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2021年2月16日 (火)

愛欲とはなにか? 大宇宙とのつながりの代替 だからこそ大切なもの

同志社大学の落合先生の愛の文章を読み
私なりにできる限り平易な文章で記してみようと思いました。
「愛欲とはなにか?」
以下は、真言宗を代表するものではありません。
真言宗の教えを学び修行している途上で感じ取った
私個人の感覚です。
仏教の僧侶は自由人ですから
あらゆる束縛からの離脱を求められます。
束縛を禁じられているといって良いので、
伴侶を持つことを禁じられていました。
 ※私が最も大切にしているのは自由です。
  だからこそこの頃の全体主義の風潮に違和感を覚えます。
大乗仏教であっても例外ではありません。
伴侶を持つことは束縛に繋がります。
夫婦関係も恋愛関係も、
共に伴侶から心身ともに束縛を受けてしまうもの。
大乗は、一人の人への愛情ではなく、
普遍的な慈悲が求められます。
では何故に現代の僧侶は結婚をするのでしょうか?
これを正面から見つめてみました。
愛染明王という仏がいます。
愛欲のマイナス面を射抜き
プラスへと変化させる
「煩悩即菩提」を説く明王さまです。
しかし「愛欲もまた覚り」というその理屈は
汚辱に満ちた肉体的なものに
縛り付けられることになりかねない危険なものです。
煩悩即菩提とはなになのでしょうか?
高家寺の不動堂には
愛染明王が不動明王の横に祀られています。
ある日、不動明王を祈っているときに
愛染明王を見つめた瞬間に
ふと意識が飛んでしまい、
胎蔵曼荼羅がいきなり意識に飛び込んできました。
パートナーを身体的にも心的(?)にも求める心は
大宇宙(胎蔵)の大慈悲の代替に過ぎないのでは?
それを強く実感した瞬間でした。
どういうことかというと
私達は、生まれる前は
母の子宮garbha(胎蔵)という宇宙の中にいて
安心感に包まれています。
そこは大宇宙としっかりと繋がった世界です。
そこから世の中に生まれ
胎蔵という宇宙から無理やり引きはがされます。
それでも安心感を身近なものとして覚えているので
母親や父親に抱かれ安心を感じ取ることは容易でした。
年令を重ねていくと
胎蔵の中での安心感は薄らいでいき
世の中の濁世にまみれていきます。
ここで結びつきという大切なものを徐々に失っていきます。
そこで家族愛や友情に、その代替を求めるようになります。
友情や家族愛という結びつきが濃いうちは良いのですが
その内に世俗的な恣意の中で
私達は繋がりを見失っていきます。
やがて他者に恋し、
心身ともに相手と「一つでありたい」と
求めるようになります。
その「一つでありたい」という想いは
実は胎蔵の中で感じていた安心感への渇望であり
この「大宇宙と一つでありたい」と願う気持ちの
代替であるのではないでしょうか?
「大宇宙と一つでありたい」という渇望は
目の前にいる肉体を持つ相手への恋愛である者もいれば
瞑想や祈りの中で、
直接に大宇宙に繋がることを求める場合もあるでしょう。
 ※ちなみに僧侶は、肉体にとらわれないように、
  後者であることが推奨され、
  だからこそ結婚も恋愛も禁じられるのだと思います。
私の場合は両者でした。
だからこそ気づいたのだと思います。
自分の伴侶との愛情は
その伴侶をこのように存在せしめた大宇宙と繋がっており
その奥にある深淵の向こう側に
大宇宙の本質である慈悲に満ちた光を見出すものだと。
目の前の単純な肉体は
大宇宙の一部なのだと気付かされるようになりました。
かみさんと縁があり共に人生を歩んでいくことは
大宇宙への繋がりという一部であることが
実感できるようになったのです。
愛欲は慈悲の一部であることが
実感できるようになっていきました。
愛欲は汚れたものではなく本来清浄。
宇宙と一体であることを知るために
伴侶を持たず独りで生きていくことは必要な人もいます。
 ※これはこれで貴重なことです。
  こうしたご縁の方は強い方が多いですね。
一方で、伴侶とともに歩んでいくことで
宇宙との一体感を感じるものがいます。
それはその人達の縁によるものであり
この大宇宙がその人に
独りでいるか、伴侶が居るかをしめしているだけであり
大宇宙の自己表現としての私達の性格や縁の違いにより
色々あって良いものなのでしょう。
だから恋愛も結婚も
お互いを通して大宇宙を感じ合うためのものであり
伴侶となった二人は
共に歩む戦友(?)のような存在なのだと感じます。
煩悩もまた覚りの一門であり(煩悩即菩提)
愛欲もまた大慈悲の一門。
恋愛も夫婦関係もまた、大宇宙とのつながりの一門。
その一門を通して、私達は大宇宙とつながっている。
この感覚に目覚めた時、
胎蔵曼荼羅が動き始めることも知りました。
だからこそ人は本能的に恋愛を求め
その恋愛に惹きつけられていくのでしょう。
その愛情を深化させると、
大宇宙の大慈悲へ繋がっていくからです。
ただしこの世の肉体だけにとどまると
大宇宙とのつながりに目覚めないままに
肉体も精神も縛り付けられていってしまいます。
それは時には病的になりやすい。
 ※密教は師匠がいないと誤りやすいのは
 こうした面があるからだと思います。
煩悩即菩提。
単純にこの世の愛欲を肯定しているのではなく
大宇宙という視点で見つめると
煩悩も覚りへの道の一門であり
その門にとどまってはならないのでしょう
向こう岸に渡れば、船も橋も必要なくなります。
それと同じようなものなのかもしれません。
かみさんという存在の大切さを実感しています。
それは愛欲という問題だけでなく
共に気づきを与えあっていく存在であるからです。
「覚りの道を共に歩んでいる」
その感覚がつよくあります。
いや、我がかみさんは
私の普賢菩薩であり観音菩薩なのだと感じています。
そして私は彼女の文殊菩薩であり弥勒菩薩なのでしょう。
 ※普賢・文殊・観音・弥勒は
  胎蔵曼荼羅中央八葉院の四大菩薩。
上記の感覚は、私個人の感覚であり
宗団の教えを代表するものではありません。
ただ私が祈りの中で強く実感しているものです。

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