2023年5月10日 (水)

人生を変えた神護寺高雄曼荼羅と師匠

京都市の西北、高雄山神護寺に居る。
話は40年前に遡る。
昭和58年5月のこと。
私は京都国立博物館に入った。
弘法大師と密教展がおこなわれていた。
実を言うと、
この日まで私は弘法大師(空海)が
苦手であった。
何もかも呑み込むその大きさが
鼻についた。
どちらかと言うと
純粋な傳教大師(最澄)に惹かれていた。
御遠忌1150年の前年
私は何気なく展覧会に入った。
そこで生まれて初めて曼荼羅を見た。
曼荼羅という存在を知った。
まずは伝真言院曼荼羅に圧倒された。
その隣にあった高雄曼荼羅。
私は一時間、時間を失った。
弘法大師から逃げていたが
弘法大師に捕まえられた瞬間だった。
そして本を求めた。
それが先日遷化された師匠の本だった。
真言密教に強烈に惹かれた。
気づけば高野山大学に入学し
師匠の弟子となっていた。
それから40年。
今年は弘法大師御生誕1250年。
四月十六日、師匠が遷化。
葬儀で共に柩を担いでいただいたお一人が
神護寺のご住職だった。
火葬場に向かう途中で
高雄曼荼羅が修復されたことを知った。
NHKの撮影があるので来ないか?
とお誘いいただいた。
日程を調整。
本日、令和5年4月10日。
実は旧暦の3月21日
旧正御影供の日。
神護寺では高雄曼荼羅の修復後の
開眼法要が午前中に行われていた。
延期延期の上この日になったらしい。
しかしまさにドンピシャ!
一方、私は偶然にも後輩より
京都国立博物館の親鸞展のチケットを得る。
これまた神護寺近くの
高山寺に関係する経典を
彼のお寺が出していたからだ。
あの日から40年。京博に入った。
そして午後は神護寺。
私の人生を一変させた高雄曼荼羅。
40年ぶりにその高雄曼荼羅と対面した。
本堂の内陣に歩を進める
胎蔵曼荼羅を背中に
金剛界曼荼羅をみる。
空間が歪んだ。
心地よい。歓喜に打ち震えた。
弘法大師が観た曼荼羅
弘法大師が表現された曼荼羅が
再び目の前にある。
しかも今回はまさに目の前。
今回は意識的に二時間近く拝見させて頂けた。
曼荼羅の知識が増えた今
見えてくるものが違っていた。
指のあり方、背景など
細かいところも感じ入った。
弘法大師は実に経典に忠実に描いている。
(ただし不動尊は東寺形)
残念ながら本日来れなかった後輩たちの分も
私は拝見し体感した。
そしてご住職より冊子をいただいた。
できたばかりの冊子。
そこには
我が師匠の文章があった。
これが絶筆とのこと。
思わず涙した。
「先生、本当にありがとうございます」
神護寺を後にしながら
私は叫んでいた(^^)
先生の笑顔が空に見えた思いがした。

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2022年4月13日 (水)

梨の花 雑話

今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」

 

桜は八重桜が咲き、桃の花も散り、

梨の花が綺麗な時節になってきました

あまり知られていませんが

白く清浄であり どことなく梨の甘さが漂う花は

この季節の見どころの一つです

うちの境内にも一本のなしの木があり 小さな実をつけますが

さくらんぼと同じように いつも鳥たちに食べられています

花の話題に戻します

 

ナシの語源はいろいろあるようです。

果実の色が白いことから

「なかしろ」「な・か・し・ろ」となったとか

「色なし」「いろなし」となったとも言われています

また風が多いと実がなりにくいことから「風なし」「かぜなし」とか

中は酸っぱいので「中酸(なかす)」「な・か・す」「なし」

だとか言われています

ただしこの「なし」が「無し」に繋がるので忌み嫌われ

家の庭には植えるなとも言われたそうです。

でもちょっとひねると般若心経の「空」や「無」にも繋がるので

「無罣礙」「無有恐怖」つまり「罣礙無し」「恐怖有ること無し」

などと解釈すれば良き意味だと思います。

よくよく見つめてみると梨園とありますよね。

そうそう歌舞伎の世界を梨園といいますね。

その語源は

唐の最も勢いがあった頃の玄宗皇帝が梨を集めた園に

音楽教習所を設けたことから始まりました。

また玄宗皇帝の愛娼楊貴妃も梨に喩えられます。

死後、仙境に生まれ変わった楊貴妃。

その容姿を唐の名詩人・白居易・白楽天の

有名な「長恨歌」の中で、形容したのが

「玉容寂寞涙欄干 

ぎょくようは じゃくまくとして らんかんに るいす、

梨花一枝春帶雨

りか いっし はる あめを おぶ」 

およその意味は 宝玉のように美しい楊貴妃の顔は寂しげそうで、

涙がぽろぽろぼろぼろとこぼれている。

梨の花が一枝、雨に濡れたような風情である」

そのように楊貴妃による玄宗皇帝への思慕の想いを歌ったこの詩は、

美しき人がひとり思い佇む様子を描いています。

少なくとも絶世の美人である楊貴妃を

梨の花に喩えていたのは間違いなく、

そのたおやかさを表す樹木であったことも間違いありません。

日本では清少納言が『枕草子』で

梨の花、世にすさまじきものにして、近うもてなさず、

はかなき文付けなどだにせず、

愛敬(あいぎょう)おくれたる人の顔などを見ては、

たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、

唐土(もろこし)には限りなき物にて、詩(ふみ)にも作る、

なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、

花びらの端に をかしき にほひこそ、心もとなう つきためれ。

楊貴妃の、帝の御使に逢ひて泣きける顔に似せて、

「梨花一枝、春、雨を帯びたり」など言ひたるは、

おぼろけならじと思ふに、なほ いみじうめでたきことは、

類あらじと覚えたり。

 

梨の花は、世間一般ではつまらないものだと考えられていて、

身近において愛でることはなく、

ちょっとした手紙を結びつける枝にも使われない。

優美な魅力の劣る人の顔を見ては梨の花に喩えていうほどで

まったく葉の色からしても色の配色が良くなく見えるのだが

唐土(チャイナ)ではこの上もないものとして

詩にも詠まれている。

それでたとえそうであったとしても役立つことはあるだろうと

しいて見てみると

花びらの端のほうに、風情のある美しさが

はっきりとはわからないぐらいについているようだ

 

楊貴妃が玄宗皇帝の使者に会った時に泣いた顔に合わせた表現で、

「梨花一枝、春、雨を帯びたり」というのは、

たやすいことではないと思うのだが、

やはりなんといっても本当に素晴らしいことは

他に類がないもののようにも思われてしまうの。

 

まぁ見事なくらい世間では梨を嫌っているかのように

清少納言は無しを最初はくさすのですが。

最後は少し教養を持ち出してなしの素晴らしさを伝えています

清少納言の知る梨の木は、

楊貴妃を喩えた枝や 私たちが現代で観る枝と

異なっていたのかもしれませんね・・・

 

さて梨の花言葉は、英語では「affectionすなわち愛情」

また樹木としての花言葉は英語ではcomfort 「癒し」「慰め」

そして梨の誕生花の日付は420日、430

 

家に植物としての梨を植えないほうが良いと

言い伝えられていますが、

先程も述べましたが

仏教的には「罣礙なし」「恐怖あることなし」となりますから

お寺にはとても良い樹木だと私は感じます

 

何よりも香りが良い花でもありますから

 

 

今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」でした

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2022年4月 9日 (土)

否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?

遊歩の言いたい放題 「否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?

 

仏教界関連でよその宗派の方々と話していると

ある特定の話し方が気になって仕方がありません。

 

仏教は○○○ではありません

***です

 

一見なんでもない発言ですが 否定と断定の言葉

 

よくよく注意していると

絶対ではありませんが、こうした発言をされるのは

ある特定の宗派の方が多いことが見えてきました

 

発言がとても短絡的というかかなりの決めつけが多い

 

仏教も宗教なので一つの方向を示すのは当然ですが

何か押し付けられている感覚があります

 

考える余地を残さない発言は洗脳に繋がり易いので

へそ曲がりの私にはどうも耐えられないのです

 

確かに○○○という考え方もありますが

仏教では***という見方もありえますが

如何でしょうか?

 

私は師匠方から

相手に選択肢を残す考え方が大切であると教えられてきました

仏教は自覚を促すことを大切にするからです

自ら見つめ考えることを大切にする教えとも言えるでしょう

 

時と場合にもよるでしょうが

やはり断定的に押し付けるのはかなりの違和感があります

 

ただし逆も言えることで

受け手が断定的な言葉には疑問符をつけるという変換が頭の中にあれば

問題なしなのかもしれませんね(^^)

 

こんなことを考えているさなかに

夜の名古屋城に生きました

確かに美しいのですが、これではそう思わない人もいるだろうなぁと

ライトアップはやり過ぎかなぁと

感じる人もいるように思えました

 

まぁこうした考えに反対の方もいらっしゃるでしょう

ただこうしていろいろな側面から物事を見れるといいですね

 

改めて

緩やかであり

誤差をもゆったりと受け止めてくれる

慈悲に満ちた真言宗を選んで

良かったなぁと私個人は感じています

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2022年4月 8日 (金)

108とは何か?

今日は 遊歩の言いたい放題 「108とはなにか?」です

 

一般的には仏教では、除夜の鐘に代表されるように百八煩悩はじめ108という数字

百八煩悩といえば

その根拠の数字は

六根にそれぞれ好・悪・平があり6×318

それぞれに浄と染があるので18×2=36

そしてそれぞれに過去・現在・未来があるので36×3108

または

六根に好悪平の6×318

六根に苦楽捨の6×318

合わせて18×2=36

それぞれに過去現在未来で36×3108

または十纏と九十八随眠で108

という理屈で言われてきました

 

それに合わせて

大般若経や大智度論には百八三昧

方等大荘厳経には百八法門

法華経化城品には百八十劫

無量寿経には百八十億菩薩

金光明最勝王経には一百八十不共之法

入楞伽経には百八見

 

真言関係では百八名讃・百八護摩・百八念誦・百八尊

実に多くの百八がでてきます

 

 

それにともない真言を数える場合に100ではなく108回が基本です。

数珠もまたしかりで真言で用いるお数珠は百八が基本です

 108すれば100は超えるから

という言い伝えも有るほどです。

しかし、しかし

それにあまり納得はしていませんでした

納得していなかったのですが

修練には必要なので用いてきた

100より108のほうが修行的には確かにしっくりくるので

深く考えず108回を大切に念誦をしてきました。

 

ところが毎月第一月曜日におこなっている宿曜:密教占星術の勉強会でふと気づいてしまいました

仏教の宿曜は27宿です

古代のチャイナ起源のものは28宿なのですが

仏教はあくまでも27宿です。

たまたまチャイナの二十八宿の名前を借りたものでややこしくなってしまいましたが

基本的に仏教の宿曜の各名前の漢字には全く意味がありません。

さてこの27を四季を意味する四倍にすると

27×4108

 

おおおおお

 

これを少し考察してみると、

一年は12ヶ月。

一ヶ月はおよそ30日なので、

10日ずつ上旬中旬下旬の三つに分けると、

一年で12×336旬 

この一旬を3つに割ると 

36×3108

なるほどぉ・・・

 

ひょっとすると108とは仏教起源ではなくインド占星術なのではと考え調べてみましたら

やはりありました

https://shrifreedom.org/yoga/importance-of-108/

 

108はインド占星術に関係しているようです。

インドにおいて占星術はとても重要です

仏教経典でも時折引用していますから、

その流れで108があるのではないかと

つまりインドの元々あった習俗の中に108を神聖視するものがあると納得。

 

これで百八煩悩ではなく

天の分け方であると見れば気持ち良く108を真言念誦で数えられる・・・

とおもいきやびっくり仰天考察を発見

この先程のサイトにビックリ考察が出ていました

そのままの数字を書くと著作権にも触れてしまいますので

私なりに数字は検証を施しました

 

太陽と地球の距離は およそ149,600,000km

太陽の直径は およそ1,392,700km

これを割り算すると107.4172471..... あらぁ...

月と地球の距離は およそ380,000km

月の直径はおよそ 3474.8km

これを割り算すると109.358812

ちなみに地球の直径は12,742km

太陽直径÷地球直径=109.299953....

あららどれも108に近い数字

恒星惑星衛星間の距離は

伸び縮みするのでかなりの誤差は出やすいですので

自然科学的には一概に108という数字を当てはめられませんが

宗教的に見れば誤差の範囲とも言えるほどどれもが近い数字です

地球が365日で太陽の周りを回るのも360度に対する5日ほどの誤差

この誤差があるから生物が生きられるといいますので

誤差もまた慈悲。

これは24時間の自転の誤差にも当てはめられるようです。

誤差はぴったりよりも、緩やかな慈悲ととらえるとなんとも言えないしっくり感です。

やはり108は神秘な数字。

ただし誤差も許容すべし・・・・

 

この天の差配を偶然と観るのか 意味有るものとして内面化するのかは

個人差がありましょう。

ただトレッキーでも有る宇宙大好きな私には

この108前後の数字は

宇宙を構成するなにかヒントが有るのかもしれないと考えると

ワクワクして、よりいっそう修行に励めめます(^^

 

ということで今夜は大好きな大好きなスタートレック・ピカードを観て

宇宙の法則性を感じてみようと思います

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2020年4月15日 (水)

敵を作らなければ自分を保てない人はこの世で輪廻する

「神仏と共にあるのか、見せかけよく生きるのか?
 正々堂々と生きる高家寺の檀信徒のあり方にホッとする」
(長文注意)
 
コロナ禍の情報を収集している中で、ネット出演している方々を見ての雑感。
特に左傾している方々に、もしくは右翼を演じている方々に見受けられること。
 
誰か敵を作らなければやっていけない人が多いのではないだろうか。
その敵を攻撃するために周りに声を掛けている。
声を掛けられた人の大半は自分で物事をあまり考えない。そういう人たちに自分に都合の悪い情報の大半を隠し、敵にとって都合の悪い情報を、時には捻じ曲げて周りに伝える。
そうやって歪な情報を共有して仲間づくりをしていく。
 
自分にとって都合の悪い情報が入ると、時には感情的になり、時には悲劇のヒーローやヒロインを演じ、時には情報を捻じ曲げる。
 
しかし、時を経ていくうちに仲間と思っていた人はは消え去っていく。
 
仲間が消え去ると、そういうひとはまた別の場所に移る。そこでも同じことを繰り返し、また場所を去って同じことを繰り返す。
 
短い期間で自分を中心とした仲間づくりをしている人、他者の噂話をやたらする人、やたらと秘密を共有しようとする人。話題をよく変えようとする人。こういう人に敵を仕立てる人が多い。
 
 
これは人ばかりでなく組織にも国にも言える。
 
 
どこかの国(組織)を敵視してマスコミを煽る。敵視している国の歪んだ情報を他の国に流し、自国に都合の悪い情報の大半は隠す。
 
自国に都合の悪い情報が入ると感情的になり、時には悲惨な過去があったことをやたらと強調し、話題を変える。
 
しかし、そうした国は他国から敬遠されていき、いつのまにかその国の政権が全く異なるものとなっていく。変わった政権はまた同じことを繰り返す。
 
 
人も国も、何故に敵を造ろうとするのか?
何故に、他を貶めようとするのか?
 
単純な心理かもしれない。
他者を貶めることで、自分の地位を相対的に高めようとするから。
ただそれだけなのではないだろうか。
薄っぺらい生き方は悲しい。
 
自分の見せかけを良くするために他者との比較をするのは筋違い。他者との比較で大切なのは、自分のを磨くときのみ。
 
正々堂々とまっすぐ道を歩むことのほうが楽(らく)であり、楽しい。
 
国も組織も個人も、
自らの幅を広げ、
自らを深く掘り下げ、
高潔にあることを
意識していたほうが、
自分のためにもなり
他者のためにもなる。
 
 
宗教心の問題がここにも現れているのかも知れない。
 
国家にしろ組織にしろ個人にしろ、隣や後ろに神仏が居る、神仏に包まれて生きている、神仏が自心にいることをなんとなく感じていられることは幸いである。
もちろん、そういう国家や組織や人は、誤解をされやすい。ただ存続するためだけに薄っぺらく存続している国や組織や個人に敵視されやすい。
それは、欲を超えた世界で生きており、不思議な出来事が日常茶飯事であるから、時には常識から外れているから、欲にまみれた生き方をしている人には理解できない。
本当は神仏とともに生きるほうが楽であり楽しい。正々堂々と生きられる。
 
うちのお寺の檀信徒には感謝したい。長いお付き合いが多い。ヒエラルキーを作ろうとせず、他者を貶めることもない。その方々のためにも、私個人もお寺そのものも、自らの幅を広げ、自らを深く掘り下げ、高潔にあるようにしたい。
 
※写真は人の運命(さだめ)を解き明かす星曼荼羅

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2020年2月25日 (火)

対処だけでなく根本原因を見つめる視点が大切:ある北欧の医師の本を読んで感じたこと

ある北欧のお医者様の本を読んで感じたこと。
彼が夫婦でアフリカの貧村に赴き強く感じたのは、目の前の患者への対処ではなく、もっと広い範囲の #公衆衛生 こそが重要であること。
「目の前の患者を治すことこそが医者の使命だ」と強く同僚に叱られたそうだが、公衆衛生に対する考えは変わらなかった。
目の前の患者の治療だけでは、患者の数が減っていかない。その無力感から、より広範囲に目を向けた結果、そもそも病にならない環境を指導していくことこそが、患者の数を減らすことではないかと気づいた。
そこから彼は公衆衛生に尽力し、見事に結果を出し、世界的にも有数な公衆衛生の権威となっていった。
この考え方は、実は公衆衛生にとどまらない。
病も、目の前の病に薬だけで対応するのではなく、普段の食事や呼吸も大切であるのは当然のこと。しかし、人はなかなかそれを事実として受けいれ実行しきれていない。もちろん今苦しんでいることに対応することはないがしろにされてはいけないのも事実だが、より大きな視点も重要。
犯罪も同じで、目の前の犯罪の取り締まりだけではなく、犯罪が起きにくい仕組みを作ること、そこがポイント。小さな例を出すと、スピード違反を取り締まるのではなく、スピード違反をしにくい仕組みこそが重要。そもそも制限速度があるのに、それを遥かに超えるスピードの出る車があり、それを売りにしていることが問題。
政治にも、経済にも、宗教にもいえる。目の前のことは大切で、それに対処することも重要。しかし、個別にではなく、目に見えないもっと広い範囲のことも意識においておかねばならないことが多いのも事実。
こうした視点を忘れないでいたい。

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2019年9月 7日 (土)

他者と何が違うのか? ある田舎真言坊主の独白

他者と何が違うのか?


少し、自問した。


すると、高校時代に大きな転機があったことが分かった。

父が単身赴任海外出張していたバンコクを訪ね、貧民街を伯父と二人で歩いてから人生観が変わった。

それまでは全くの理系で、人を相手にすることが苦手だった。ところが、その貧民街を歩いて、自分の持つ視野の狭さに躓いた。心の奥底に眠っていた自分が目覚めてしまった。

そんな時、本を読む機会が増えた。和訳だがギリシア古典を読むようになり、ついには哲学書に手を出してしまう。ハイデガーだった。さっぱり分からなかったが、読破して喜びを感じる。

そこから、キェルケゴールや、ショーペンハウエルなどの実存系の哲学書にはまっていく。しかし、読めば読むほど、奥底の声が違うと叫んだ。

聖書を読み始めた。旧約から新約を読み始めふた回り読破した時、ヨブ記の特異性に惹かれていった。

そんなある日、本屋でカール・ヒルティを知る。嵌ってしまった。法律学者であり政治家であった彼の根幹は聖書であった。『キリストにならいて』を彼を通して知り、愛読書とした。今思うと恥ずかしながら、パン屋で種無しのパンを焼いてもらい、ワインを買ってきて、一人でイエスを想い、食をしたことも数度ある。

それから、本だけではなく、宗教関連施設を訪ね、僧侶や神父、牧師を訪ねていくようになった。

その途中で、京都国立博物館で初めて曼荼羅(伝真言院曼荼羅と高雄曼荼羅)を見て、時間を失った。一時間、経っていたが私には1分も感じていない状況だった。

弘法大師への思いが募り、高野山に登ってしまう。


私の基本は、この頃にあった。乱読とは言え、多くの西洋古典や西洋哲学書を読んだ。ヒルティの影響が強く、カントやギリシア古典を多読した。聖書を何度も読んだ(通読はニ回)。その時の読書が、その後の密教理解にとても役立った。むしろ、密教を理解するための訓練を、カントやギリシア古典・聖書を通しておこなっていた。これも今思えば、私という自我を形成するために必要な過程であったと思う。

咀嚼する牙は西洋哲学やギリシア古典・聖書によって磨かれていた。


ヒルティを久しぶりに手に取った。岩波の『幸福論』は五冊は買っている。それくらいボロボロになるまで読んだ。書き込みもした。彼の全集も手に入れ、『幸福論』はドイツまで行ってドイツ語まで手に入れ、気になる単語の元の単語を調べるようにもなっていた。そして、いつのまにか、密教という牙でヒルティを読むようになっていた。


このところ、お寺の住職として、流れに流されている感が少なからずあった。

久しぶりのヒルティはそれを元に戻してくれた。


あの時の、心の奥底からの情熱を改めて見つめると、恥ずかしいが、やはり相当な熱量であったと思う。方向も間違ってはいなかった。もう一度、その流れの基本を見直す機会を得たように思う。


明日から変わるわけではない。


しかし、大きな大きな流れの中で生きている自分の個性を見つめ直せたことは大きい。

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2019年6月26日 (水)

どんな宗旨宗派にも密教あり

弘法大師の深い教えは、

あらゆるところに密教が有るというもの。

 

どんな宗旨宗派にも密教があり、

そこに触れたものは表面的な密教徒よりも

深い密教者だと私は感じている。

 

密教徒として密教者と手と手を取り合いたい^_^

 

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2019年6月25日 (火)

形式的な宗旨よりも信仰心

広く深い信仰心を持つ人は匂いでわかる。
宗旨宗派を超え手と手を取り合える。

それは人知を超えた感覚。
互いに補完しあえる、
いわゆるオーラや使命があるのかもしれない。

宗派が同じであることよりも、
信仰心の広さと深さを
分かり合える人の方が
心地良い。

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2019年5月31日 (金)

若き日の思い:世俗的な欲望に背を向け、天上の深奥の流れに乗って出家し、いまもまた歩み続けています

若き日の写真を見つけました。若き日のメモを見つけました。若き日の写念仏を見つけました。

高野山に登ると決意したとき、出家を決意したとき、高野山を降りて塾に就職したとき、その塾をやめるとき、止むに止まれぬ思いが身体を駆け巡りました(その思いは一種の狂気なのかもしれません)。

そこには世間的な出世心や金銭的な欲望や単純な知的欲求はなく、遙かなる天上から、深奥なる内なる世界から、その両者から溢れ出てくるエネルギーが私を突き動かしました。そして今もそのエネルギーに乗って生きています。

そのために、ときには世間的な常識から外れることもあります。また世俗的な楽しみが、あまり好きではありません。飲む打つ買い、他者を支配するという世俗的な欲望を理解できません(理解したくもありませんが)。

真言密教の法で祈り、その教えを受け納得し、気付き、目覚め、感じ、体得することほど面白いことは私にはありません。そしてその一端を周りに伝え、共に歩む人と手を携えて歩み、一人でもほんの少しでも共鳴していただくことが至高の喜び。今はただそのために動いています。

寺子屋も、
環境省登録環境カウンセラーも、
中日文化センターの講師も、
ロータリー活動も、
徳川宗春卿のことも、
異宗教間対話も、
すべてが私にとって真言密教という大きな道の中のこと。

こうした道は誰にでも開かれたものではありません。ですから理解してもらえないことが多くあります(残念ながら表面的なお坊さんほどわかってもらえません)。

それでも私は今の道を歩んでいきます。
共に歩もうとする人がいる限り。
私から何かを感じ取っていく人がいる限り。

来月の半ばには、得度して丸34年を迎え、35年目を歩むことになります。あのときの深き強き思いを見つめ直し、その大きな流れに改めて感謝したくなり、こうした投稿をしました。

 

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