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2024年5月27日 (月)

功あるものには報奨を 得あるものには地位を 与えよ


ある組織で、アイデアマンであり、実行力に長けた者が居たとする。
いくつものミッションをこなし成果を上げる。
それを見て、その人の上司や先輩は、地位や肩書を上げようとする。
ところが、その人はアイデアを出して実現することそのものに喜びを見出していることが多く、出世を望んでいるわけではないことが少なくない。
地位が上がると、やりたいことが逆にできなくなり、その人の幸福感は満たされなくなりやすい。
そうした人には、そのアイデアや実行力に対して何らかの一時的な褒賞を与え、より自由にアイデアを出したり、より柔軟に実行したりできる場所を提供することが大切。

かつてある有名な武将が後世に伝えた言葉がある。
「功あるものには褒賞を、徳あるものには地位を与えよ。」
地位や肩書と功績とは、必ずしも連動させる必要がないという。こうした視点を私たちは忘れがち。

アイデアを出し実行することで人間力が増していく人もいる。そうした人には、時には地位や肩書きを与えることも重要。
何でも一律に物事を見るのではなく、柔軟に柔軟に、ありのままに見つめていたいもの。

人には人のお役目があり、それを見誤ると、組織も個人も不幸になってしまう。

長く続く活力ある組織は、地位と褒賞を上手に使い分けていることが多い。

昨日、ある方の維摩居士の投稿を読み、曼荼羅を見つめていて感じたことを、記しました。

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2024年5月 4日 (土)

導き

導き
昨日、車検を受けた車を受け取り、帰路江南市の西山浄土宗曼陀羅寺の藤まつりに寄った。
実は車検のためにディーラーに車を持ちこみ、帰り際で寝落ちしてしまった。もちろん運転はかみさん。ところが道を間違え、途中で起こされた。そのルートは曼陀羅寺の前を通るルートであった。そのときは時間が遅かったので、改めて訪れようということになった。
藤はすでに枯れ、一部のみではあったが、それはそれで、面白さはある。そして今回はその藤に導かれた。
本堂の阿弥陀如来は、衣文の彫り方は快慶を意識したものであった。時代は江戸期なのかもしれないが、とても素晴らしい作品であった。等身大よりも大きいかもしれない。とても力強く、そしてどこまでも優しい、来迎印の立像。
そして特別展示。奥に行くと、天上に広目天の張り紙。四天王の名前の張り紙は面白い。これは参考になった。うちでも、少し工夫してやってみようと思う。ただし、施餓鬼旗も掛けてあったが順番が???。ま、これもご愛嬌。とその部屋には徳川歴代のご位牌があった。もちろん東照大権現が真ん中で、向かって左側がた秀忠公、右側が家光公。カミさんがご先祖に対して真剣に手を合わせた。
奥に入る。曼荼羅殿。奈良の當麻寺曼荼羅のせ細緻な模写。ここから曼陀羅寺の名がある。當麻寺は浄土宗と高野山真言宗の両方で担っている。ここにもちょっとしたご縁なのか。ここの面白い祀り方は、本堂は単独像であったが、この曼荼羅の両脇に勢至菩薩と聖観音菩薩がおられた。華奢なお姿である。その奥には尾張徳川歴代のお位牌があった。近寄れなかったのでどなたのものかを確認できなかったのは残念である。
本堂裏に行くと、先ほどの両脇侍の体内仏が祀ってあった。名前は観音と勢至とされているが、両方とも図像学的には聖観音である。特に勢至菩薩の中にあったというお像の出来が良い。なんといってもお顔が良い。私は聖観音だと思うのだが、どちらも宝冠がとれているので断定はできない。もし水瓶があれば大勢至菩薩なのだが^_^
今回は藤に導かれた。先日、父方の藤吉家の法事があったばかり。また父方も母方も、別々のお寺だがどちらも西山浄土宗の古くからの檀家。なんだかご先祖に導かれた感覚がある。
さらに尾張徳川の研究者でもある私には尾張公のお位牌はとても関心がある。
さらにこの、曼陀羅寺の本堂を再建したのは、徳島藩の初祖蜂須賀家政。彼は蜂須賀小六の子で、尾張出身である。だからこそ故郷のお寺の本堂を再現した。そして、昨年末に徳島に行ったのだが、その際に訪れたお寺がある。そこの本堂を再建したのも蜂須賀家政。自分の四女のために造ったという。そして、その方の長女が我がお寺高家寺の開基。加納藩戸田松平家の二の丸殿。
こうした連鎖はこじつけかもしれないが、そこに意味を自分なりに今の境地に従って見出していくことは、真言密教の真骨頂。空を見上げて弘法大師に感謝した。
すると思い出したのだ。
今からちょうど四十年前のこの日に、九度山の慈尊院から高野山まで歩いて登ったことを。途中、お腹が痛くなり横道に逸れたら、そこに丹生都比賣神社、すなわち高野山の鎮守様があり導かれたことを。くたくたになりながらもあの町石道を独りで登ったことを。高野山に車ではなく、歩いて登った日であったことを。
まさに導きに出会えた日であった。

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2024年5月 1日 (水)

自然科学と大乗仏教

従兄に世界的な分子生物学者がいる。76歳だが、特別栄誉教授として国立大学の医学部の研究室で今も研究をしている。彼の母が亡くなり、私も葬儀法事に参列した。そこで、色々と話す機会があった。
先天的な才能と、後発的な技能。それを脳のシナプスレベルで調べてみると面白いことが最近わかってきたらしい。
私は自然科学者ではないので、かなり端折って述べてみる。
ニューロンとニューロンを繋ぐシナプスは生まれた時に総量が決まっている。このシナプスの信号が、能力と関わっているらしい。よく使う能力は、シナプスでの信号が太くなる。これを長期増強といい、使わないものは長期抑圧といい、能力が発揮できない。つまりよく使うものは発展して、使わないものは退化するという。しかしシナプスそのものがなくなるわけではない。
ところが、世界的なバイオリニストの脳を調べた時に、明らかに後になって生まれているシナプスがあるという。この仕組みはまだ解明できていないが、従兄は仮説を立てているらしい。
ただし、今回のこの話は仮説のことではない。
私は真言僧。その視点からすると、シナプスの長期増強は精進によって生まれるのではないかと感じる。精進とは努力と工夫を繰り返していくこと。お焼香に象徴されるように続けていくことが眼目。同じことを何度も何度も繰り返す真言念誦、またはその大掛かりな修法は何度も何度も繰り返す。これを集中的に繰り返していると能力に変化が起きることがある。これがシナプスの長期増強と繋がっているのではないか。
この精進は時に辛いこともある。その辛さを超えていくことはある意味で辛抱、つまり忍耐とも言えるのではないか。六波羅蜜では忍辱として辱めに耐えることだが、精進の辛さを乗り越えていくこともまた忍波羅蜜と密接な関係なように思う。
さらに、その続けていくことを習慣化すること。この習慣化がシナプスの長期増強へとつながっているのではないか。良き習慣とはサンスクリットですシーラ。つまり戒のことである。仏教で戒を重要視するのは、覚りの道をある意味で自動化するこではないのか。つまり覚りの道という良き習慣を身につけること。
このように現代の最先端科学を見つめることも、真言密教の道を極めることの補強になると考えさせられた。もちろんオウムのようにヘッドギアをして脳波を測ったり電気信号を送るようなことは、私は望まないし、科学的な方法論とか宗教者の正しいあり方とは私は思っていない。
しかし、宗教者として今の自分の境地にい気づだからこそ、この葬儀法事というタイミングで御仏により従兄と会わせていただき話を聞くことができたのも事実である。機根とは何なのかも考えさせられた。後発に生じるもの、ここにある意味で大きな秘密があるのかもしれない。
今後も従兄とは色々教えていただくことを約束した。その約束の瞬間に、科学にも目を向けていた師匠の姿を思い浮かべた。そして土木などの当時の最先端技術を習得していた弘法大師の姿も。
このところの奈良博や東大寺ミュージアムの真言院展、そして従兄の交流、善きながれが起きている。感謝ばかり。
ただしこの話はまだ前半。
後半については、数日内にYouTubeビデオで語ろうと思っている。

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