2017年7月19日 (水)

今日(7月19日)は何の日? 山岡鉄舟の忌日 「武士道を貫いた維新の英雄は金も名誉も命もいらぬ禅の居士」

今日(7月19日)は何の日?
山岡鉄舟の忌日
「武士道を貫いた維新の英雄は金も名誉も命もいらぬ禅の居士」

明治21年(1888年)7月19日、9時15分、明治の偉勲のひとりである山岡鉄舟が、皇宮(皇居)に向かって結跏趺坐のまま絶命した。享年満51歳。半世紀を維新とともに駆け抜けた英雄の一人である。

200pxtesshu

高校生時代、不思議に思っていたことがあった。勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城は有名であるが、将軍徳川慶喜の側近であるはずの勝海舟がどうやって西郷隆盛と会談に臨んだのであろうか?という疑問である。いきなり江戸城で会談し、お互いに相手を理解しようというのは、いくらなんでも、勝海舟と西郷隆盛であっても無理なこと。ではその背後に何があったのか?それを調べていくうちに、無血開城のときに山岡鉄舟が立ち会っていたことを知った。山岡については、幕末の剣の達人で、弘法大師流の書の名人であり、志水の次郎長と意気投合したということしか知らなかった。なぜ一介の御家人が立ち上がったのだろうか?

実は、勝海舟は身動きの取れない自分の代わりに山岡に西郷と会うように頼み込んだ。山岡はその勝の意を受けて、江戸城無血開城の前に、駿府の官軍の陣営にいきなり乗り込んだ。しかも「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大きな声を出して堂々と入っていったという。そしてそこで西郷隆盛と会談。勝海舟から全権を預けられて山岡と西郷隆盛の会談がなった。そこでのやり取りはまさに真剣勝負。大きく撃てば大きく響く西郷。山岡の迫力と胆力に大きく響いた。そして、互いに譲歩をしあい、結果的には江戸城無血開城へと繋がった。西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と山岡を賞賛したという。

維新後、新政府に入り、西郷の願いで35歳のときに明治天皇の侍従として仕えた。しかし、西郷とは十年という約束をしており、45歳で皇宮を去り、維新で斃れた者の菩提を弔うために普門山全生庵を建てた。彼は、僧侶ではなく居士としての禅者であった。長徳寺願翁・竜沢寺星定・相国寺独園・天竜寺滴水・円覚寺洪川の下に参じ禅を究めていき、居士として天竜寺滴水から印可を与えられたる

そして満52歳を迎える直前(数53歳)に、胃がんで逝ってしまう。会葬者は五千人だったという。

山岡の一生涯は、西郷の言う「金も名誉も命もいらぬ」禅の居士であったと思う。だからこそ今北洪川(鈴木大拙の師)、高橋泥舟(山岡の義兄)らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設したのだろう。

6

私も山岡の逝去した年齢を超えた。だからこそ、若くして逝った英雄山岡の生涯を見つめて彼の思いを受け止めてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月17日 (月)

今日(7月17日)は何の日? 第二代グレイ伯爵の忌日 「有能な政治家の伯爵は紅茶好きでその名を残した」

今日(7月17日)は何の日?
第二代グレイ伯爵の忌日
「有能な政治家の伯爵は紅茶好きでその名を残した」

1845年7月17日、元首相であったグレイ伯爵がイングランドの北部ホーウィック・ハウスで逝去した。ホイッグ党の有力議員で、野党に甘んじていたホイッグ党を政権に着かせたホイッグ党の指導者であり多くの人たちから信頼篤き政治家であったが、彼の名前はその政治的な名声よりも別のところにある。

Charles_grey_2nd_earl_grey_by_sir_t

スタートレックThe Next Generation(TNG) で、USS-Enterprise1701DおよびEの艦長のピカード(設定ではフランスのブドウ農園主の息子)がいつも注文していたもの、それが「ホットのアールグレイ」である。

360pxlipton_earl_grey_in_pile

アールグレイとは、ベルガモットで柑橘系の香りをつけた紅茶。フレーバーティーの一種である。日本ではアイス紅茶として人気があったが、最近では温かい紅茶でも人気が高い。

5186iyrgjl_sx425_

9487177_3l1

アールとは、Earlつまり伯爵という意味で、アールグレイとはグレイ伯爵という意味である。いろいろな伝説があり確証に至っていないが、いずれも第二代グレイ伯爵である。

実は私も、高校生時代からアイスのアールグレイが好きであった。トワイニングの缶を手に入れて四季を通してよく飲んでいた。ところがTNGでピカード艦長がホットのアールグレイを飲んでいる姿を見て、試しにホットで飲んでみた。最初はその芳醇な香りに戸惑いもあったが、慣れてくるといつのまにか紅茶はホットのアールグレイを飲むようになっていた。今も紅茶が美味しいお店ではホットのアールグレイを頼むことが多い。

Charles_grey

もちろん今日はホットのアールグレイを飲むつもりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月15日 (土)

今日(7月15日)は何の日? 奈良時代の玄昉(げんぼう)僧正の忌日 「奈良時代の秘密を背負った傑僧」

今日(7月15日)は何の日?
奈良時代の玄昉(げんぼう)僧正の忌日
「奈良時代の秘密を背負った傑僧」

746年7月15日(旧暦天平18年6月18日)、筑紫(福岡県太宰府市観世音寺五丁目)の観世音寺別当である玄昉が遷化した。

Vol24_bod_img_01_l

彼の俗姓は阿刀氏である。阿刀氏からは、玄昉の師匠の義淵、玄昉の弟子の善珠という法相宗の高僧が出ています。また、弘法大師(空海)の母方は阿刀氏で、この阿刀氏が真言宗の総本山東寺(教王護国寺)の勝手方(執事)を担ってきました。この阿刀氏の神社が東寺の東北にある石上(いそのかみ)神社。石上の本社は天理にある石上神宮。物部氏の神社です。ここから見ても分かるように阿刀氏は物部一族。怪僧として名高い道鏡は弓削氏出身ですがこの弓削氏も物部一族です。

物部といえば仏教排斥で蘇我氏と争ったことになっていますが、その物部と同族である阿刀氏は奈良から平安にかけての傑僧を出し、奈良の仏教界をリードしていました。物部が仏教を排斥したかどうかは別問題ですので詳しくは述べませんが、蘇我氏も含めて飛鳥時代から奈良時代の謎はいろいろあるようです。

そのなかでも際立って不思議な人物が、今日を忌日としている玄昉僧正です。

吉備真備と共に唐に二十年間留学し、玄宗皇帝により高く評価され、経論5000巻の一切経と数多くの仏像と共に帰朝した。聖武天皇の母君である藤原宮子の病を癒し、聖武天皇から絶大な信頼を得ることになった。
聖武天皇の皇后藤原光明子(光明皇后)の皇后宮(元藤原不比等邸宅)の隅に隅寺(すみでら)が創建されており、その初代となったのが玄昉である。隅寺は海龍王寺といい、留学生たちの安全を祈願するお寺にもなった。

(歴史的に見るとこの海龍王寺は留学や海外渡航する人たちが祈願する日本の代表的なお寺だと思っている)

余談だが海龍王の娘が善女龍王であり、弘法大師ととても縁が深いのは何らかの理由があろう。善女竜王の夫は牛頭天王であり、祇園祭の祭神。玄昉の忌日・弘法大師の忌日・祇園祭の祭日が、三日以内にあるのもまた面白い。

ところが、藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で藤原広嗣の乱を起こし、藤原仲麻呂が権力を握ると玄昉は筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に遷化した。

権力者によって排斥され、そのときにさまざまな噂を塗りつけられ、俗説が定説化してしまった人物の代表が玄昉僧正。記録が少ないので研究は大変であるが、時代背景を見直して、彼の事績を見つめ直すことは重要である。そこに大仏をはじめとする奈良時代の秘密が隠されているように思える。

玄昉僧正、今日はゆっくりと祈ってみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月14日 (金)

今日(7月14日)は何の日? 宇井伯壽師の忌日 「三河武士の如き仏教学の泰斗」

今日(7月14日)は何の日?
宇井伯壽師の忌日
「三河武士の如き仏教学の泰斗」

1963年(昭和38年)7月14日、日本の仏教学の泰斗、宇井伯壽博士が逝去した。享年満81歳。宇井博士は愛知県宝飯郡御津町(現在の豊川市)で1882年(明治15年)6月1日に生まれる。茂七という名であった。道号は活翁。

Image005

十代前半で、現在の豊川市伊奈町にある東漸寺で出家し伯壽となる。曹洞宗の僧侶となった。優秀で住職より「「たとえわしの袈裟を質に入れても、お前は大学まで出してやる」と言われたという。現在の愛知中学・東洋大学京北高校を経て、東京帝国大学印度哲学科に入学。曹洞宗東慈寺(岩手県)の住職でもある木村泰賢東京帝国大学教授は同期であり、彼とともに高楠順次郎に師事する。高楠をして「これこそ本当のアルバイト(学術論文という意味)だ」と言わしめたが、木村が主席で宇井は次席であった。ドイツのチュービンゲン大学(ガルベ教授に師事)・イギリスのオックスフォード大学・ケンブリッジ大学などに留学。東京帝国大学から博士号を得、東京帝国大学や東北帝国大学で教鞭をとり後進を育成。
また僧侶としては出家した東漸寺の住職になる。ただし寺からの収入は全て弟子の育成に用いたという。

19961264_10211602938380741_32082253

駒澤大学学長にもなり、帝国学士院会員となり、文化勲章も受賞している。東京大学インド哲学の基礎を作った人物でもある。戦前・戦後に渡る日本を代表する仏教学者であり、中村元も彼の弟子。

『印度哲学史』『禅宗史研究』『仏教思想研究』『仏教思想の基礎』『仏教哲学の根本問題』『摂大乗論の研究』『仏教汎論,上下』『唯識二十論研究』『釈道安研究』『陳那著作の研究』など。

5323422491

伝統的な仏教学に対してヨーロッパの文献学を導入。サンスクリット・パーリ・漢訳の各経典論疏に対する多大な知識を用いて仏教思想とインド思想を研究した。また原始仏教の縁起説を論理学的解釈することを唱えるなど、多大の業績を残す。現代の仏教学の基礎を作り上げたひとりでもある。

三島由紀夫が『豊饒の海』を書くために宇井の『摂大乗論』などを読み込み、阿頼耶識を理解しようとしたのは知る人ぞ知る話。

19959297_10211602938460743_41737889

不思議なことに宇井の結婚の記録は全く残っていないらしく、結婚したのはおそらく留学から帰国の一年後くらいのことではないかと推測されている。年齢は15歳違っていた。

伯寿は、死ぬまで三河弁丸出しだったという。若いうちから禿頭であり、三河の田舎者そのもの。学風も質実剛健の三河者らしく、厳密な考証で一言一句も疎かにしない研究態度であったという。仏教学に一生を捧げた三河者。彼もまた三河武士のような人であったのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月12日 (水)

今日(7月12日)は何の日? 鈴木大拙(すずきだいせつ)の忌日 「日本的霊性ZENを世界に広めた居士」

今日(7月12日)は何の日?
鈴木大拙(すずきだいせつ)の忌日
「日本的霊性ZENを世界に広めた居士」

昭和41年(1966年)7月12日、満95歳、鈴木大拙居士が逝去した。日本の禅を世界に知らしめた大功労者である。

Daisetsu_teitar_suzuki_photographed

彼は出家者ではない。しかし、学生時代から鎌倉円覚寺の今北洪川や、その跡を継いだ釈宗演に参禅していた。今北洪川は在家仏教を称揚した禅僧であり、釈宗演は「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた初めての僧侶であった
鈴木は本名を貞太郎という。釈宗演は今北洪川の師である京都の相国寺の大拙承演と同じ名を貞太郎に授けた。鈴木は、本名よりも居士号である鈴木大拙として有名になっていく。。今北洪川は元々は江戸時代末期に私塾を開いていた在家者であったが『禅門宝訓』を読んで出家への思いを立ち難くなり、妻子を捨てて出家した人物である。その彼は在家仏教を大切にし、強く影響を受け今北洪川の師匠の名を得た鈴木大拙が出家することなく在家居士として活躍することになったのは面白い。

8f801c9218cf275999f08d929061e414

鈴木は釈宗演に選ばれ渡米し、日本仏教の思想の中核をなす如来蔵の重要な典籍『大乗起信論』を英語訳して出版。『大乗仏教概論』など数多くの著述を英語でなし禅をアメリカに伝えた。帰国後は円覚寺に住み、学習院で英語を教えるようになる。釈宗演の下に出入りしていた神秘主義思想の神智学徒のベアトリス・レインと知己を得て結婚。彼女の力を得て日本仏教を英語に直し、大谷大学教授となり京都へ移住。英語で大谷大学より博士号を取得した。ベアトリスの影響で神秘学にも興味を示していた。だからこそ「霊性」という言葉を彼は多用したのかもしれない。「霊性」で臨済禅や浄土を理解しようとした稀有な存在でもあった。妻が先立ってからも積極的に海外に出かけZENを布教して回る。

Resize_image

彼が居なければ欧米にこれほどZENが有名になることはなかったであろう。また禅にともなう日本文化も彼を通して世界に広まったと言っても過言ではない。
日本仏教の居士として世界を駆け巡り日本仏教、特にZENを広めた功績は多大である。世界規模で見たら、二十世紀最大の仏教徒の一人に挙げられるのではないだろうか?

Photo

今日は鈴木大拙の本を読んで、日本的霊性を見つめてみようと思う。そして彼の師匠である今北洪川と釈宗演を見つめてみたい。ここに今の僧侶の進むべき道のヒントがあるように思えてならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 9日 (日)

今日(7月9日)は何の日? 森鷗外(本名:森林太郎)の忌日 「マルチな活躍をした文豪でもあった軍医」

今日(7月9日)は何の日?
森鷗外(本名:森林太郎)の忌日
「マルチな活躍をした文豪でもあった軍医」

大正11年(1922年)7月9日、文豪で軍医でもあった森鷗外は、親族・賀古鶴所(親友の軍医・歌人)らが付きそう中、腎萎縮・肺結核のために満60歳で逝去した。

Mig_1

森鷗外は、夏目漱石と並ぶ、明治から大正にかけて活躍した文豪として有名。
作品として主なものは
小説としては『舞姫』『うたかたの記』『ヰタ・セクスアリス』『雁』『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『佐橋甚五郎』『大塩平八郎』『堺事件』『山椒大夫』『最後の一句』『高瀬舟』『寒山拾得』
翻訳としては、『於母影』、アンデルセンの『即興詩人』、ゲーテの『ファウスト』、オスカー・ワイルドの『サロメ』
史書としては『渋江抽斎』『伊澤蘭軒』『帝諡考』
戯曲としては『生田川』
詩歌・作詞としては『うた日記』『横浜市歌』『浜松市歌(現在は廃止)』
その他、表現・随筆・日記がある。

Ojii_1thumb250x3531846

しかし、森鷗外は公式には医師であった。15歳で第一大学区医学校予科(東京大学医学部)に入学し19歳で卒業している。しかも、軍医として勤め、ドイツへの留学も軍医としてのものであった。陸軍大学の教官や東京美術学校の専修科の美術解剖学講師も勤め29歳で医学博士。日露戦争にも参戦し、戦後はロシア赤十字社員の護送に尽力。47歳で文学博士号が授与された。最終的には最高位であった陸軍省医務局長・軍医総監(陸軍中将相当)として八年あまり勤めている。勲章も何度が受けており、勲一等瑞宝章・勲一等旭日大綬章・大礼記念章も受けている。
54歳で予備役に編入後は帝室博物館総長に就任し高等官一等になり、帝国美術院の初代院長に就任。- 臨時国語調査会長にもなった。

多義に渡る文学作品だけではなく、社会的な分野でも活躍しており、まさにマルチな人であった。また女性蔑視観があまりなく、与謝野晶子や平塚たいてうなどをも高く評価したという。酒嫌いの甘党であったことも有名である。お酒を飲まなかったからこそ、あれだけの作品を生み出せたのかもしれない。

Ougai_mori_october_22_1911

面白いところでは、明治と大正の元号には違和感を感じており、その意向を受けた漢学者吉田増蔵に元号研究の『帝諡考』の後事をたくし、吉田が「昭和」を元老院にの元号を考案勘申した。また吉田は、今上天皇の諱「明仁親王」など皇族の多くの御名を考案したという。これも鷗外の影響が強かったのかもしれない。

鷗外のマルチぶりには舌を巻く。逆にいうと人はこれだけの仕事ができるのだと勇気づけられる。怠惰な気持ちになったときこそ鷗外を思い出したい。

今日は鷗外を読もう。

270pxmori_ogai_tomb

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月30日 (金)

今日(6月30日)は何の日? 時代小説家柴田錬三郎の忌日 「読んでもらうこと 売れることを第一とした時代劇作家」

今日(6月30日)は何の日?
時代小説家柴田錬三郎の忌日
「読んでもらうこと 売れることを第一とした時代劇作家」

C70eg92vuaiyj5a

昭和53年(1978年)6月30日、柴田錬三郎が逝去した。享年61歳。彼は文化人タレントでもあり、マスメディアにもよく顔を出した。「3時のあなた」(フジテレビ)や「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)などの出演がそれである。エッセイも多数発表した。彼は作家として、まずは作品を読んでもらうことが第一であることをよく知っていた。その姿勢がよく現れているのが、芥川賞と直木賞のことである。『イエスの裔』が芥川賞と直木賞の両方の候補となったとき天秤にかけて直木賞選んだことである。純小説の芥川賞か、大衆小説の直木賞かと問われれば、多くの作家は芥川賞を選ぶであろう。それは作家としての腕の誉れであるからだ。しかし、柴田はより多くの人に広がるように大衆小説である直木賞を選んだ。そして時代小説を続々と発表し、剣豪ブームを巻き起こした。彼は剣豪作家といわれるようになる。

著名な作品を上げると『眠狂四郎シリーズ』『真説河内山宗俊』『猿飛佐助』『柳生但馬守』『清河八郎』『われら九人の戦鬼』『岡っ引どぶ 柴錬捕物帖』『真田十勇士』『御家人斬九郎』『堀部安兵衛』『おらんだ左近事件帖』『三国志英雄ここにあり』その他多数である。TVシリーズでおなじみの作品も少なくない。

Renzaburo_shibata

作家として多彩な活動をした人でもある。「文壇野良犬会」がその一つである。会長は今東光氏、副会長は柴田錬三郎氏、他は黒岩重吾、田中小実昌、野坂昭如、戸川昌子、藤本義一、井上ひさし、梶山季之。この自由気ままな集まりの発会式には、実は柴田は欠席しているが、今東光と柴田はかなり精力的に世の矛盾に正面からぶつかっていった。

柴田は面白い人物である。作家の中でも、純粋に文学を追うのではなく、その作品を数多くの人に読んでもらうことを大切にした。案外無視されがちだが、この柴田の視点は、またとても大切なものである。

974a51ac83085772cbdc3903b47fefcc

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月24日 (土)

今日(6月24日)は何の日? 美空ひばりの忌日 「戦後の昭和を駆け抜けた天才 歌謡界の女王」

今日(6月24日)は何の日?
美空ひばりの忌日
「戦後の昭和を駆け抜けた天才 歌謡界の女王」

平成元年(1989年)6月24日、「歌謡界の女王」美空ひばりが逝った。昭和天皇がお隠れになったその年のこと。まさに戦後の昭和とともに生き、消えていった波乱の人生。戦後の復興期、彼女無しで日本を語ることはできない。彼女とともに日本が復興していったといっても良いほどの存在であった。
Original
美空ひばりをここで語るには、私の知識は少なすぎる。ただただ偉大な人物であったということしかわからない。社会に選ばれた人は、個人的には不遇が多いが、彼女はまさにその典型であったように思う。
Img_20_m

個人的には、母の影響もあり、古き良き時代の時代劇映画をテレビでよく観た。美空ひばりは、子役であったり、姫役であったり、銀幕の中でも歌姫としての活躍もしていたからか、私の記憶の中での美空ひばりは、映画の中が多い。
子供の頃は彼女の歌の良さがわからなかった。ところが意識せぬままに、彼女の歌をいつの間にか覚えていた。最初に覚えたのは「リンゴ追分」。次に「真赤な太陽」「柔」であった。
今は彼女の歌が大好きである。iTunesでも何曲か入っている。特に「乱れ髪」「悲しい酒」の彼女の歌声は、心の奥底に響き渡る。人の世の儚さを教えられる。
Hibari_misora_1

満52歳であったことを改めて知る。いつのまにか私も彼女の享年より一つ歳をとっている。

今日は彼女の歌をしみじみと聴こうと思う。
Acfdddb82612d4361b9e98ad14f86b80

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月23日 (金)

今日(6月23日)は何の日? 作家壺井栄の忌日 「『二十四の瞳』が一世を風靡した児童作家」

今日(6月23日)は何の日?
作家壺井栄の忌日
「『二十四の瞳』が一世を風靡した児童作家」

昭和42年(1967年)6月23日、小説家の壺井栄が逝去した。享年満67歳。

Sakae_tsuboi_02

彼女は香川県小豆島に生まれる。文学的な素養が特別にあったわけではない。内海高等小学校が最終学歴である。苦労に苦労を重ね、出稼ぎに出ている兄から『少年』『少女』のような雑誌を読むだけであった。隣村出身の詩人の壺井繁治と結婚。夫の影響で林芙美子、平林たい子、佐多稲子、宮本百合子ら女流作家と交友をもつようになり、見よう見まねで作品を書き始めた。アナキストでありプロレタリア作家の詩人であった夫が何度も逮捕され苦労を重ねるが、その一方で彼女の作品が認められるようになる。そこにはプロレタリア作家であった佐多稲子が、栄にプロレタリア文学ではなく、児童文学を勧めたことが大きく影響している。戦前には新潮賞を、戦争が終わり次々と作品を発表し児童文学賞・芸術選奨文部大臣賞・・女流文学者賞なども受賞する。

A98b1120712ae2558c294773114e59b339

特に昭和27年(1952年)に発表された木下惠介監督『二十四の瞳』は、高峰秀子により主演される映画となり全国的に一般にも知られていく。地元の小豆島が舞台であったが、実は小説の中では「瀬戸内海べりの一寒村」とされるのみで小豆島とはどこにも書かれていない。

Img_16

喘息を患い、夫に先立ち中野熊谷病院で逝去した。

個人的には彼女の夫や彼女の周りのプロレタリア文学にはあまり共鳴できないが、高等小学校のみの教育で日本文学史上でもかなり有名な部類に入る児童文学を作ったことには敬意を評したい。今日は彼女の作品を読んでみようと思う。

Tsuboi_sakae_and_shigeji

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月22日 (木)

今日(6月22日)は何の日? 高田好胤師の忌日 「昭和の傑僧の知恵」

今日(6月22日)は何の日?
高田好胤師の忌日
「昭和の傑僧の知恵」

「究極の語りのエンタテイナー」といわれ「話の面白いお坊さん」と評判になられた高田好胤師が平成十年(1998年)6月22日に遷化された。享年数七十五歳。

Takada
檀家がなく、荒れていた興福寺とともに法相宗の本山である薬師寺の再興のために、三つの方法論を用いられた。

1)分かりやすい説法
訪れた修学旅行生に直接語りかけた。また各地で講演をし、数多くの著述をして布教に努められた。

2)仏像の出開帳
薬師寺の日光菩薩や月光菩薩など、国宝級の仏像を出開帳して、多くの方々に拝んで頂き、衆目を集められた。

3)般若心経の写経
これこそが高田師の最も有名な活動。多くのお寺もこれを真似るが、オリジナルの薬師寺は今もシステム的に最も優れていると言って良い。

高田師は20世紀の傑僧であったのは間違いない。学ぶべきことは多数ある。こうした世間的な活動だけではなく、玄奘三蔵法師から基法師をとおし奈良時代の仏教界を牽引した瑜伽行唯識(法相)の教えを内面化された事実も見逃せない。

Photo_soryo_big_takada

今日は高田師の説法をYoutubeで聴いて、内面の深化と、外への広報の両面から学ぼうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧