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2022年4月25日 (月)

弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る

「弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る」

 

先日、弘法は筆を選ばずのお話をしましたので今回は「弘法にも筆の誤り」のお話をしようと思います。

 

この元になるお話は『今昔物語』巻第十一 本朝付仏法 の九に記されている弘法大師のお話の中に説かれています。

ちなみに今昔物語の第十一 七は玄昉と藤原冬嗣のお話、ちょっとマニアックですね。八は、唐招提寺の鑑真和上お話。九は弘法大師空海師。十は伝教大師最澄師、十一慈覚大師円仁師、十二には智証大師円珍師、十三には聖武天皇と奈良の東大寺大仏さま、十四には藤原鎌足・不比等と興福寺などのお話です。

さて、弘法大師のお話に戻ります。

『今昔物語』の原文は

「早く皇城の南面の諸門の額を書くべし」と。然れば、外門の額を書畢ぬ。亦、応天門の額、打付て後、是を見るに、初の字の点既に落失たり。驚て筆を抛て点を付つ。諸の人、是を見て、手を打て是を感ず。

とされています。大意は平安京の御所の中の門の扁額を早く書いてほしいという依頼を受けそれを書いた。ところがその扁額を打ち付けてよく見てみると應天門の應の字に点が足りない。まだれ广ではなく、がんだれ厂になっていた。それを観て弘法大師は足りていなかったところを下から筆を投げて打つと見事な書体であった。それを人々は手を叩いて褒めはやした

という内容です。そこから弘法の投げ筆という言葉が生まれました。意味的には名人の凄さを称えるものです。

ところが江戸時代に入り、この内容は打って変わってしまい、あの名人の弘法大師も点を忘れてしまう、弘法にも筆の誤りという言葉が生まれました。

江戸時代は本も立ったものが噺家などにより大きく意味が変わっていってしまう時代です。

たとえば地震雷火事おやじも、元々は地震雷加持大山路、大山路とは台風のことですが、このように変化させたのも噺家や狂歌・川柳好きな江戸時代の洒落人によるものでしょう。弘法大師の話もそう変化してしまいました。

 

ところがこの『今昔物語』のこの部分の少し前を見てみると、全くっっっb別の文章が出てきます。

 

亦、日本の和尚、城の内を廻り見給ふに、一の河の辺に臨むに、一人、弊衣を着せる童子来れり。頭は蓬の如き也。和尚に問て云く、「是日本の五筆和尚か」と。答て云く、「然也」と。童子云く、「然らば、此の河の水の上に文字を書くべし」と。和尚、童の云ふに随て、水の上に、清水を讃る詩を書く。其の文点破れずして流れ下る。童、是を見て、咲を含て感歎の気色有り。亦、童の云く、「我れ、亦書くべし。和尚、是を見るべし」と。即ち、水の上に龍の字を書く。但し、右に一の小点付けず。文字、浮び漂て流れず。即ち、小点を付るに、響を発し光を放て、其の字、龍王と成て空に昇ぬ。此の童は文殊に在ましけり。弊衣は瓔珞也けり。即ち失ぬ。

大意は、弘法大師が長安の郊外で有る河の前にくると、ボロボロの衣を着た子供がやってきました。頭はよもぎのようにボサボサ。この同時が弘法大師に問いました。「あなたは日本の五筆和尚ですか?」と。「そうです」五筆和尚とは唐で皇帝より筆の名人の弘法大師に授けられた敬称です。するとそのこどもは「ならばこの川の水の上に文字を書いてみてくいれるだろうか?」と問うと弘法大師は水の上にキヨミズを称える詩を書いたら、その文字が壊れることなく流れていったそうです。それを観て子供は喜び、自らも「では私も書きましょう。」と水の上に龍の文字を書きました。ただし右上の点を付けていなかったそうです。するとその文字は流れていかずそこに漂っていました。そこにその子供が抜けていたその一点を付けると、その文字は響きだし音を出して竜王となって空に登ったそうです。この子供は文殊菩薩であり、ボロボロの服はお堂や菩薩を飾る瓔珞でありました。そして子供は消えたといいます。

 

文殊菩薩は童子形をしているといいますので、その伝承どおりです。あたまも5つの結び目があるといいますので、それがよもぎのごとく通じるのでしょう。そして筆は般若波羅蜜多剣、鋭い諸刃の剣です。今昔物語は不可思議なお話ですが、そのなかにもなにか真実が隠されているようにも思います。

 

このお話と、應天門のお話はどこか通じるものがあります。最後の一点をつけて完成させる。龍が空を飛びだったように、應天門も、最後に一点を加えることで物事を完成させて應天門としての役割を担うようになったのかもしれません。

 

本来は弘法の飛び筆といって、誰もが真似のできない天才性を褒め称えた出来事が、この地上に引き戻されたというのか、全く逆の意味の弘法にも筆の誤りとされてしまったところに人々の俗っぽさを感じざるを得ません。だからこそ、弘法は筆を選ばずという、本来とは全く別の意味も生まれたのかもしれませんね。

 

ちなみに英語では

Even Homer sometimes nods.

ほめろすさえも時には居眠りをする

イーリアス・オデッセイアを書いた歴史家の大家であるホメロスでさえ居眠りするような失敗をすることも有る

という意味です

 

現在の意味での、弘法にも筆の誤り

天才でも謝るのだから、はきをつけておくようにという意味で用いればとても良い意味です。しっかりと心においておきたいですが、本来の物語も知っておいても良いかもしれませんね。最後の一点、ここに完成の意義がある、そう捉えても良いように思います。最後の一点を大切に・・・ここに弘法にも筆の誤りの本来の物語の意味があるのではないでしょうか?

 

今日は 弘法にも筆の誤り の元々の出来事の意味を探るでした

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2022年4月14日 (木)

弘法は筆を選ばず・・・本当? 実は思い切り選んで居られました  名古屋大須の筆屋「伽藍」

「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」

 

弘法は筆を選ばず

という言葉があります いまは弘法大師は書道の名人だったので筆を選ばなかった つまり名人や優れたものは道具に左右されないという意味で用いられています

 

ところが 包丁やノコギリなどに代表されるように、日本の名人という方々は徹底的に道具に拘っています。もちろん弘法大師も人一倍に筆の質にこだわって居られたことが知られています。では弘法も筆を選ばずとはどういうことなのか?

どんな筆でもその筆に合った作品を作ることができたということです。大工さんもノコギリの良し悪しに限らずどんなものでも上手に作り上げるでしょう。しかしその過程でよりスムーズにとか、仕上がり具合がよりレヴェル高くとなると道具に拘るのは当たりまえ。自分の手足そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?一流の料理人にとっての包丁もそうで、どんな包丁でも両人は上手に調理するでしょうが、最高レヴェルのものであったり、調理する過程で余分なエネルギーを取られないためにも道具にはこだわっておられるもの。

弘法大師もどんな筆でもそれなりに字を書かれたのでしょうが、自分が思った通りに自由自在に書くためにはその質を選んだのは間違いないと思います。

弘法も筆を選ばずは・・・世間的な意味でなく、もっと深い意味が有ると知っていただけると嬉しいです。

 

さて、筆屋さんのこと

宗春卿のことで名古屋と関わりを持ち始めた頃。あっ、令和四年四月から栄中日文化センターで「吉宗と宗春」というタイトルの講座を行っています、途中からでも登録可能なのでお申し見いただければと思いますが、

話を戻して宗春卿のことで名古屋にかなりの頻度で出入りするようになり、その過程で大須の大津通に筆屋さんを見つけました。

ふらっと入り。ご主人と話をしながら、塔婆に書く筆を尋ねると、三本くらいの筆を試し書きさせていただいたのです。

そのなかでも 花柳 と名付けられた筆を推奨されました。「いわゆる書道用紙に書を書いたりするのには少し硬くてご住職には向かないかもしれないですが、板に書くならば硬さがちょうどよいのではないでしょうか?」

現在のホームページでは

「中学生までしっかり使える集合力・弾力のとれた

バランスの良い筆」

学童用に分類されていますが、確かにそのおかげで筆全体が若干固めなので、塔婆に書くにはとても書きやすいものです。

それから数度訪れ同じ花柳を手に入れていました。板書きは筆を痛めやすいのですが、この筆はかなり丈夫です。

 

コロナがあったのでしばらく通っていなかったのですが、ふと思い立ち、蔓延防止が終了してから 伽藍 を訪れました。

若い女性が店を守られていました。お話をしている内に、彼女が娘さんで跡を継がれたことを知りました。

花柳の名前を忘れてしまっており、あーだこうだと説明をしたら彼女が持ち出してきた筆があり、それを握るとピッタリの筆がありました。 花柳 。お寺に戻り名前を確認すると全く同じ筆でした。

彼女も父上の思いを受け継ぎ、その人に合ったものを推奨する人でした。目は確かです。

同時に、ある方に巻物に筆書きで手紙を書きたいのだけど良い筆はないですかと尋ねると

「氣韻」を勧められました。試し書きをすると なかなか書きやすい。今まで小筆は若干重めの小筆を用いてきました。筆の重さで書けたからです。しかしこの「気韻」は違いました。書きやすいのです。芸術品を書くには、あまりにも癖がないので向かないかもしれませんが、その癖の無さが手紙のような小文字を書くのに実に向いていました。これも店主さんの目が確かだと思った証左です。

 

入手させていただいた筆の名前を少し調べてみました

 

花柳 かりゅう はなやぎ これは花柳流という芸道もありますし、花柳界といえばかつては遊郭などを意味した言葉ですので、最初は坊さんなのいこれは・・・とも思ったのですが、いや待てよと少し思い立ち本来の意義を調べてみました。花の紅と、柳の緑、たおやかで美しいもののたとえであることを知りました。また「いき」であることもこの花柳にはあるようです。

なるほどと今は思います。花のような色艶があり、柳のようなたおやかさが有る、そして紅と緑は自然の勢いを示す色、これは私にピッタリの意味でした。言っておきますが、私は花柳界とは全く縁がありません。

 

ちなみに「いき」については九鬼周造の『いきの構造』は私の愛読書で、とても大きな影響を受けた本の一冊です。

かなり屁理屈を述べていますが、自分では納得しています。

 

次に気韻

気品の高い趣を意味する言葉。気品生動という言葉がありますが、絵や書道などで気品がいきいきと感じられることとと『広辞苑』では述べられています。気高く品がある、まさに書道とくに手紙に求められる名前。これはいい!

 

それとお店の名前の伽藍。七堂伽藍といいますが、お店は小さくコンパクトにまとまっていて、伽藍堂とは程遠いお店です。しかし、その持つと伽藍の迫力といいますか勢いが筆に載ってくるように思います。実物の店は小さくとも、中身というか充実度は七堂伽藍のように宇宙のようなありかたのお店。ちょっと大げさかもしれませんが、高野山は壇上伽藍を有し、そこに弘法大師の教えが凝縮されています。ですから高野山真言宗のお坊さんにとっては伽藍という名前は格別なんです。

 

 

今日は 筆のお話をしました 「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」でした

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2022年4月13日 (水)

梨の花 雑話

今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」

 

桜は八重桜が咲き、桃の花も散り、

梨の花が綺麗な時節になってきました

あまり知られていませんが

白く清浄であり どことなく梨の甘さが漂う花は

この季節の見どころの一つです

うちの境内にも一本のなしの木があり 小さな実をつけますが

さくらんぼと同じように いつも鳥たちに食べられています

花の話題に戻します

 

ナシの語源はいろいろあるようです。

果実の色が白いことから

「なかしろ」「な・か・し・ろ」となったとか

「色なし」「いろなし」となったとも言われています

また風が多いと実がなりにくいことから「風なし」「かぜなし」とか

中は酸っぱいので「中酸(なかす)」「な・か・す」「なし」

だとか言われています

ただしこの「なし」が「無し」に繋がるので忌み嫌われ

家の庭には植えるなとも言われたそうです。

でもちょっとひねると般若心経の「空」や「無」にも繋がるので

「無罣礙」「無有恐怖」つまり「罣礙無し」「恐怖有ること無し」

などと解釈すれば良き意味だと思います。

よくよく見つめてみると梨園とありますよね。

そうそう歌舞伎の世界を梨園といいますね。

その語源は

唐の最も勢いがあった頃の玄宗皇帝が梨を集めた園に

音楽教習所を設けたことから始まりました。

また玄宗皇帝の愛娼楊貴妃も梨に喩えられます。

死後、仙境に生まれ変わった楊貴妃。

その容姿を唐の名詩人・白居易・白楽天の

有名な「長恨歌」の中で、形容したのが

「玉容寂寞涙欄干 

ぎょくようは じゃくまくとして らんかんに るいす、

梨花一枝春帶雨

りか いっし はる あめを おぶ」 

およその意味は 宝玉のように美しい楊貴妃の顔は寂しげそうで、

涙がぽろぽろぼろぼろとこぼれている。

梨の花が一枝、雨に濡れたような風情である」

そのように楊貴妃による玄宗皇帝への思慕の想いを歌ったこの詩は、

美しき人がひとり思い佇む様子を描いています。

少なくとも絶世の美人である楊貴妃を

梨の花に喩えていたのは間違いなく、

そのたおやかさを表す樹木であったことも間違いありません。

日本では清少納言が『枕草子』で

梨の花、世にすさまじきものにして、近うもてなさず、

はかなき文付けなどだにせず、

愛敬(あいぎょう)おくれたる人の顔などを見ては、

たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、

唐土(もろこし)には限りなき物にて、詩(ふみ)にも作る、

なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、

花びらの端に をかしき にほひこそ、心もとなう つきためれ。

楊貴妃の、帝の御使に逢ひて泣きける顔に似せて、

「梨花一枝、春、雨を帯びたり」など言ひたるは、

おぼろけならじと思ふに、なほ いみじうめでたきことは、

類あらじと覚えたり。

 

梨の花は、世間一般ではつまらないものだと考えられていて、

身近において愛でることはなく、

ちょっとした手紙を結びつける枝にも使われない。

優美な魅力の劣る人の顔を見ては梨の花に喩えていうほどで

まったく葉の色からしても色の配色が良くなく見えるのだが

唐土(チャイナ)ではこの上もないものとして

詩にも詠まれている。

それでたとえそうであったとしても役立つことはあるだろうと

しいて見てみると

花びらの端のほうに、風情のある美しさが

はっきりとはわからないぐらいについているようだ

 

楊貴妃が玄宗皇帝の使者に会った時に泣いた顔に合わせた表現で、

「梨花一枝、春、雨を帯びたり」というのは、

たやすいことではないと思うのだが、

やはりなんといっても本当に素晴らしいことは

他に類がないもののようにも思われてしまうの。

 

まぁ見事なくらい世間では梨を嫌っているかのように

清少納言は無しを最初はくさすのですが。

最後は少し教養を持ち出してなしの素晴らしさを伝えています

清少納言の知る梨の木は、

楊貴妃を喩えた枝や 私たちが現代で観る枝と

異なっていたのかもしれませんね・・・

 

さて梨の花言葉は、英語では「affectionすなわち愛情」

また樹木としての花言葉は英語ではcomfort 「癒し」「慰め」

そして梨の誕生花の日付は420日、430

 

家に植物としての梨を植えないほうが良いと

言い伝えられていますが、

先程も述べましたが

仏教的には「罣礙なし」「恐怖あることなし」となりますから

お寺にはとても良い樹木だと私は感じます

 

何よりも香りが良い花でもありますから

 

 

今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」でした

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2022年4月 9日 (土)

否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?

遊歩の言いたい放題 「否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?

 

仏教界関連でよその宗派の方々と話していると

ある特定の話し方が気になって仕方がありません。

 

仏教は○○○ではありません

***です

 

一見なんでもない発言ですが 否定と断定の言葉

 

よくよく注意していると

絶対ではありませんが、こうした発言をされるのは

ある特定の宗派の方が多いことが見えてきました

 

発言がとても短絡的というかかなりの決めつけが多い

 

仏教も宗教なので一つの方向を示すのは当然ですが

何か押し付けられている感覚があります

 

考える余地を残さない発言は洗脳に繋がり易いので

へそ曲がりの私にはどうも耐えられないのです

 

確かに○○○という考え方もありますが

仏教では***という見方もありえますが

如何でしょうか?

 

私は師匠方から

相手に選択肢を残す考え方が大切であると教えられてきました

仏教は自覚を促すことを大切にするからです

自ら見つめ考えることを大切にする教えとも言えるでしょう

 

時と場合にもよるでしょうが

やはり断定的に押し付けるのはかなりの違和感があります

 

ただし逆も言えることで

受け手が断定的な言葉には疑問符をつけるという変換が頭の中にあれば

問題なしなのかもしれませんね(^^)

 

こんなことを考えているさなかに

夜の名古屋城に生きました

確かに美しいのですが、これではそう思わない人もいるだろうなぁと

ライトアップはやり過ぎかなぁと

感じる人もいるように思えました

 

まぁこうした考えに反対の方もいらっしゃるでしょう

ただこうしていろいろな側面から物事を見れるといいですね

 

改めて

緩やかであり

誤差をもゆったりと受け止めてくれる

慈悲に満ちた真言宗を選んで

良かったなぁと私個人は感じています

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2022年4月 8日 (金)

108とは何か?

今日は 遊歩の言いたい放題 「108とはなにか?」です

 

一般的には仏教では、除夜の鐘に代表されるように百八煩悩はじめ108という数字

百八煩悩といえば

その根拠の数字は

六根にそれぞれ好・悪・平があり6×318

それぞれに浄と染があるので18×2=36

そしてそれぞれに過去・現在・未来があるので36×3108

または

六根に好悪平の6×318

六根に苦楽捨の6×318

合わせて18×2=36

それぞれに過去現在未来で36×3108

または十纏と九十八随眠で108

という理屈で言われてきました

 

それに合わせて

大般若経や大智度論には百八三昧

方等大荘厳経には百八法門

法華経化城品には百八十劫

無量寿経には百八十億菩薩

金光明最勝王経には一百八十不共之法

入楞伽経には百八見

 

真言関係では百八名讃・百八護摩・百八念誦・百八尊

実に多くの百八がでてきます

 

 

それにともない真言を数える場合に100ではなく108回が基本です。

数珠もまたしかりで真言で用いるお数珠は百八が基本です

 108すれば100は超えるから

という言い伝えも有るほどです。

しかし、しかし

それにあまり納得はしていませんでした

納得していなかったのですが

修練には必要なので用いてきた

100より108のほうが修行的には確かにしっくりくるので

深く考えず108回を大切に念誦をしてきました。

 

ところが毎月第一月曜日におこなっている宿曜:密教占星術の勉強会でふと気づいてしまいました

仏教の宿曜は27宿です

古代のチャイナ起源のものは28宿なのですが

仏教はあくまでも27宿です。

たまたまチャイナの二十八宿の名前を借りたものでややこしくなってしまいましたが

基本的に仏教の宿曜の各名前の漢字には全く意味がありません。

さてこの27を四季を意味する四倍にすると

27×4108

 

おおおおお

 

これを少し考察してみると、

一年は12ヶ月。

一ヶ月はおよそ30日なので、

10日ずつ上旬中旬下旬の三つに分けると、

一年で12×336旬 

この一旬を3つに割ると 

36×3108

なるほどぉ・・・

 

ひょっとすると108とは仏教起源ではなくインド占星術なのではと考え調べてみましたら

やはりありました

https://shrifreedom.org/yoga/importance-of-108/

 

108はインド占星術に関係しているようです。

インドにおいて占星術はとても重要です

仏教経典でも時折引用していますから、

その流れで108があるのではないかと

つまりインドの元々あった習俗の中に108を神聖視するものがあると納得。

 

これで百八煩悩ではなく

天の分け方であると見れば気持ち良く108を真言念誦で数えられる・・・

とおもいきやびっくり仰天考察を発見

この先程のサイトにビックリ考察が出ていました

そのままの数字を書くと著作権にも触れてしまいますので

私なりに数字は検証を施しました

 

太陽と地球の距離は およそ149,600,000km

太陽の直径は およそ1,392,700km

これを割り算すると107.4172471..... あらぁ...

月と地球の距離は およそ380,000km

月の直径はおよそ 3474.8km

これを割り算すると109.358812

ちなみに地球の直径は12,742km

太陽直径÷地球直径=109.299953....

あららどれも108に近い数字

恒星惑星衛星間の距離は

伸び縮みするのでかなりの誤差は出やすいですので

自然科学的には一概に108という数字を当てはめられませんが

宗教的に見れば誤差の範囲とも言えるほどどれもが近い数字です

地球が365日で太陽の周りを回るのも360度に対する5日ほどの誤差

この誤差があるから生物が生きられるといいますので

誤差もまた慈悲。

これは24時間の自転の誤差にも当てはめられるようです。

誤差はぴったりよりも、緩やかな慈悲ととらえるとなんとも言えないしっくり感です。

やはり108は神秘な数字。

ただし誤差も許容すべし・・・・

 

この天の差配を偶然と観るのか 意味有るものとして内面化するのかは

個人差がありましょう。

ただトレッキーでも有る宇宙大好きな私には

この108前後の数字は

宇宙を構成するなにかヒントが有るのかもしれないと考えると

ワクワクして、よりいっそう修行に励めめます(^^

 

ということで今夜は大好きな大好きなスタートレック・ピカードを観て

宇宙の法則性を感じてみようと思います

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