2022年5月12日 (木)
2022年5月11日 (水)
保守政治編「ウクライナとロシアの戦い 斜め読み 情報戦の違い」
政治編「ウクライナとロシアの戦い 斜め読み 情報戦の違い」
ウクライナの戦乱、痛ましいものがあります。無辜の民が虐げられていることに哀悼の意をまずは捧げたいと思います。
さて、ウクライナとロシアの歴史・地政学・民族・言語などさまざまな側面があり一概に語ることはできません。個人的には正教オーソドックスのあり方とか、ウクライナの一部がポーランドなどの貴族領であったことと、モンゴル=タタールの軛(くびき)つまりモンゴル人により約250年の間ロシアもウクライナも占領されていたことに注目しています。タタールのくびきにより、文化よりもチカラによる威勢が大きく大きく影響しているのではないかと感じています。複雑な要素があり、白黒は無いように思えてなりません。
ただし今日はそれらについてではなく、情報戦のあり方に少し注目してみました。
ウクライナのゼレンスキー大統領、ロシアのプーチン大統領、どちらもチカラの信望者であるようです。
ただ情報戦において二人は大きく異なっています。あくまでも個人的な意見ですが、プーチンはプロパガンダ中心、ゼレンスキーはアジテーション中心、そのように感じています。
アジテーションは揺れを意味する言葉で、感情に訴え、多くの人たちを意図する行動にかりたてること、一言でいうと扇動です。ゼレンスキー大統領の発言は理屈ではなく、激しく人々の心を揺さぶることを目的にしているように思えます。
プロパガンダは、どちらかというと説明的に広く広報することと考えられていますが、プーチン大統領はそのようです。
あまりこうした事を深く追求したことがなかったので、グーグルで「プロパガンダ アジテーション」と検索をしてみました。するとビックリ。引っかかったものの中にレーニン著『アジテーションとプロパガンダ』というものがあったのです。ソ連を作り上げたあのレーニンです。
少し覗いてみましたら、レーニンはアジテーションを大衆向けに、プロパガンダをインテリ向けに分けて考えていたことがわかりました。またレーニンはプロパガンダは数百人を目安に、アジテーションは数万人を対象とすると考えたようです。
私のもっていた言葉に対する印象というか理解とは若干異なっていました。レーニンに従えば、アジテーションは戦略であり、プロパガンダは戦術です。
私は逆に捉えていましたのでビックリです。
ただ、これだけのことでも、なんだかレーニンの人為過ぎる発言というのか言葉というのか、人間というものをモノのように見る共産主義はやはり苦手です。
レーニンを離れて、アジテーションとプロパガンダを見てみると、いまウクライナとロシアの間で問題になっているのがナチズムですが、ヒトラーはレーニンとは異なっており、説明的であるよりも大衆の感情に訴えかけろとアジテーションを重視していました。プロパガンダも感情を重視する方法です。説明は二の次。第一次世界大戦後に疲弊しきっていたドイツ国民はそのアジテーションに引きずられてしまったのかもしれません。それくらいアジテーションは空気を作り上げ強力に人々を方向づけてしまいます。
いまは弱きウクライナがアジテーションにより強化され、強気ロシアが押され気味になっているように思います。プーチン大統領の演説もあくまでもプロパガンダでした。
日本はアメリカとともに生きると決意し日米同盟を結んでいます。だからこそアメリカとロシアではアメリカを選ばざるを得ません。ここは仕方がないことです。
私が恐るのは、膠着状態が続きロシアの大衆にも疲弊がおきたとき、ロシアでアジテーションが起きることです。そうなると戦術核も使われてしまうでしょうし、そこでまたアジテーションが起きて、世界が大混乱に進んでしまうかもしれません。
ただこうした混乱期にはアジテーターが出てきやすいので、注意をしていたいものです。
また、混乱期には既成宗教の弱体が裏にあることが多いので、それは私達宗教家の反省点です。そしてこういうときには新たな宗教者がアジテーターとして現れやすい。
アジテーションそのものが悪いわけではありません。人々が少しでも良き方向に向かうのならばアジテーションも時には有効な手段です。しかし、チカラによる支配や、欲と欲の絡み合いでアジテーションを使うのは本当に危険です。
なにか感情に訴えかけ皆が同じ方向に抜けられる発言があった場合、それはアジテーションでないかどうかを気をつけておきたいですね。
比較的おだやかな教えである仏教はアジテーションが少ないですが宗派によってはアジテーションを重視しています。また各寺院によって本尊が異なる真言宗は個性を重視しますので一方向へ向けるアジテーションをあまりしません。しかし真言宗でも、なかにはアジテーションが大好きな御仁も居ます。
宗旨宗派での大きな枠組みでの安心はありますが、それとともに個人個人の宗教家と檀信徒のあり方がとても大切に思えます。
アジテーション 煽っているか居ないか 注意をしていたいものです。
2022年5月10日 (火)
七難隠す
「七難隠す」 色の白いは・・・髪が長いは・・・書は七難を隠す・・・あれ?なにか変?
子供の頃 私かなり色が白かったんです しかも喧嘩早かったので白色裸電球 そのこころは、色白ですぐに切れる・・・LEDの時代なのでわかりにくいかもしれませんね
そこで時々言われたのが「女の子ならば、色の白いは七難隠す だけどね。」と大人から何度かからかわれた覚えがあります。
今覚えばなかなか失礼な表現ですね。
「色の白いは七難隠す」は、
①色白の女性は七難を隠すので色白は得
という意味と
②色白で見えなくなってるけど七難のいずれかがあるのかも
という全く反対の意味があります。
とはいえ、色白イコール美人とは今の時代には合わない失礼な表現です。とはいえ色の黒は味良しともいいますので・・・
これとよく似た表現に
書は七難を隠す
これご存知でしたか?書道を始め文字がきれいな人は、誤字脱字や文章のまずさなどを隠してしまうという意味です。
パソコンでの文字が多くなった現代には、この表現は逆に貴重かもしれません
また
笑窪は七難隠す 髪の長きは七難隠す
とも言うようです。色白・笑窪・髪の長きのような容姿に関するもの、書のように能力に関するもの、まぁそれぞれに得意不得意が有るので、これらをなくすというよりは、いろいろあって使い分けるのが良いかもしれませんね。
さて、この七難とはなになのかなぁと思っていたのですが、若い頃にふと七難という言葉に出会ったことを思い出しました。
鳩摩羅什訳の仁王般若経・弘法大師の師匠の師匠である不空三蔵訳の仁王護国般若経に七難という言葉が出ていたことです。
『仁王般若経』鳩摩羅什訳
- 太陽や月が欠ける日食や月食など
- 星座が見えなくなること
- 大火など火の禍
- 大水洪水などの水の禍うを含む時節に合わない寒さ暑さ
- 大風による国土樹木の倒壊
- 暑さによる旱魃
- 賊たちによる国の内外が侵されること
- 日月失度 ②二十八宿失度 ③大火燒國萬姓燒盡
④大水沒百姓時節返逆。 ⑤大風吹殺萬姓國土山河樹木一時滅沒
⑥天地國土亢陽炎火 ⑦四方賊侵國内外賊起
①日月失度 ②星辰失度 ③大火(龍火・鬼火・人火・樹火)
④時節節改變寒暑不恒 ⑤暴風數起昏蔽日月
⑥天地亢陽陂池竭涸 ⑦方賊來侵國内外
のことです。それを思い出し少し調べてみました。
七難という言葉は出てきませんが 孫悟空の三蔵法師で有名な玄奘三蔵訳の『薬師本願功徳経』には
①人衆疾疫難 ②他國侵逼難 ③自界叛逆難 ④星宿變怪難
⑤薄蝕難 ⑥非時風雨難 ⑦過時不雨難
が説かれていますし
観音経にも七難という言葉は説かれていませんが七難が説かれています。チャイナの天台の大成者智顗の著作に七難という言葉が出ています。
あっ、少し話がずれますが、名古屋の栄、ぎふ、大垣の三ケ所の中日文化センターで一時間半の授業をしています。その中で大垣では今は観音様についての講義をしています。そんなかのほんの一部をつまみ食いしてみますと。
観音経、多くの場合は偈文・・・世尊偈と呼ばれている部分を読みますが、この本文は本当は法華経の第二十五巻、正式名称は妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五といいます
最初に突如として無尽意菩薩という聞き慣れない菩薩が出てきます。
無尽とは尽きることなき果てしないという意味。つまりこの無尽意菩薩は、不滅の心を持つ者と訳せるのかもしれません。つまりわたしたち自身の不滅の心・菩提心を意味しているとも考えられます。
行六度四攝等種種行。誓度衆生。衆生界盡。菩薩之意乃盡衆生未盡。菩薩之意無盡。故名無盡意。と記されたお経もあります
さて、この無尽意菩薩が釈尊と対話をし、観音菩薩とはどんな存在なのかを訪ねます。その最初に現れるのが七難から逃れることです。
本文には火難・水難・風難・刀杖難・ 鬼難・枷鎖難・怨賊難の七難から逃れることが記されています。
どれを見てみても、いずれの経典を観ても、七難は人の欠点をあらわした言葉ではありません。あくまでも社会的な自然的な難を表した言葉です。七難隠すの七難とお経に説かれた七難は全く意味が異なっていました。
観音経は般若心経についで著名なお経でしたので、しかも天台宗は江戸時代に圧倒的な力を持っていましたので、七難というお坊さんから出た言葉が庶民に至り、言葉の外形だけ残って中身が変わってしまったのかもしれません。
七難隠すについて個人的な意見があります。人にはそれぞれの特徴があります。優れているかいないかは人の見方によって異なるもの。肌は白いが良いが髪は黒いが良いという方も少なくないと思いますし、健康的な褐色が良いとか髪は金髪にしたほうが良いとか、アニメでは髪は銀髪が結構受けるみたいです。まぁ人それぞれの特徴なんだとおもいます。そしてその特徴が際立てば際立つほど、7つの・・・まぁいくつかのと言い換えてもよいかと思いますが、欠点のように見えるものも気にならなくなる・・・そうした感じで使われるといいなぁと思います。無尽意菩薩は金剛界マンダラに出てくる賢劫の十二尊のお一人ですが、そのマンダラはひとりひとりの仏様の特徴をもって互いに敬いたすけあう相互礼拝相互供養を絵に表したもの。七難隠すもこうしたことまで感じるといいなぁと思える言葉です。
2022年5月 9日 (月)
許されているのに罰は必要?修行は必要?
「許されているのに罰は必要?修行は必要?」
先日、懺悔、懴悔の法要である春風の四恩祭をおこない、参拝者に礼拝行をしていただきました。翌日から足が痛いと笑われる方が続出。あっちなみに私もですが・・・。
さてこの礼拝業は身体に付加をかけることで身口意を浄化するというものです。
でも本来清浄なのにどうして浄化が必要なのかという質問を受けることがあります。
今日は少しおディープな話です。あまり興味のない方は、申し訳ありませんが、今回はここでお引き上げください。申し訳ありません。
さて、話を戻しまして人は生きている限り何らかのミスを犯しています。知らぬ間にありを踏んでしまっていたとか、思わず蚊・・・モスキート・・・歳を取るとあの羽音が遠くだと聞こえにくくなってきますが・・・私もそうですが・・・蚊を殺めてしまったとか、食事が食べ切れなくて捨ててしまったとか、命を粗末にしたことはどこかでしているものです。また後悔してもしきれない失敗を何度かしていませんか・
先日、アマゾンプライムでスタートレックピカード第二部の最終回を見ました。主人公のジャンリュックは、子供の頃に母を助けたはずなのに実は自分のせいで母が自殺してしまったことを心の奥底に隠していたことがわかりました。その痛みがあるからこそ命をかけて多くの実に多くの人類や異星人のために命をかけて働き続けた英雄です。しかし彼は自分が英雄ではなく、心の闇を抱えていたことを神のような存在の異星人Qに突きつけられました。前作のTNGネクスト・ジェネレーションの設定が、びっくりするほど深められていました。そして彼はそれを受け入れ、彼は知ります。自分を許せなかったのは自分自身であり、神を含めて誰も自分を裁いたりはしていなかったことを。自分が自分を許せば良かっただけなのです。
これはアニメにもなった『』でも同じことがありました。主人公の養母が。かつての裏切りから神マーテルから罰を受けて糧を得ていたのですが、実は全く異なっていました。地母神マーテルはとうの昔に彼女を許していたのです。彼女自身が自分を許すのをじっと見守り、彼女が望むままに罰を与えていたのです。ものすごく深い愛の表現でした。
真言宗では自性清浄・本来清浄を説きます。たとえ何かの罪を犯したとしても大きな大日如来は許している。だからこそ本来清浄なのです。しかし、自分の深いところにいる自分がその罪を許さない。その罪の解消を望むゆえに何らかの罰を望み、それを大日如来が与えている。そこに善悪はありません。輪廻とはその罪の解消をするために自分の奥底の自分が望んでいるから起きるもの。しかし、そのさらに最深部にある自分は実は知っているのです。既に許されていることを。いやその嫌な記憶とは自分が大きく変化していく成長していくために必要なものだということを。そうした経験に恥じ入る自分がいるから、そこから抜け出すことにもがき悩み、そして最後には自分自身を深く愛して大きく大きく大きく包み込むようにして自分自身を受け入れること。その罪も一緒にまるごと。そうするとその罪があるからこそ人に優しくなれることを知ります。その嫌な思いの過程は今の自分を作るためには必要なものであったこと。そして次の段階への入り口でもあったと。この時間と広さを超えた空間と時間が、今この時この場所にいる自分に望むもの、その流れに乗ったっとき、私達自身が大日如来なんだということに気づくでしょう。そうなると本来清浄なのに、もっというと本当は悟っているのになぜ煩悩にさいなまれるのかが見えてきます。
日常とは異なるときや場所を用いるからこそ、その場所その時間に変化することができます。マイナスの感情はまさにそうした時のエネルギーになるものです。そしてまたその嫌な体験も大日如来から遣わされた化身の観音様であり、その観音様に自分は導かれています。
繰り返します。どんな罪を犯していようと、自分の最も最深部の自分はそれが大日如来によって許されていることを知っています。しかしそれを自分が許していない。だからこそ、大日如来とのつながりを忘れないように修行をし、時には心身に辛いことも経験し、その辛さが身口意を浄化していき、自分自身を広く深く許容していけるでしょう。そして大きな気付きとともに、自分と思っている存在を含めありとあらゆる物事が大日如来の一部なんだと自覚した時、寂しさは消え、この世界での使命感が強く残るでしょう。
そうなると、この世界は思うようにならない苦の世界ではなく、光り輝く世界で有るときづけます。
真言密教とはそんな世界です。今日はかなりディープなお話なので反感も有ると思います。しかしその反感さえも次なる通へのステップです。
この世界で縁のある方々は一緒に共に歩みましょう。
直接お寺に来てくださってもネットでつながっていてくださっても、もっというと心の中だけでもつながってくださっていただければ嬉しいばかりです。
人類全体に大きな影響を与えることだけでなくたった一人のヒトを深く深く深く愛するのも、その深い慈悲心に目覚めるのも時には御役目です。
今日は思わず語ってしまいました。こんなお話もときおりしていきます、
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