孤高に生きるか?
屯(たむろ)して生きるか?
こうした極端なものではなく
その真ん中で微妙には揺れながらも
どちらも包み込むような在り方をしたい。
だから宗教政治とかいう訳のわからないものからは、身を離している(孤高)。
ロータリークラブという俗世間の団体にも属している(屯す)。
一昨日・昨日の高野山での学びは
生涯忘れないものになるだろう。
それほどのものがあった。
打ち震えた。
お大師さまが
高野山を選ばれ修禅の道場とし
東寺を根本道場とし慈悲発露の拠点とされたことに比べれば
小さな小さなことではある。
それでも昨日の学びの中で、
お大師さまにほんの少し微笑んでいただけた実感を得た。
高野山のような聖地に山登りするのは上求菩提の象徴、
そして山を下り衆生と共に俗世で生きるのは下化衆生の象徴。
だから時間をかけてでも時折高野山に上っているのかもしれない。
仏教的には能所とは、主客とか、動静とか、見愛とか、取捨とかその他、二つの対立軸を否定する。
しかし、一旦その対立軸を文殊の剣でスパッと否定したのちに、その両者を広く大きく受け止めることが重要。
二つの対立軸は実は一つの大きな振り子であるのかもしれない。
高野山で学ぶこと、これは私にとっても命の一部と、強く強く実感した。
ごめんなさい、具体的なことは書けません=(^.^)=
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