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2024年4月25日 (木)

ようやくここまで到達した

ようやくここまで到達したという思いがある。
真言密教の毎日おこなう修法は、御本尊をお迎えする準備をし、お迎えして接待し、入我我入と真言念誦などをし、自分もまた仏であることを自覚して、御本尊を送り出し、後片付けをするもの。その一つ一つの作法は大乗仏教の深い理論で意味づけられている。
この修法そのものがとても大切なのだが、実はこの修法で身につけていく大乗仏教の意味づけが、普段の私たちの日常生活の所作への訓練にもなっていることにようやく気づくことができた。
毎日の呼吸や人との出会いや対話、自然との対話、出来事、そのほかありとあらゆるものが大乗仏教の理論で意味づけすることができるようになる。日常生活もまた大いなる命からいただけた大切な学びの場であり、教えを身につける場であり、実践の場。そしてその意味づけも、日数を経るごとに深まっていく。肉体の衰えも日々進んでいるが、まるで反作用のように精神的には深い海に潜っていけるようになる。
修法を特別に行わなくても、自然に呼吸をするように、この世界もまた真理の顕れなんだと実覚することができるようになるには、修法の繰り返しが必要なのであろう。
今更ながら、ようやくここまで来れた。いや、すでにかなり以前からこの海の中#にいた。しかし、それを自覚することはなかったが、あるきっかけで目が覚めた。
世界は仏の慈悲で満ちている。一方では、無慈悲なことも満ち満ちている。修法を繰り返しているとその無慈悲もまた慈悲に連なるものと見ることができる。
この海はまだまだ奥が深い。この世にある限り、その深き海へ潜り、それを楽しみたい。そして命数尽きたとき、笑顔で阿字の世界に溶け込みたい。

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