今回は、奈良博と東大寺ミュージアムの話ですが
言いたいことはそこがメインではありません。
なにか善き流れに乗っているときは
眼の前に形となって答えが出てくるもの。
それに気づくことができるか否かが重要。
そのことを伝えるための法話です。
法話であれなんであれ表面的に捉えることも重要ですが
そこに自分なりの答えを見出す。
それが隠されている如来の秘密を超えて
隠れている衆生の秘密に気づく瞬間です。
自分自身の境地を深めることを、
安易に妥協することなく、
無様でも良いので、
コツコツと続けていってください。
ようやくここまで到達したという思いがある。
真言密教の毎日おこなう修法は、御本尊をお迎えする準備をし、お迎えして接待し、入我我入と真言念誦などをし、自分もまた仏であることを自覚して、御本尊を送り出し、後片付けをするもの。その一つ一つの作法は大乗仏教の深い理論で意味づけられている。
この修法そのものがとても大切なのだが、実はこの修法で身につけていく大乗仏教の意味づけが、普段の私たちの日常生活の所作への訓練にもなっていることにようやく気づくことができた。
毎日の呼吸や人との出会いや対話、自然との対話、出来事、そのほかありとあらゆるものが大乗仏教の理論で意味づけすることができるようになる。日常生活もまた大いなる命からいただけた大切な学びの場であり、教えを身につける場であり、実践の場。そしてその意味づけも、日数を経るごとに深まっていく。肉体の衰えも日々進んでいるが、まるで反作用のように精神的には深い海に潜っていけるようになる。
修法を特別に行わなくても、自然に呼吸をするように、この世界もまた真理の顕れなんだと実覚することができるようになるには、修法の繰り返しが必要なのであろう。
今更ながら、ようやくここまで来れた。いや、すでにかなり以前からこの海の中#にいた。しかし、それを自覚することはなかったが、あるきっかけで目が覚めた。
世界は仏の慈悲で満ちている。一方では、無慈悲なことも満ち満ちている。修法を繰り返しているとその無慈悲もまた慈悲に連なるものと見ることができる。
この海はまだまだ奥が深い。この世にある限り、その深き海へ潜り、それを楽しみたい。そして命数尽きたとき、笑顔で阿字の世界に溶け込みたい。
孤高に生きるか?
屯(たむろ)して生きるか?
こうした極端なものではなく
その真ん中で微妙には揺れながらも
どちらも包み込むような在り方をしたい。
だから宗教政治とかいう訳のわからないものからは、身を離している(孤高)。
ロータリークラブという俗世間の団体にも属している(屯す)。
一昨日・昨日の高野山での学びは
生涯忘れないものになるだろう。
それほどのものがあった。
打ち震えた。
お大師さまが
高野山を選ばれ修禅の道場とし
東寺を根本道場とし慈悲発露の拠点とされたことに比べれば
小さな小さなことではある。
それでも昨日の学びの中で、
お大師さまにほんの少し微笑んでいただけた実感を得た。
高野山のような聖地に山登りするのは上求菩提の象徴、
そして山を下り衆生と共に俗世で生きるのは下化衆生の象徴。
だから時間をかけてでも時折高野山に上っているのかもしれない。
仏教的には能所とは、主客とか、動静とか、見愛とか、取捨とかその他、二つの対立軸を否定する。
しかし、一旦その対立軸を文殊の剣でスパッと否定したのちに、その両者を広く大きく受け止めることが重要。
二つの対立軸は実は一つの大きな振り子であるのかもしれない。
高野山で学ぶこと、これは私にとっても命の一部と、強く強く実感した。
ごめんなさい、具体的なことは書けません=(^.^)=
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