今日(7月10日)は何の日? 蘇我入鹿の忌日(乙巳の変:大化の改新の始まり) 「蘇我入鹿は本当に悪人だったのか?」
今日(7月10日)は何の日?
蘇我入鹿の忌日(乙巳の変:大化の改新の始まり)
「蘇我入鹿は本当に悪人だったのか?」
645年7月10日(皇極天皇四年六月十二日)、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿が、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(後の藤原鎌足)等によって天皇の前で誅殺された。この事件を乙巳の変(いっしのへん)という。いわゆる、大化の改新の始まりである。
乙巳の変のときに重要な役割を果たしたのが蘇我倉山田石川麻呂である。入鹿と同じ蘇我氏であり、入鹿の従兄弟に当たる、彼の娘二人が乙巳の変の前に中大兄皇子に嫁いで、子をなしており、石川麻呂もまた中大兄皇子に与するものであったという。そのために大化の改新では右大臣となり、蘇我氏は滅ぶことなく存続した。ただし四年後に、孝徳天皇の義父である左大臣の阿倍内麻呂が没すると朝臣では最高位となるも、二ヶ月後に異母弟の讒訴により義息子である中大兄皇子に撃たれた。なんと中大兄皇子により、石川麻呂は討たれ、後にそれが謀略であったことが明らかになっている。
私の住む各務原市は、その蘇我倉山田石川麻呂と縁が深い土地であるが、これについてはまた後日に別項で記そうと思う。
さて、入鹿は専横であったがゆえに誅殺されたという。
ところが、物部守屋との戦いでもそうであったが、蘇我氏はどちらかというと大陸の唐の制度を取り入れようとしていた進歩派であった。一方、中臣鎌足の中臣氏は物部とともに仏教を受容することを拒んだグループであり、どちらかというと守旧派であった。ただし、鎌足の長男の真人(まひと)は乙巳の変の八年後に出家して定恵と名乗り僧侶となっている。仏教を受容した蘇我氏でさえ僧侶を出していないにも関わらず、仏教を排斥し蘇我氏を滅ぼした中臣氏から、その長男が僧侶となっているのは歴史のミステリーの一つである。
また中大兄皇子(天智天皇)の諱(いみな:実名)は葛城(かつらぎ)で、ここにも何か秘密がありそうだ。さらに中大兄皇子に奈良時代の淡海三船(おうみのみふね)が「天智天皇」と漢風諡号したのは注目される。天智とは、殷(いん:国名は商ともいう)の紂王(ちゅうおう)が最後まで身につけていた宝玉で、紂王の分身であるとまで言われていたものである。紂王とは妲妃(だっき)という女性に色狂いし、政治を疎かにし、酒池肉林という言葉の元を造った人物で、中国史上最悪の人物である。淡海三船は大友皇子の曾孫だから天智天皇の玄孫である。直系の先祖にとんでもない名前をつけた理由は何なのか、ここも不可思議である。紂王を討ったのは周の武王、つまり天武は武王ということなのかどうかは分からない。
蘇我入鹿は、後の歴史では天智天皇と藤原鎌足を正義とするがゆえに、悪の権化のように扱われる。聖徳太子の子である山背大兄王を追い込み滅ぼしたのは事実だ。その悪人を討った正義であるはずの天智天皇と藤原鎌足にはあまりにも謎が多い。
天智天皇を見ると、乙巳の変の後もすぐに即位できず・蘇我倉山田石川麻呂の征伐・白村江の戦い・額田王をめぐる大海人皇子との確執・孝徳天皇の意を無視した飛鳥板蓋宮への遷り直後に孝徳天皇が崩御・孝徳天皇の遺児である有間皇子の謀反討伐・天智天皇の同母妹間人皇女(孝徳天皇の皇后)との倫ならぬ関係など分からないことが多すぎる。
つまり蘇我入鹿もまた謀略に巻き込まれ、悪人の名を刻まれた人物である可能性もある。
蘇我入鹿とその周辺から、感じることがある。
誰かが意図的に築き上げたイメージで物事を見ると、目が曇ってしまうことだ。
自分のこれからの生き方の中でも、こうしたことがないように務めたい。
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