神護寺の曼荼羅に誓ったこと
人には人の役割が有る
師匠のように表に立たねばならぬ人
表に立たずに次代を導く人
それらを下支えする人
どの役割が重要かではない
生まれも同じことが言える
世襲で受け継いで行かねばならない人
新たな道を作る人
それらを支えていく人
色々有るから世の中は面白い
全部一色では生きる意味が見出せない
曼荼羅はそれを自覚させてくれる
では自分は?
子供の頃からの自分を振り返る
僕には僕の役目があった
それを改めて自覚する
曼荼羅に誓う
この世での自分の役目を果たすことを
四十年の時を経て
高雄曼荼羅は教えてくれた
京都市の西北、高雄山神護寺に居る。
話は40年前に遡る。
昭和58年5月のこと。
私は京都国立博物館に入った。
弘法大師と密教展がおこなわれていた。
実を言うと、
この日まで私は弘法大師(空海)が
苦手であった。
何もかも呑み込むその大きさが
鼻についた。
どちらかと言うと
純粋な傳教大師(最澄)に惹かれていた。
御遠忌1150年の前年
私は何気なく展覧会に入った。
そこで生まれて初めて曼荼羅を見た。
曼荼羅という存在を知った。
まずは伝真言院曼荼羅に圧倒された。
その隣にあった高雄曼荼羅。
私は一時間、時間を失った。
弘法大師から逃げていたが
弘法大師に捕まえられた瞬間だった。
そして本を求めた。
それが先日遷化された師匠の本だった。
真言密教に強烈に惹かれた。
気づけば高野山大学に入学し
師匠の弟子となっていた。
それから40年。
今年は弘法大師御生誕1250年。
四月十六日、師匠が遷化。
葬儀で共に柩を担いでいただいたお一人が
神護寺のご住職だった。
火葬場に向かう途中で
高雄曼荼羅が修復されたことを知った。
NHKの撮影があるので来ないか?
とお誘いいただいた。
日程を調整。
本日、令和5年4月10日。
実は旧暦の3月21日
旧正御影供の日。
神護寺では高雄曼荼羅の修復後の
開眼法要が午前中に行われていた。
延期延期の上この日になったらしい。
しかしまさにドンピシャ!
一方、私は偶然にも後輩より
京都国立博物館の親鸞展のチケットを得る。
これまた神護寺近くの
高山寺に関係する経典を
彼のお寺が出していたからだ。
あの日から40年。京博に入った。
そして午後は神護寺。
私の人生を一変させた高雄曼荼羅。
40年ぶりにその高雄曼荼羅と対面した。
本堂の内陣に歩を進める
胎蔵曼荼羅を背中に
金剛界曼荼羅をみる。
空間が歪んだ。
心地よい。歓喜に打ち震えた。
弘法大師が観た曼荼羅
弘法大師が表現された曼荼羅が
再び目の前にある。
しかも今回はまさに目の前。
今回は意識的に二時間近く拝見させて頂けた。
曼荼羅の知識が増えた今
見えてくるものが違っていた。
指のあり方、背景など
細かいところも感じ入った。
弘法大師は実に経典に忠実に描いている。
(ただし不動尊は東寺形)
残念ながら本日来れなかった後輩たちの分も
私は拝見し体感した。
そしてご住職より冊子をいただいた。
できたばかりの冊子。
そこには
我が師匠の文章があった。
これが絶筆とのこと。
思わず涙した。
「先生、本当にありがとうございます」
神護寺を後にしながら
私は叫んでいた(^^)
先生の笑顔が空に見えた思いがした。
今日は師僧松長有慶先生がご遷化されて20日目。
少し思い出話(話が前後することがあります)。
松長先生にお手紙を書いた理由は何なのか、というところのお話です。
弘法大師御遠忌1150年である昭和59年4月に高野山大学密教学科に入学した私。
大学側の命令(?)で生まれて初めて本格的なバイトをすることになりました。
それが中の橋駐車場の授与所。出来立てのホヤホヤの建物でした。
今もありますね。あれは39年前に建てられたものです。
そこに本山職員としAさんとMさんが派遣されていました。
あのころの参拝者の中で最も多かったのも、
だからこそ最も横着かったのも
岐阜を含める名古屋地域の方々でした。
わたしは尾張一宮出身で、その出来事を愕然とみていました。
それでもお二人はわたしのことを大変可愛がってくださり、
私室にあがってお食事を呼ばれたり、
山を降りて買い物に一緒に出かけたり、
そして何よりよく一緒に奥の院にお参りに行かせていただきました。
お二人に奥の院を108日連続で参りたいと伝えると、
なんとお二人も挑戦されました。
時には一緒に。時には個人的に。
宗教的なお話しをいくつもしていただきました。
そして私が師匠探しをし始めた矢先、
Aさんが
「俺の兄貴に、会ってこいよ。大学の講師をしているし。
とにかく頭のいい人だから。
北海道に戻らず信仰心の深い、結構な超能力者だよ。」
と紹介いただきました。
お会いしたのは一の橋のベンチです。
そこで一時間ほどA先生とお話させていただけました。
その時、少し目を瞑られると目を開けてこう言われました。
「北川さんは阿弥陀さんと縁があるね。
阿弥陀さんか、観音さんか、勢至さんを本尊とすると良いんじゃないかなぁ?
それと松長有慶先生を訪ねてきてご覧。きっと道が開けるから。」
高野山とは何のゆかりも縁も無かった私に縁結びをしていただいたのが、
このA先生であり、MさんとAさんという本山職員でした。
そしてこのA先生こそ、
我が初めての弟弟子であるNさんのもう一人の師匠であり、
今ではNさんはA先生のお寺の後継副住職になっています。
人の縁の結びとはこうしたもののようです。ありがたいばかり。
葬儀の際にA先生にそのことをお伝えいたしましたら、とても喜んでくださいました。
そして弟弟子のNさんは、とても信心深い生き方をしている真言僧。
師匠とお会いした最後の日にこんなお話しをしました。
「N君が専修学院の授業を今期も担当するそうです。
彼の尊敬すべきあの深い信心を感じ取ったり学んでくれる生徒がいるといいですね。
今はわからなくてもいつか感じとってくれれば。」
と私が言うと松長先生は
「その通りやなぁ。彼のそういうところを学んでくれると嬉しいなぁ。
そこがまさに彼なんだから。」
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