2022年5月10日 (火)

七難隠す

「七難隠す」 色の白いは・・・髪が長いは・・・書は七難を隠す・・・あれ?なにか変?

 

子供の頃 私かなり色が白かったんです しかも喧嘩早かったので白色裸電球 そのこころは、色白ですぐに切れる・・・LEDの時代なのでわかりにくいかもしれませんね

 

そこで時々言われたのが「女の子ならば、色の白いは七難隠す だけどね。」と大人から何度かからかわれた覚えがあります。

今覚えばなかなか失礼な表現ですね。

「色の白いは七難隠す」は、

①色白の女性は七難を隠すので色白は得

という意味と

②色白で見えなくなってるけど七難のいずれかがあるのかも

という全く反対の意味があります。

とはいえ、色白イコール美人とは今の時代には合わない失礼な表現です。とはいえ色の黒は味良しともいいますので・・・

これとよく似た表現に

書は七難を隠す

これご存知でしたか?書道を始め文字がきれいな人は、誤字脱字や文章のまずさなどを隠してしまうという意味です。

パソコンでの文字が多くなった現代には、この表現は逆に貴重かもしれません

また

笑窪は七難隠す  髪の長きは七難隠す

とも言うようです。色白・笑窪・髪の長きのような容姿に関するもの、書のように能力に関するもの、まぁそれぞれに得意不得意が有るので、これらをなくすというよりは、いろいろあって使い分けるのが良いかもしれませんね。

さて、この七難とはなになのかなぁと思っていたのですが、若い頃にふと七難という言葉に出会ったことを思い出しました。

鳩摩羅什訳の仁王般若経・弘法大師の師匠の師匠である不空三蔵訳の仁王護国般若経に七難という言葉が出ていたことです。

『仁王般若経』鳩摩羅什訳

  • 太陽や月が欠ける日食や月食など
  • 星座が見えなくなること
  • 大火など火の禍 
  • 大水洪水などの水の禍うを含む時節に合わない寒さ暑さ
  • 大風による国土樹木の倒壊
  • 暑さによる旱魃
  • 賊たちによる国の内外が侵されること
  • 日月失度 ②二十八宿失度 ③大火燒國萬姓燒盡 

 ④大水沒百姓時節返逆。 ⑤大風吹殺萬姓國土山河樹木一時滅沒

 ⑥天地國土亢陽炎火  ⑦四方賊侵國内外賊起

 ①日月失度 ②星辰失度 ③大火(龍火・鬼火・人火・樹火)

  ④時節節改變寒暑不恒 ⑤暴風數起昏蔽日月 

  ⑥天地亢陽陂池竭涸 ⑦方賊來侵國内外

のことです。それを思い出し少し調べてみました。

七難という言葉は出てきませんが 孫悟空の三蔵法師で有名な玄奘三蔵訳の『薬師本願功徳経』には

 ①人衆疾疫難 ②他國侵逼難 ③自界叛逆難 ④星宿變怪難

 ⑤薄蝕難   ⑥非時風雨難 ⑦過時不雨難

が説かれていますし

観音経にも七難という言葉は説かれていませんが七難が説かれています。チャイナの天台の大成者智顗の著作に七難という言葉が出ています。

 

あっ、少し話がずれますが、名古屋の栄、ぎふ、大垣の三ケ所の中日文化センターで一時間半の授業をしています。その中で大垣では今は観音様についての講義をしています。そんなかのほんの一部をつまみ食いしてみますと。

 

観音経、多くの場合は偈文・・・世尊偈と呼ばれている部分を読みますが、この本文は本当は法華経の第二十五巻、正式名称は妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五といいます

 

最初に突如として無尽意菩薩という聞き慣れない菩薩が出てきます。

無尽とは尽きることなき果てしないという意味。つまりこの無尽意菩薩は、不滅の心を持つ者と訳せるのかもしれません。つまりわたしたち自身の不滅の心・菩提心を意味しているとも考えられます。

行六度四攝等種種行。誓度衆生。衆生界盡。菩薩之意乃盡衆生未盡。菩薩之意無盡。故名無盡意。と記されたお経もあります

 

 

さて、この無尽意菩薩が釈尊と対話をし、観音菩薩とはどんな存在なのかを訪ねます。その最初に現れるのが七難から逃れることです。

 

本文には火難・水難・風難・刀杖難・ 鬼難・枷鎖難・怨賊難の七難から逃れることが記されています。

 

どれを見てみても、いずれの経典を観ても、七難は人の欠点をあらわした言葉ではありません。あくまでも社会的な自然的な難を表した言葉です。七難隠すの七難とお経に説かれた七難は全く意味が異なっていました。

 

観音経は般若心経についで著名なお経でしたので、しかも天台宗は江戸時代に圧倒的な力を持っていましたので、七難というお坊さんから出た言葉が庶民に至り、言葉の外形だけ残って中身が変わってしまったのかもしれません。

 

七難隠すについて個人的な意見があります。人にはそれぞれの特徴があります。優れているかいないかは人の見方によって異なるもの。肌は白いが良いが髪は黒いが良いという方も少なくないと思いますし、健康的な褐色が良いとか髪は金髪にしたほうが良いとか、アニメでは髪は銀髪が結構受けるみたいです。まぁ人それぞれの特徴なんだとおもいます。そしてその特徴が際立てば際立つほど、7つの・・・まぁいくつかのと言い換えてもよいかと思いますが、欠点のように見えるものも気にならなくなる・・・そうした感じで使われるといいなぁと思います。無尽意菩薩は金剛界マンダラに出てくる賢劫の十二尊のお一人ですが、そのマンダラはひとりひとりの仏様の特徴をもって互いに敬いたすけあう相互礼拝相互供養を絵に表したもの。七難隠すもこうしたことまで感じるといいなぁと思える言葉です。

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2022年4月25日 (月)

弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る

「弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る」

 

先日、弘法は筆を選ばずのお話をしましたので今回は「弘法にも筆の誤り」のお話をしようと思います。

 

この元になるお話は『今昔物語』巻第十一 本朝付仏法 の九に記されている弘法大師のお話の中に説かれています。

ちなみに今昔物語の第十一 七は玄昉と藤原冬嗣のお話、ちょっとマニアックですね。八は、唐招提寺の鑑真和上お話。九は弘法大師空海師。十は伝教大師最澄師、十一慈覚大師円仁師、十二には智証大師円珍師、十三には聖武天皇と奈良の東大寺大仏さま、十四には藤原鎌足・不比等と興福寺などのお話です。

さて、弘法大師のお話に戻ります。

『今昔物語』の原文は

「早く皇城の南面の諸門の額を書くべし」と。然れば、外門の額を書畢ぬ。亦、応天門の額、打付て後、是を見るに、初の字の点既に落失たり。驚て筆を抛て点を付つ。諸の人、是を見て、手を打て是を感ず。

とされています。大意は平安京の御所の中の門の扁額を早く書いてほしいという依頼を受けそれを書いた。ところがその扁額を打ち付けてよく見てみると應天門の應の字に点が足りない。まだれ广ではなく、がんだれ厂になっていた。それを観て弘法大師は足りていなかったところを下から筆を投げて打つと見事な書体であった。それを人々は手を叩いて褒めはやした

という内容です。そこから弘法の投げ筆という言葉が生まれました。意味的には名人の凄さを称えるものです。

ところが江戸時代に入り、この内容は打って変わってしまい、あの名人の弘法大師も点を忘れてしまう、弘法にも筆の誤りという言葉が生まれました。

江戸時代は本も立ったものが噺家などにより大きく意味が変わっていってしまう時代です。

たとえば地震雷火事おやじも、元々は地震雷加持大山路、大山路とは台風のことですが、このように変化させたのも噺家や狂歌・川柳好きな江戸時代の洒落人によるものでしょう。弘法大師の話もそう変化してしまいました。

 

ところがこの『今昔物語』のこの部分の少し前を見てみると、全くっっっb別の文章が出てきます。

 

亦、日本の和尚、城の内を廻り見給ふに、一の河の辺に臨むに、一人、弊衣を着せる童子来れり。頭は蓬の如き也。和尚に問て云く、「是日本の五筆和尚か」と。答て云く、「然也」と。童子云く、「然らば、此の河の水の上に文字を書くべし」と。和尚、童の云ふに随て、水の上に、清水を讃る詩を書く。其の文点破れずして流れ下る。童、是を見て、咲を含て感歎の気色有り。亦、童の云く、「我れ、亦書くべし。和尚、是を見るべし」と。即ち、水の上に龍の字を書く。但し、右に一の小点付けず。文字、浮び漂て流れず。即ち、小点を付るに、響を発し光を放て、其の字、龍王と成て空に昇ぬ。此の童は文殊に在ましけり。弊衣は瓔珞也けり。即ち失ぬ。

大意は、弘法大師が長安の郊外で有る河の前にくると、ボロボロの衣を着た子供がやってきました。頭はよもぎのようにボサボサ。この同時が弘法大師に問いました。「あなたは日本の五筆和尚ですか?」と。「そうです」五筆和尚とは唐で皇帝より筆の名人の弘法大師に授けられた敬称です。するとそのこどもは「ならばこの川の水の上に文字を書いてみてくいれるだろうか?」と問うと弘法大師は水の上にキヨミズを称える詩を書いたら、その文字が壊れることなく流れていったそうです。それを観て子供は喜び、自らも「では私も書きましょう。」と水の上に龍の文字を書きました。ただし右上の点を付けていなかったそうです。するとその文字は流れていかずそこに漂っていました。そこにその子供が抜けていたその一点を付けると、その文字は響きだし音を出して竜王となって空に登ったそうです。この子供は文殊菩薩であり、ボロボロの服はお堂や菩薩を飾る瓔珞でありました。そして子供は消えたといいます。

 

文殊菩薩は童子形をしているといいますので、その伝承どおりです。あたまも5つの結び目があるといいますので、それがよもぎのごとく通じるのでしょう。そして筆は般若波羅蜜多剣、鋭い諸刃の剣です。今昔物語は不可思議なお話ですが、そのなかにもなにか真実が隠されているようにも思います。

 

このお話と、應天門のお話はどこか通じるものがあります。最後の一点をつけて完成させる。龍が空を飛びだったように、應天門も、最後に一点を加えることで物事を完成させて應天門としての役割を担うようになったのかもしれません。

 

本来は弘法の飛び筆といって、誰もが真似のできない天才性を褒め称えた出来事が、この地上に引き戻されたというのか、全く逆の意味の弘法にも筆の誤りとされてしまったところに人々の俗っぽさを感じざるを得ません。だからこそ、弘法は筆を選ばずという、本来とは全く別の意味も生まれたのかもしれませんね。

 

ちなみに英語では

Even Homer sometimes nods.

ほめろすさえも時には居眠りをする

イーリアス・オデッセイアを書いた歴史家の大家であるホメロスでさえ居眠りするような失敗をすることも有る

という意味です

 

現在の意味での、弘法にも筆の誤り

天才でも謝るのだから、はきをつけておくようにという意味で用いればとても良い意味です。しっかりと心においておきたいですが、本来の物語も知っておいても良いかもしれませんね。最後の一点、ここに完成の意義がある、そう捉えても良いように思います。最後の一点を大切に・・・ここに弘法にも筆の誤りの本来の物語の意味があるのではないでしょうか?

 

今日は 弘法にも筆の誤り の元々の出来事の意味を探るでした

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2022年4月14日 (木)

弘法は筆を選ばず・・・本当? 実は思い切り選んで居られました  名古屋大須の筆屋「伽藍」

「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」

 

弘法は筆を選ばず

という言葉があります いまは弘法大師は書道の名人だったので筆を選ばなかった つまり名人や優れたものは道具に左右されないという意味で用いられています

 

ところが 包丁やノコギリなどに代表されるように、日本の名人という方々は徹底的に道具に拘っています。もちろん弘法大師も人一倍に筆の質にこだわって居られたことが知られています。では弘法も筆を選ばずとはどういうことなのか?

どんな筆でもその筆に合った作品を作ることができたということです。大工さんもノコギリの良し悪しに限らずどんなものでも上手に作り上げるでしょう。しかしその過程でよりスムーズにとか、仕上がり具合がよりレヴェル高くとなると道具に拘るのは当たりまえ。自分の手足そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?一流の料理人にとっての包丁もそうで、どんな包丁でも両人は上手に調理するでしょうが、最高レヴェルのものであったり、調理する過程で余分なエネルギーを取られないためにも道具にはこだわっておられるもの。

弘法大師もどんな筆でもそれなりに字を書かれたのでしょうが、自分が思った通りに自由自在に書くためにはその質を選んだのは間違いないと思います。

弘法も筆を選ばずは・・・世間的な意味でなく、もっと深い意味が有ると知っていただけると嬉しいです。

 

さて、筆屋さんのこと

宗春卿のことで名古屋と関わりを持ち始めた頃。あっ、令和四年四月から栄中日文化センターで「吉宗と宗春」というタイトルの講座を行っています、途中からでも登録可能なのでお申し見いただければと思いますが、

話を戻して宗春卿のことで名古屋にかなりの頻度で出入りするようになり、その過程で大須の大津通に筆屋さんを見つけました。

ふらっと入り。ご主人と話をしながら、塔婆に書く筆を尋ねると、三本くらいの筆を試し書きさせていただいたのです。

そのなかでも 花柳 と名付けられた筆を推奨されました。「いわゆる書道用紙に書を書いたりするのには少し硬くてご住職には向かないかもしれないですが、板に書くならば硬さがちょうどよいのではないでしょうか?」

現在のホームページでは

「中学生までしっかり使える集合力・弾力のとれた

バランスの良い筆」

学童用に分類されていますが、確かにそのおかげで筆全体が若干固めなので、塔婆に書くにはとても書きやすいものです。

それから数度訪れ同じ花柳を手に入れていました。板書きは筆を痛めやすいのですが、この筆はかなり丈夫です。

 

コロナがあったのでしばらく通っていなかったのですが、ふと思い立ち、蔓延防止が終了してから 伽藍 を訪れました。

若い女性が店を守られていました。お話をしている内に、彼女が娘さんで跡を継がれたことを知りました。

花柳の名前を忘れてしまっており、あーだこうだと説明をしたら彼女が持ち出してきた筆があり、それを握るとピッタリの筆がありました。 花柳 。お寺に戻り名前を確認すると全く同じ筆でした。

彼女も父上の思いを受け継ぎ、その人に合ったものを推奨する人でした。目は確かです。

同時に、ある方に巻物に筆書きで手紙を書きたいのだけど良い筆はないですかと尋ねると

「氣韻」を勧められました。試し書きをすると なかなか書きやすい。今まで小筆は若干重めの小筆を用いてきました。筆の重さで書けたからです。しかしこの「気韻」は違いました。書きやすいのです。芸術品を書くには、あまりにも癖がないので向かないかもしれませんが、その癖の無さが手紙のような小文字を書くのに実に向いていました。これも店主さんの目が確かだと思った証左です。

 

入手させていただいた筆の名前を少し調べてみました

 

花柳 かりゅう はなやぎ これは花柳流という芸道もありますし、花柳界といえばかつては遊郭などを意味した言葉ですので、最初は坊さんなのいこれは・・・とも思ったのですが、いや待てよと少し思い立ち本来の意義を調べてみました。花の紅と、柳の緑、たおやかで美しいもののたとえであることを知りました。また「いき」であることもこの花柳にはあるようです。

なるほどと今は思います。花のような色艶があり、柳のようなたおやかさが有る、そして紅と緑は自然の勢いを示す色、これは私にピッタリの意味でした。言っておきますが、私は花柳界とは全く縁がありません。

 

ちなみに「いき」については九鬼周造の『いきの構造』は私の愛読書で、とても大きな影響を受けた本の一冊です。

かなり屁理屈を述べていますが、自分では納得しています。

 

次に気韻

気品の高い趣を意味する言葉。気品生動という言葉がありますが、絵や書道などで気品がいきいきと感じられることとと『広辞苑』では述べられています。気高く品がある、まさに書道とくに手紙に求められる名前。これはいい!

 

それとお店の名前の伽藍。七堂伽藍といいますが、お店は小さくコンパクトにまとまっていて、伽藍堂とは程遠いお店です。しかし、その持つと伽藍の迫力といいますか勢いが筆に載ってくるように思います。実物の店は小さくとも、中身というか充実度は七堂伽藍のように宇宙のようなありかたのお店。ちょっと大げさかもしれませんが、高野山は壇上伽藍を有し、そこに弘法大師の教えが凝縮されています。ですから高野山真言宗のお坊さんにとっては伽藍という名前は格別なんです。

 

 

今日は 筆のお話をしました 「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」でした

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2022年1月30日 (日)

宮様を徹底的に守るべき マスコミのせいにすべからず!

宮内庁の皇嗣大夫が「遺憾」という発言をされたとか。

禁裏に関することには発言を控えようと思っていましたが、これはと感じすこし思いを。


今回の出来事で、マスコミが騒いでしまったこと、悲しいことです。

しかし、その理由は何なのか?こうしたことを宮様の大夫が陛下の側近や内閣と話し合われているのか、甚だ疑問です。


皇嗣大夫が「対応が必ずしも正しくなく、国民の皆様にご心配をおかけしましたことを大夫として陳謝します。責任は一重に大夫である自分にあります。それゆえ、今後はそっと温かくお見守りいただければと思います。」のような発言があれば、こんな炎上はしなかったように思います。


宮様でもないものが宮内庁をバックに上から物申す姿に、とても違和感を覚えます。これでは宮様が気の毒です。なぜ火に油を注いでしまうのでしょうか?


陛下方や宮様方の苦悩はお察し申し上げています。宮様といえ人ですから間違いもあれば誤った判断をいっときされることもあり得ます。

しかし、それを自らの誤りとして、職を賭してお守り通すのが大夫や宮内庁の方々のお役目。

それをマスコミや他者に責任をなすりつけるのは本末転倒あまりにも悲しいです。


マスコミがバカな報道をしたならば、有識者を通して反論すべき。大夫のお役目上、決して上から目線はならないと思うのですがいかがでしょうか?


いま、宮様が叩かれ始めています。これは本来あってはならないこと。だからこそ大夫は怒る発言をするのではなく、自分が悪いと責任を被っていただければ、逆に多くの国民が大夫をもかばっていくように思います。

小手先の対応ではなく、心から宮様を守る、そのためには何が必要なのか、今一度考えてもらうよう大夫のお側の方々が助言できないものかと思っています。


大夫もお悩みでしょう。夜も眠れないのではないかと思います。だからこそ、陛下のおそばにおられる人格者の方々に相談されて行く必要を感じます。また他の宮様方のご意見を賜り、だからこそ自分が責任を取るべき発言が必要なのではないでしょうか?


日本のノコギリや包丁がなぜ押すのではなく引くのか。ここに日本文化の妙があります。宮内庁こそ、この妙を体現していただければ、マスコミも変化していくのではないでしょうか?


これを機会によりよき宮内庁のあり方を検討されれば良いのですが。


まっ、こんな発言も私の勝手な思いですが(^^)

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2020年4月15日 (水)

敵を作らなければ自分を保てない人はこの世で輪廻する

「神仏と共にあるのか、見せかけよく生きるのか?
 正々堂々と生きる高家寺の檀信徒のあり方にホッとする」
(長文注意)
 
コロナ禍の情報を収集している中で、ネット出演している方々を見ての雑感。
特に左傾している方々に、もしくは右翼を演じている方々に見受けられること。
 
誰か敵を作らなければやっていけない人が多いのではないだろうか。
その敵を攻撃するために周りに声を掛けている。
声を掛けられた人の大半は自分で物事をあまり考えない。そういう人たちに自分に都合の悪い情報の大半を隠し、敵にとって都合の悪い情報を、時には捻じ曲げて周りに伝える。
そうやって歪な情報を共有して仲間づくりをしていく。
 
自分にとって都合の悪い情報が入ると、時には感情的になり、時には悲劇のヒーローやヒロインを演じ、時には情報を捻じ曲げる。
 
しかし、時を経ていくうちに仲間と思っていた人はは消え去っていく。
 
仲間が消え去ると、そういうひとはまた別の場所に移る。そこでも同じことを繰り返し、また場所を去って同じことを繰り返す。
 
短い期間で自分を中心とした仲間づくりをしている人、他者の噂話をやたらする人、やたらと秘密を共有しようとする人。話題をよく変えようとする人。こういう人に敵を仕立てる人が多い。
 
 
これは人ばかりでなく組織にも国にも言える。
 
 
どこかの国(組織)を敵視してマスコミを煽る。敵視している国の歪んだ情報を他の国に流し、自国に都合の悪い情報の大半は隠す。
 
自国に都合の悪い情報が入ると感情的になり、時には悲惨な過去があったことをやたらと強調し、話題を変える。
 
しかし、そうした国は他国から敬遠されていき、いつのまにかその国の政権が全く異なるものとなっていく。変わった政権はまた同じことを繰り返す。
 
 
人も国も、何故に敵を造ろうとするのか?
何故に、他を貶めようとするのか?
 
単純な心理かもしれない。
他者を貶めることで、自分の地位を相対的に高めようとするから。
ただそれだけなのではないだろうか。
薄っぺらい生き方は悲しい。
 
自分の見せかけを良くするために他者との比較をするのは筋違い。他者との比較で大切なのは、自分のを磨くときのみ。
 
正々堂々とまっすぐ道を歩むことのほうが楽(らく)であり、楽しい。
 
国も組織も個人も、
自らの幅を広げ、
自らを深く掘り下げ、
高潔にあることを
意識していたほうが、
自分のためにもなり
他者のためにもなる。
 
 
宗教心の問題がここにも現れているのかも知れない。
 
国家にしろ組織にしろ個人にしろ、隣や後ろに神仏が居る、神仏に包まれて生きている、神仏が自心にいることをなんとなく感じていられることは幸いである。
もちろん、そういう国家や組織や人は、誤解をされやすい。ただ存続するためだけに薄っぺらく存続している国や組織や個人に敵視されやすい。
それは、欲を超えた世界で生きており、不思議な出来事が日常茶飯事であるから、時には常識から外れているから、欲にまみれた生き方をしている人には理解できない。
本当は神仏とともに生きるほうが楽であり楽しい。正々堂々と生きられる。
 
うちのお寺の檀信徒には感謝したい。長いお付き合いが多い。ヒエラルキーを作ろうとせず、他者を貶めることもない。その方々のためにも、私個人もお寺そのものも、自らの幅を広げ、自らを深く掘り下げ、高潔にあるようにしたい。
 
※写真は人の運命(さだめ)を解き明かす星曼荼羅

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2020年3月31日 (火)

私にとって歴史の勉強も又、真言密教を深めるため

最近、江戸時代中期の歴史関係(尾張徳川家七代目 #徳川宗春 )の物書きをしている。新型コロナウイルスのために会合がなくなり、その時間を利用している。
 
書くために調べごとをし、論文や書籍を読んでいるうちに感じたこと。
 
やはり私にとって歴史学は補助的な作業に過ぎない。今まで発見されていなかったことを見つけることは楽しいし、椅子に何時間でも坐って調べているとタイムトリップしたように感じる。また色々と関連した出来事も身の回りに起きてくる。
しかし、何かが足りない。
 
調べごとをしていると、必ず #真言密教 との関連のものが出てくる。不思議なほどに。それを見つけるたびに、自分の本道は歴史学ではなく、真言密教だなぁと改めて感じる。そして真言密教関連の調べごとになっていくと、どんどんと深まっていく。祈りにも繋がる。いつも行き着く先は、信心、慈悲と智慧、そして大菩提心。そしてまた歴史に戻るの繰り返し。
 
私にとっては、歴史学も環境倫理もロータリー活動も、文化センターの講師も、そして住職としての活動も、生きていること全てが真言密教。ここに足りないものはなにもない。
 
これを確認しつつ、歴史学の書き物をすると楽しくて仕方がない。私にとって歴史学もまた真言密教を広め深めるためなんだなぁと、自分を笑いつつ楽しんでいる今日このごろ。

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2019年5月31日 (金)

若き日の思い:世俗的な欲望に背を向け、天上の深奥の流れに乗って出家し、いまもまた歩み続けています

若き日の写真を見つけました。若き日のメモを見つけました。若き日の写念仏を見つけました。

高野山に登ると決意したとき、出家を決意したとき、高野山を降りて塾に就職したとき、その塾をやめるとき、止むに止まれぬ思いが身体を駆け巡りました(その思いは一種の狂気なのかもしれません)。

そこには世間的な出世心や金銭的な欲望や単純な知的欲求はなく、遙かなる天上から、深奥なる内なる世界から、その両者から溢れ出てくるエネルギーが私を突き動かしました。そして今もそのエネルギーに乗って生きています。

そのために、ときには世間的な常識から外れることもあります。また世俗的な楽しみが、あまり好きではありません。飲む打つ買い、他者を支配するという世俗的な欲望を理解できません(理解したくもありませんが)。

真言密教の法で祈り、その教えを受け納得し、気付き、目覚め、感じ、体得することほど面白いことは私にはありません。そしてその一端を周りに伝え、共に歩む人と手を携えて歩み、一人でもほんの少しでも共鳴していただくことが至高の喜び。今はただそのために動いています。

寺子屋も、
環境省登録環境カウンセラーも、
中日文化センターの講師も、
ロータリー活動も、
徳川宗春卿のことも、
異宗教間対話も、
すべてが私にとって真言密教という大きな道の中のこと。

こうした道は誰にでも開かれたものではありません。ですから理解してもらえないことが多くあります(残念ながら表面的なお坊さんほどわかってもらえません)。

それでも私は今の道を歩んでいきます。
共に歩もうとする人がいる限り。
私から何かを感じ取っていく人がいる限り。

来月の半ばには、得度して丸34年を迎え、35年目を歩むことになります。あのときの深き強き思いを見つめ直し、その大きな流れに改めて感謝したくなり、こうした投稿をしました。

 

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2019年5月18日 (土)

78:22, 22:78 この比の秘密 雑感

東京オリンピックでミニチュアガンダムが打ち上げられるとのこと。なかなか面白ニュース。一見無駄なようだが、こうしたことで技術が磨かれていくので、悪い話でありません。このガンダムのナンバーはRX-78。この78を見て、ふと思い出したことがあります。

22対78 (前後±1)をご存知でしょうか?

日本に周知させたのは、日本マクドナルドの創業者藤田田。そしてらこの藤田の理論を気に入り、藤田の下まで走ったのが孫正義。

ここで22と78に纏わる話をすると。

正方形を描き、その正方形に内接する円を描きます。すると、その円と正方形の間の余白と、円の面積比はおよそ21.5対78.5になります。およそ22対78です。

空気の成分は、窒素以外の気体 対 窒素 は22対78 です。

新生児の身体の水分75〜80%。ここでも 水以外 対 水分で22対78はおよそのところで成立しています。

78は12番目の三角数です。1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12=78

78も22も楔数(相異なる素数の積〈掛け算〉)でできています。
2×6×13=78 2×11=22

原子番号22はチタン 78は白金

タロットカードの総数は78

タロットカードの大アルカナは22

ヘブライ語のアルファベット数は22

ウルトラ兄弟の故郷はM78星雲

懐かしのレコードのSP盤は78回転

まぁ、偶然にしてはなんとなく傾向のある数字の様です。もちろんこの数字にとらわれると色々問題も生じます。ここが、この78とら22の面白いところ。

この適用も、まぁまぁというか、78%、敢えて八割弱くらいの気持ちで利用すると、とても良いのではないでしょうか?

一例を挙げると、「隣の三尺」。お隣同士もお互い気を遣おうという意味ですが、この22 78を利用できるのではないでしょうか。つまり、親しき仲にも礼儀あり。2割強の意識。手と手を繋ぐ程度。一方、親子や夫婦でも78程度が限度。その枠を超えず相手を尊重することができれば良い距離感になると思います。

商売でも、500円で110円のお釣りがあったり、1000円で220円のお釣りがあったり、また7800円というのは、売れ筋になりやすいそうです。

ただし、なんでもこれが適用できるかというとそれは否です。 こうしたものがあると万能だと思いやすいのですが、残念ながらそういう発想がこの22 78 が分かっていない証拠だと思います。

私個人のことで言えば、伝えたいことの核になる二割より少し多く表現して、その八割弱%を理解していただければ、時には逆に八割弱表現して二割強理解していただければ嬉しいと思いながら、講演や講義をするようにしています。

人との付き合いも、檀信徒や所属している会員とは二割強を超えないようにしています。寺子屋の生徒に対しても二割以上教えこまない、八割弱は自分で解けるように意識しています。これは自立しているからこそお互いに助け合える、二割強程度は手と手を取り合うためには、八割弱は自立していることが大切だと思っているからです。
このように自分なりに応用をしています。

繰り返しますが、なんでもこれを適用することは危険です。自分の気持ちの中で、この78 22を上手に使い、それぞれの工夫の中で利用することも可能かとおもいます。

他の数字も同じで、その数字の持つチカラに目覚めると、自分を深め広げることができるように思います。他に 21 28 3 5 7 は私がよく利用する数字です。

さて、どんな数字を利用されていますか?

 

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2019年1月23日 (水)

メドベージェワとザギトワというフィギュアスケートの二大女王。彼女たちが、まるでアニメのフィギュア(人形)のように。

メドベージェワとザギトワというフィギュアスケートの二大女王。彼女たちが、まるでアニメのフィギュア(人形)のように。(笑)

安倍首相がロシアに訪問したこのタイミング。このCMは時流を見るに敏感で面白い。政府の対話以上に、両国の交流につながるのではないかと感じる。

このCMの企画者は、なかなかの策士^_^

https://www.asahi.com/articles/ASM1Q51VVM1QUTQP00T.html?fbclid=IwAR3SuzJ72r6b6_ZFU2zkNeVIprZ4_agZpfW6e0Osa5lZzIZAdbHVtHfuGeM

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2018年9月20日 (木)

定期的な祈りは何故必要?

高家寺では毎月21日の月例弘法大師報恩日としてお祈りをしています。

毎月、何故に定期的にお祈りをするのでしょうか?

私たちは現実世界の中で生活しているからです。現実世界では、煩悩の泥の中で生きて行かねばなりません。
その泥に汚染されずいるためには、定期的な浄化が必要です。部屋を使えば必ず部屋は汚れるので、掃除が必要であるのと同じです。

お坊さんは毎日の祈りで、浄化しています。ただなかなかそれは檀信徒には難しいもの。

だからこそ、檀信徒の方々には、せめて月に一度は、祈りで浄化してもらうことが最大の狙いです。

また、皆で祈ることで自分一人ぼっちではないということを感じてもらいながら、浄化をしてもらいたい、というのが高家寺の月例弘法大師報恩日の狙いの一つです。

その浄化とともに、ご縁のある方々の菩提を祈ることができますので、これもまた狙いの一つです。

高家寺に限ることではありません。ご縁のある寺社に定期的に訪れて、普段の生活の煩悩というドロを浄化されてはいかがでしょうか。

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