他者と何が違うのか? ある田舎真言坊主の独白
他者と何が違うのか?
少し、自問した。
すると、高校時代に大きな転機があったことが分かった。
父が単身赴任海外出張していたバンコクを訪ね、貧民街を伯父と二人で歩いてから人生観が変わった。
それまでは全くの理系で、人を相手にすることが苦手だった。ところが、その貧民街を歩いて、自分の持つ視野の狭さに躓いた。心の奥底に眠っていた自分が目覚めてしまった。
そんな時、本を読む機会が増えた。和訳だがギリシア古典を読むようになり、ついには哲学書に手を出してしまう。ハイデガーだった。さっぱり分からなかったが、読破して喜びを感じる。
そこから、キェルケゴールや、ショーペンハウエルなどの実存系の哲学書にはまっていく。しかし、読めば読むほど、奥底の声が違うと叫んだ。
聖書を読み始めた。旧約から新約を読み始めふた回り読破した時、ヨブ記の特異性に惹かれていった。
そんなある日、本屋でカール・ヒルティを知る。嵌ってしまった。法律学者であり政治家であった彼の根幹は聖書であった。『キリストにならいて』を彼を通して知り、愛読書とした。今思うと恥ずかしながら、パン屋で種無しのパンを焼いてもらい、ワインを買ってきて、一人でイエスを想い、食をしたことも数度ある。
それから、本だけではなく、宗教関連施設を訪ね、僧侶や神父、牧師を訪ねていくようになった。
その途中で、京都国立博物館で初めて曼荼羅(伝真言院曼荼羅と高雄曼荼羅)を見て、時間を失った。一時間、経っていたが私には1分も感じていない状況だった。
弘法大師への思いが募り、高野山に登ってしまう。
私の基本は、この頃にあった。乱読とは言え、多くの西洋古典や西洋哲学書を読んだ。ヒルティの影響が強く、カントやギリシア古典を多読した。聖書を何度も読んだ(通読はニ回)。その時の読書が、その後の密教理解にとても役立った。むしろ、密教を理解するための訓練を、カントやギリシア古典・聖書を通しておこなっていた。これも今思えば、私という自我を形成するために必要な過程であったと思う。
咀嚼する牙は西洋哲学やギリシア古典・聖書によって磨かれていた。
ヒルティを久しぶりに手に取った。岩波の『幸福論』は五冊は買っている。それくらいボロボロになるまで読んだ。書き込みもした。彼の全集も手に入れ、『幸福論』はドイツまで行ってドイツ語まで手に入れ、気になる単語の元の単語を調べるようにもなっていた。そして、いつのまにか、密教という牙でヒルティを読むようになっていた。
このところ、お寺の住職として、流れに流されている感が少なからずあった。
久しぶりのヒルティはそれを元に戻してくれた。
あの時の、心の奥底からの情熱を改めて見つめると、恥ずかしいが、やはり相当な熱量であったと思う。方向も間違ってはいなかった。もう一度、その流れの基本を見直す機会を得たように思う。
明日から変わるわけではない。
しかし、大きな大きな流れの中で生きている自分の個性を見つめ直せたことは大きい。
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