、後半は松平乗邑に政務は任せ、吉宗は九代将軍家重の養育に苦心する。
そして起きたのが、将軍継承時から可愛がり尾張徳川七代藩主にまで引き上げた徳川宗春の事件である。一般的には、吉宗の質素倹約に対して、正反対の政策を取り、宗春は将軍家に逆らったというがそんなに単純なものではない。おそらくは、幕閣が朝廷とのやり取りで失策をし、朝廷と縁が深かった尾張徳川を巻き込み、宗春を謹慎させることで事件を修めたというのが真相ではないかと思う。このあたりは拙著『徳川宗春 <江戸>を超えた先見力』(風媒社)を読んでもらいたい。
吉宗は、様々な改革をしたが、松平乗邑が起こした強引な政策は朝廷をも激怒させ、吉宗が隠居すると同時に、九代将軍となった徳川家重によって乗邑は蟄居謹慎になってしまう。そのときに吉宗は一切助け舟を出さなかった。ここに吉宗の乗邑への本当の思いが見て取れる。

米将軍と呼ばれた吉宗について書きたいことは山ほどある。ここでは書ききれない。ただ彼を調べれば調べるほど、辛抱の人であったことがよく分かる。将軍についたからこそ自分の思うようにできないことがたくさんあったように思う。

宗春研究を続けていく過程で。吉宗という人の今まで知られていなかった辛抱強い本当の思いを紐解いていければと思っている。

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