机の横においてある市販の仏像を
ふと見て思ったこと。
FB友達のある仏師、彼は伝統を護っている。
細部に至るまで丹念に調べて仏像を創る。
いや掘り出すというのが妥当であろう。
だから彼が伝統から外れた作品を作っても
大きな伝統の中からはみ出ることはない。
その仏像の奥底には
伝統の流れがしっかりと息づいている。
だから祈りたい気持ちを興してくれる。
彼は仏像を作っているのではなく
樹木を始めとする素材の中に仏を見出しいている。
近い将来には彼に発注したい。
円空さんもそうで
あれほどデフォルメしてあるが
あきらかに円空さんは
しっかりとした仏さまのお姿を認識された上で
デフォルメしている。
だからこそ梵字の種子を後ろに記しているのであろう。
一方、最近、仏師ではない作家が
仏像や仏画を描く例をいくつも観る。
表面上は真似てある。
芸術的にはそれなりに優れたものもある。
しかし、祈る対象にはなりえない。
ただただ表面的に真似ているだけで
その仏像や仏画が大乗仏教の教えを
人で表しているということが伝わってこない。
丹念に調べたものではなく
単純に自我丸出しの作品。
そうした自我が誘引する煩悩を
引き起こしやすいからかも知れない。
伝統を無視して自分勝手に真似たものは
所詮はこのようなものなのかも知れない。
ただし市販の安価な仏像でも
祈りを何度も何度も施した仏像は
なぜだか表情を変えていく。
おそらくこうした市販のものは
作家の自我丸出しの欲望は
それほど濃くないからであろう。
大乗仏教を人の姿で表した仏像・仏画。
面白いものである。
だから単なる偶像ではない。
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