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2017年6月30日 (金)

今日(6月30日)は何の日? 時代小説家柴田錬三郎の忌日 「読んでもらうこと 売れることを第一とした時代劇作家」

今日(6月30日)は何の日?
時代小説家柴田錬三郎の忌日
「読んでもらうこと 売れることを第一とした時代劇作家」

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昭和53年(1978年)6月30日、柴田錬三郎が逝去した。享年61歳。彼は文化人タレントでもあり、マスメディアにもよく顔を出した。「3時のあなた」(フジテレビ)や「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)などの出演がそれである。エッセイも多数発表した。彼は作家として、まずは作品を読んでもらうことが第一であることをよく知っていた。その姿勢がよく現れているのが、芥川賞と直木賞のことである。『イエスの裔』が芥川賞と直木賞の両方の候補となったとき天秤にかけて直木賞選んだことである。純小説の芥川賞か、大衆小説の直木賞かと問われれば、多くの作家は芥川賞を選ぶであろう。それは作家としての腕の誉れであるからだ。しかし、柴田はより多くの人に広がるように大衆小説である直木賞を選んだ。そして時代小説を続々と発表し、剣豪ブームを巻き起こした。彼は剣豪作家といわれるようになる。

著名な作品を上げると『眠狂四郎シリーズ』『真説河内山宗俊』『猿飛佐助』『柳生但馬守』『清河八郎』『われら九人の戦鬼』『岡っ引どぶ 柴錬捕物帖』『真田十勇士』『御家人斬九郎』『堀部安兵衛』『おらんだ左近事件帖』『三国志英雄ここにあり』その他多数である。TVシリーズでおなじみの作品も少なくない。

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作家として多彩な活動をした人でもある。「文壇野良犬会」がその一つである。会長は今東光氏、副会長は柴田錬三郎氏、他は黒岩重吾、田中小実昌、野坂昭如、戸川昌子、藤本義一、井上ひさし、梶山季之。この自由気ままな集まりの発会式には、実は柴田は欠席しているが、今東光と柴田はかなり精力的に世の矛盾に正面からぶつかっていった。

柴田は面白い人物である。作家の中でも、純粋に文学を追うのではなく、その作品を数多くの人に読んでもらうことを大切にした。案外無視されがちだが、この柴田の視点は、またとても大切なものである。

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2017年6月29日 (木)

今日(6月29日)は何の日 新井白石の忌日 「鬼と呼ばれた儒学者 排斥し排斥された人生」

今日(6月29日)は何の日
新井白石の忌日
「鬼と呼ばれた儒学者 排斥し排斥された人生」

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1725年6月29日(旧暦享保十年五月十九日)、まだ麦畑で覆われ辺鄙な場所であった千駄ヶ谷で、六代将軍徳川家宣および七代将軍家継の侍講(朱子学の先生)であった旗本新井白石が不遇のうちに逝去した。

白石については個人的な複雑な思いがあるが、今回はその一部を。

新井白石の父は上総久留里(千葉県君津市)二万石藩主の土屋利直に仕えていた。白石は気性が激しく怒ると「火」という文字が眉間にできたという。利直は、それを観て「火の子」と呼んで聡明な白石を可愛がった。しかし、利直が没した後、白石の父は出仕せず藩を追われることになる。その後、白石は大老であった堀田正俊に仕えるが、正俊が殿中で殺害され堀田家は没落し、白石は自らの意志で浪人し、木下順庵に入門して学問に専念した。

順庵の推挙で甲府宰相徳川綱豊に侍講として仕えるようになる。その綱豊が五代将軍徳川綱吉の後嗣となるとそのまま仕え続け白石も旗本となる。綱豊は六代将軍徳川家宣となると、側用人間部詮房と共に辣腕を振るうようになった。白石が関わったことがあまり知られていない出来事を二つ紹介する。

一つは、七代将軍を誰かにする問題である。六代将軍家宣は学問をなした人であり、能力があるものが将軍にならねばならないと信じ、尾張徳川四代目当主徳川吉通を後継にしようとした。吉通の妻は五摂家九條家から嫁いでおり、後西天皇の孫でもあった。つまりその嫡子五郎太は天皇の曾孫であり、吉通・五郎太と続けば徳川は天皇家や五摂家の血も入れることになった。しかも吉通は学問もでき、武芸も新陰流の道統を次ぐほどの器量であった。家宣は吉通に将軍位を譲る決意をする。ところが新井白石は大反対した。鍋松こと後の七代将軍家継がいたからである。幼き主を幕臣が支えると、鋭く家宣を説得した。家宣は鍋松を後継としたというが、このやりとりは白石の随筆に記されているのみで、実際は家宣自身は吉通を望んでいたようである。白石が、あのときに動かなければ、家宣の意志に従っておれば、八代将軍吉宗も誕生せず、江戸幕府は全く違った形になっていたはずだ。侍講という幕府としては無役の旗本が将軍継嗣を決めた功罪は計り知れない。

もう一つが、有名な「江島生島事件」である。どうもこの事件は大奥の力を削ぐために、白石たちが仕組んだのではないかと思われる。結果的には大奥は縮小し、白石たちは喜んでいる。またこれをきっかけに江戸四座と呼ばれた芝居小屋のうち山村座は連座で取り潰され、他の中村座・市村座・森田座の三座も二階を撤去されるなど強制的に縮小させられ、江戸の芝居の火が小さくなる。これも朱子学で遊興を否定する白石には好都合であった。

白石は、五代将軍綱吉の側用人で大老格であった柳沢吉保を追い出し、その側近であった勘定奉行の荻原重秀を徹底的に嫌い追い出しに成功する。しかし結果的にこれが世界最先端の貨幣経済を潰してしまうことになる。白石は貨幣経済の本質を理解できなかった。

白石は歴史では「正徳の治」として良き政治を行ったかのように見られているが。その手法は「絵島生島」事件のように激烈すぎて、周りから「鬼」と呼ばれた。その結果、八代将軍となった吉宗から排斥されてしまう。吉宗は綱吉や柳沢吉保を大切にしていたこともある。

主君徳川家宣のために生きることが正義であった男、新井白石。彼は日本全体像と他の武将たちの気持ちを汲むことができなかったのであろう。彼の人生は、目的のためならば手段を選ばぬマキャベリズムに近いものを感じる。既に時代は大きく変化していたことに彼は気づいていても動けなかったのかもしれない。

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2017年6月28日 (水)

今日(6月28日)は何の日? 宮澤喜一元首相の忌日「官僚出身の最後の首相 切れすぎた叡智が災い」

今日(6月28日)は何の日?
宮澤喜一元首相の忌日

「官僚出身最後の総理」

平成19年(2007年)6月28日、宮澤喜一元首相が亡くなった。戦中戦後は大蔵官僚として、高度成長期は政治家として日本を支えてきた人物である。

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いわゆる頭の良い人であった。ジョークもうまかった。それゆえに、頭の回転があまり早くない人を嫌う傾向にあった。酒乱で有名で、酒が入ると東大卒以外を馬鹿にしたエピソードは事欠かない。それでも彼を支えてきた政治家が多数いたのは彼のカミソリのような知性のおかげであろう。

個人的には彼は、石田三成や、松平乗邑のような官僚オブ・ザ官僚の代表のように感じる。だからこそ彼は首相としてトップに居るより、大蔵大臣などのほうがあっていたようにも思う。命令する人がいて、その人物の言うことを着実に遂行する能力には長けていたように思う。特に池田勇人元首相との二人三脚は有名である。ところが、池田は政治家としては、宮澤よりも大平正芳元首相をかっていた。官僚としての有能さが必ずしも政治家として優れているわけではないことを、官僚出身の池田勇人は知っていたのかもしれない。

宮澤の後、官僚出身の総理大臣は生まれていない。逆にいうと宮澤が残した禍根がそれだけ根深かったのかもしれない。しかし、彼は首相を経験した後に大蔵大臣となり、最初の財務大臣にもなった。こうして総理の後でも他の大臣になれるという風穴を開けたのも、宮澤の知性の鋭さが伺える。

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平成15年(2003年)、小泉内閣の総選挙で宮澤は年齢制限に引っかかり半強制的に引退させられる。その後、急激に衰え、二年後には体調を崩し入院し容貌までもが一変する。そしてその二年後の平成19年(2007年)6月28日に老衰により逝去。享年87歳であった。

遺族は故人の遺志として、慣例になっていた、在任期間1年超の首相経験者への大勲位菊花大綬章の受勲を辞退している。ちなみに彼女の娘婿はアメリカ合衆国のクリストファー・ラフルア元駐日代理大使でありアメリカとは深いパイプがあった。

宮澤は尊敬はすべき人だが、好かれる人ではない。目的のためならば知性で切り刻む傾向があり、情に欠ける感じがしたからだ。その対極にいたのが大平正芳や田中角栄であろう。

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2017年6月27日 (火)

今日(6月27日)は何の日? 独眼竜伊達政宗の忌日 「伊達者・伊達男の語源」

今日(6月27日)は何の日?
独眼竜伊達政宗の忌日
「伊達者・伊達男の語源」

1636年6月27日(旧暦寛永十三年五月二十四日)、奥州の戦国大名の伊達政宗が薨去した。官位は異例の従三位権中納言。
大河ドラマにもなった戦国武将の英雄の一人。

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生まれてくる時代が遅かったことと、東北という場所の問題もあり、彼は天下人にはなれなかった。奥州統一後、秀吉の軍門に降らざるを得ず、そして再び徳川に就く。それでもなお、彼は天下を狙っていたという。彼はカトリックの力を借りようとローマへ使者を送るなど権謀術数を用いていたが、最終的にはいずれも失敗する。それでも最後の最後まで生き残ったことは彼の運を呼び込む強さと言えよう。

「伊達男」「伊達者」という言葉が生まれるほど、彼は派手好きでオシャレであった。人々を驚かせることに長けていた。この伊達者を演じたことで危機を乗り切ったこともある。また伊達者こそが伊達政宗のトレードマークとも言える。そしてこの伊達者が、後代の人々が伊達政宗を好きになる要素でもある。

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今日は伊達者を少し考えてみようと思う。伊達者の後ろに流れる思想を見つめてみたい。伊達政宗と比する伊達者と言えば、我が敬愛する徳川宗春が代表であろう。宗春は庶民が思い切り喜ぶように道化を演じた。伊達者は研究に値するテーマなのかもしれない。

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2017年6月26日 (月)

今日(6月26日)は何の日? 伝教大師最澄最澄師の忌日 「最も澄んだ源流の大乗仏教僧」

今日(6月26日)は何の日?
伝教大師最澄最澄師の忌日
「最も澄んだ源流の大乗仏教僧」

822年6月26日(旧暦弘仁十三年六月四日)、伝教大師最澄が比叡山にて遷化。享年数え五十六歳(満54歳没)。

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伝教大師はその名の示すように最も澄んだ方であったように思う。だからこそ後進の弘法大師(空海)に対しても弟子の礼を取ることができたのであろう。そして最も源流の澄んだ方であったからこそ、弟子たちはそれぞれの流れを作ることができたのではないだろうか?鎌倉仏教が花開いていったのも、この最澄師の最も澄んだあり方が基底にあるように思う。円仁・円珍・栄西・法然・道元・親鸞・日蓮等、大きな川を作っていった。

先日調べていて知ったことがある。最澄・比叡山・延暦寺は基本中の基本であるが、実は延暦寺という名前を伝教大師はつけていない。第十代崇神天皇七年に日枝山の山頂から現在の日吉大社に大山咋神が移され、天智天皇七年(669年)には大津京の守護神として奈良の三輪山大神神社より大物主神の分霊を日吉大社の場に勧請された。伝教大師は、その日枝の山に延暦七年(788年)に寺院を建立した。現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。延暦寺の名は伝教大師が遷化されて一年後に勅許されている。つまり伝教大師生前中は一乗止観院が正式名であり、延暦寺は存在していないことになる。これには驚いた。
ちなみに高野山の金剛峯寺は弘法大師自身がつけた名前であり、東寺を教王護国寺と名付けたのは後世の人である。

いずれにしても最澄という人は、純粋に純粋に法華一乗を追い求め、常に経典と向かい合い止観を極めて行った人であることは間違いない。そしてその澄んだ思いが、数多くの傑出した僧侶を輩出していったのであろう。

今日は伝教大師の追福菩提を祈りたいと思う。

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2017年6月25日 (日)

今日(6月25日)は何の日? ニューエイジサイエンスの旗手の一人ライアル・ワトソンの忌日 「感性の生物学者」

今日(6月25日)は何の日?

ニューエイジサイエンスの旗手の一人ライアル・ワトソンの忌日

「感性の生物学者」

2008年6月25日オーストラリアを訪問中の生物学者ライアル・ワトソンが逝去した。彼は『スーパーネイチャー』『生命潮流』などで名を馳せたニューエイジサイエンスの旗手の一人である。

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彼には個人的な思いがある。昭和61年(1986年)秋、我が師匠松長有慶先生が中心となって高野山にニューエイジムーブメントの旗手三人が集まった。コリン・ウィルソン、フリッチョフ・カプラ、そしてライアル・ワトソンの三人である。私は当時、高野山大学の学生。師匠に命じられ、別々の日だったがフリッチョフ・カプラとライアル・ワトソンのお二人に高野山の奥の院を案内した。

そのときのワトソンの言葉を今も思い出す。
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彼は奥の院の参道の途中で立ち止まって、両手を広げ、全身全霊で高野山奥の院の霊気を受け取っていた。御廟に近づくに連れ、より強くその行為を繰り返していた。面白い学者だと思った。御廟では合掌をし、私と一緒に祈りを捧げていた。何を祈ったのかと訊いたら「Secret」と笑った。地下法場では何故か身をかがめ、そして共に祈った。帰りもまた手を広げ、一の橋まで歩いていった。とても陽気な人だったことを覚えている。
彼の著作をそれまでに読んでいた。学問的には疑問符がつくことがたくさんあった。ところが彼と触れ合うまでの感想と、彼と共に奥の院に赴いてからの本への感想は大きく変わった。そのときに、「私の研究(学問)は、自分が感じているものを追うものである。」と彼は教えてくれた。彼が表現したかったのは学問ではなく真理の追求であることを知った。
もちろん彼のいう「百匹目の猿」「グリセリンの結晶化に関する都市伝説」など学問的には問題がある。しかし、その事実誤認よりも、彼の追い求めるもののほうが大切であることを知ってからは、彼の本は全く異質なものへと変化していった。彼のそのアプローチは、その後の私の考え方に大きく影響を与えてくれた。

その彼が平成20年(2008年)に亡くなった。新聞に小さなニュースが載っていた。私は一つの時代が過ぎ去ったことを改めて知った。あのときの思想的な実験を次に繋いでいきたいとその時感じた。

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その翌年の平成21年(2009年)6月25日は、チャーリーズエンジェルのファラーフォーセットと、マイケルジャクソンが亡くなっている。彼らについては、何かの機会に。

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2017年6月24日 (土)

今日(6月24日)は何の日? 美空ひばりの忌日 「戦後の昭和を駆け抜けた天才 歌謡界の女王」

今日(6月24日)は何の日?
美空ひばりの忌日
「戦後の昭和を駆け抜けた天才 歌謡界の女王」

平成元年(1989年)6月24日、「歌謡界の女王」美空ひばりが逝った。昭和天皇がお隠れになったその年のこと。まさに戦後の昭和とともに生き、消えていった波乱の人生。戦後の復興期、彼女無しで日本を語ることはできない。彼女とともに日本が復興していったといっても良いほどの存在であった。
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美空ひばりをここで語るには、私の知識は少なすぎる。ただただ偉大な人物であったということしかわからない。社会に選ばれた人は、個人的には不遇が多いが、彼女はまさにその典型であったように思う。
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個人的には、母の影響もあり、古き良き時代の時代劇映画をテレビでよく観た。美空ひばりは、子役であったり、姫役であったり、銀幕の中でも歌姫としての活躍もしていたからか、私の記憶の中での美空ひばりは、映画の中が多い。
子供の頃は彼女の歌の良さがわからなかった。ところが意識せぬままに、彼女の歌をいつの間にか覚えていた。最初に覚えたのは「リンゴ追分」。次に「真赤な太陽」「柔」であった。
今は彼女の歌が大好きである。iTunesでも何曲か入っている。特に「乱れ髪」「悲しい酒」の彼女の歌声は、心の奥底に響き渡る。人の世の儚さを教えられる。
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満52歳であったことを改めて知る。いつのまにか私も彼女の享年より一つ歳をとっている。

今日は彼女の歌をしみじみと聴こうと思う。
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2017年6月23日 (金)

今日(6月23日)は何の日? 作家壺井栄の忌日 「『二十四の瞳』が一世を風靡した児童作家」

今日(6月23日)は何の日?
作家壺井栄の忌日
「『二十四の瞳』が一世を風靡した児童作家」

昭和42年(1967年)6月23日、小説家の壺井栄が逝去した。享年満67歳。

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彼女は香川県小豆島に生まれる。文学的な素養が特別にあったわけではない。内海高等小学校が最終学歴である。苦労に苦労を重ね、出稼ぎに出ている兄から『少年』『少女』のような雑誌を読むだけであった。隣村出身の詩人の壺井繁治と結婚。夫の影響で林芙美子、平林たい子、佐多稲子、宮本百合子ら女流作家と交友をもつようになり、見よう見まねで作品を書き始めた。アナキストでありプロレタリア作家の詩人であった夫が何度も逮捕され苦労を重ねるが、その一方で彼女の作品が認められるようになる。そこにはプロレタリア作家であった佐多稲子が、栄にプロレタリア文学ではなく、児童文学を勧めたことが大きく影響している。戦前には新潮賞を、戦争が終わり次々と作品を発表し児童文学賞・芸術選奨文部大臣賞・・女流文学者賞なども受賞する。

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特に昭和27年(1952年)に発表された木下惠介監督『二十四の瞳』は、高峰秀子により主演される映画となり全国的に一般にも知られていく。地元の小豆島が舞台であったが、実は小説の中では「瀬戸内海べりの一寒村」とされるのみで小豆島とはどこにも書かれていない。

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喘息を患い、夫に先立ち中野熊谷病院で逝去した。

個人的には彼女の夫や彼女の周りのプロレタリア文学にはあまり共鳴できないが、高等小学校のみの教育で日本文学史上でもかなり有名な部類に入る児童文学を作ったことには敬意を評したい。今日は彼女の作品を読んでみようと思う。

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2017年6月22日 (木)

今日(6月22日)は何の日? 高田好胤師の忌日 「昭和の傑僧の知恵」

今日(6月22日)は何の日?
高田好胤師の忌日
「昭和の傑僧の知恵」

「究極の語りのエンタテイナー」といわれ「話の面白いお坊さん」と評判になられた高田好胤師が平成十年(1998年)6月22日に遷化された。享年数七十五歳。

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檀家がなく、荒れていた興福寺とともに法相宗の本山である薬師寺の再興のために、三つの方法論を用いられた。

1)分かりやすい説法
訪れた修学旅行生に直接語りかけた。また各地で講演をし、数多くの著述をして布教に努められた。

2)仏像の出開帳
薬師寺の日光菩薩や月光菩薩など、国宝級の仏像を出開帳して、多くの方々に拝んで頂き、衆目を集められた。

3)般若心経の写経
これこそが高田師の最も有名な活動。多くのお寺もこれを真似るが、オリジナルの薬師寺は今もシステム的に最も優れていると言って良い。

高田師は20世紀の傑僧であったのは間違いない。学ぶべきことは多数ある。こうした世間的な活動だけではなく、玄奘三蔵法師から基法師をとおし奈良時代の仏教界を牽引した瑜伽行唯識(法相)の教えを内面化された事実も見逃せない。

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今日は高田師の説法をYoutubeで聴いて、内面の深化と、外への広報の両面から学ぼうと思う。

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2017年6月21日 (水)

今日(6月21日)は何の日? 織田信長とマキャベリの忌日 「目的のためならばあらゆる手段を講じる 時代の改革」

今日(6月21日)は何の日?
織田信長とマキャベリの忌日
「目的のためならばあらゆる手段を講じる 時代の改革」

1527年5月に神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世がローマに進行。教皇領を略奪し、メディチ家もフィレンツェから追放されてしまう。メディチ家に仕えたマキャベリも追放され、6月21日、満58歳で逝去した。マキャベリズムの語源となったマキャベリは『君主論』を執筆。目的達成のためならばありとあらゆる手段を取ることを推奨した政治書である。

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日本でマキャベリズムを体現したのは、なんといっても織田信長であろう。戦国の世に終止符を打つために、旧弊と戦い打破することに務めた。宗教的権威を政治の場から排除し、軍隊を常設軍とした。これはまさにマキャベリズムそのものである。

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その信長は1582年6月21日(旧暦天正十年六月二日)に本能寺の変で薨去した。偶然にもマキャベリの死の55年経った6月21日ことであった。

二人を語るとあまりにも長くなるので割愛する。

為政者が国を治める上で、大きな改革をする上で、マキャベリズムが必要なときもあり得る。時代背景を考えると、必ずしもそれを否定する気にはなれない。個人的にはマキャベリズムは好きではない。それでもなお、大きく土地を離れた場所で、マキャベリの思想を体現した織田信長の改革力の凄さには脱帽である。彼の善悪は今の時代の倫理観ではとても測れない。
目的を最重要視し、手段を考えないこの考え方は、もちろん今の時代には使ってはならない方法論であることは間違いない。

今日はマキャベリの著作をどれか読んでみようと思う。

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2017年6月20日 (火)

今日(6月20日)は何の日? スウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンの忌日。 「民衆の残虐性を体感した悲劇の貴族」

今日(6月20日)は何の日?
スウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンの忌日。
「民衆の残虐性を体感した悲劇の貴族」

池田理代子原作『ベルサイユのばら』で、マリー・アントワネットの恋人となったフェルゼンのモデルとなった人物である。

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『ベルサイユのばら』のようにフェルゼンはマリー・アントワネットに生涯を捧げた。カール13世の妃であり、日記で有名なヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ(彼女は1818年6月20日が忌日)との浮名もあったが、数ある結婚話を断り生涯をマリー・アントワネットを愛したという。ルイ16世夫婦を助けようとするが、それに失敗。最愛の人マリー・アントワネットは処刑台の露と消えてしまう。それからのフェルセンは人が変わったように民衆を憎むようになった。圧倒的な歓迎で迎えられたマリー・アントワネットが、民衆によってギロチンに掛けられてしまった現実は彼を猜疑心へといざなってしまった。そしてスウェーデン軍の元帥として民衆に圧政を敷いていく。彼は民衆を憎み、民衆も彼を憎むようになる。そして王太子の葬儀の日に、その場に表れたフェルゼンを民衆が襲う。その場に居た近衛連隊はそれを制止せず、フェルセンは惨殺されてしまう。遺体は、全裸で側溝に投げ捨てられた。この。偶然にも事件が起こった6月20日は、19年前の1791年にフェルセンがルイ16世とマリー・アントワネット夫婦をパリから逃そうとしたヴァレンヌ事件が起こった日であった。

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民衆は衆愚に陥る可能性は十分にある。最近のマスコミを見ていると、それを助長しているようにも見える。フェルセンの生涯を見つめることで、民衆を侮ってはならないが、阿りすぎてもならないことが見えてくる。

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今日は宝塚歌劇の『ベルサイユのばら フェルゼンとマリー・アントワネット』平成元年(1989年)のCDを聴こうと思う。フェルゼンは星組トップのネッシーこと日向薫、マリー・アントワネットはシギさんこと毬藻えり。実は毬藻えりは私の大好きな宝塚女優の一人であった。

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2017年6月19日 (月)

県岐商の吹奏楽とその先輩のサックスに魅了され

昨夜は県立岐阜商業の吹奏楽部のサマーコンサートに信者さんと妻と共に行きました。
吹奏楽部には先日大変お世話になったので^_^

第二部で共演された県岐商吹奏楽部の元主将で卒業生の服部令子さんのプロのサックス、震えが止まらないほど感動しました。内の内なる光に触れるとはこういう感覚なのかと。また聴きたい!
彼女のブログに、ちらっとその時の様子が^_^
服部令子さんのブログ

サックスは今まであまり好きなジャンルではなかったのですが、見事にハマってしまいました。

県岐商も服部さんも、どちらも超お勧めです!

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今日(6月19日)は何の日? 竹下登元首相の忌日 「気配り・調整型の政治家  ‘おしん’と呼ばれた辛抱の人」

今日(6月19日)は何の日?
竹下登元首相の忌日
「気配り・調整型の政治家  ‘おしん’と呼ばれた辛抱の人」

平成12年(2000年)6月19日、竹下登元首相が逝去した。満76歳。

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昭和時代最後の首相であり、平成時代最初の首相である。また地方議員から首相になった初めての政治家でもある。

終戦直前の昭和20年3月、竹下に深い影響を与えた実母の唯子が逝去。その直後の5月に妻の政江が自殺してしまう。竹下21歳の春、日本が最も空襲を受けていたときである。母唯子は病であったというが、妻の政江は竹下の父との軋轢を竹下に相談したところ一喝されてしまい自らの命を断ってしまう。この出来事が、竹下の性格を変えてしまう。この日から竹下は決して怒らずに、「気配り・目配り・金配りで総理になった」と言われるほど相手と良き関係を結ぶようになっていったという。

竹下の語録は彼の性格をよく表している。

「汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう」 「私の専門は選挙学」「組織しつつ選挙し、選挙しつつ組織する」「アイムソーリ、ボクソーリ」「歌手1年、総理2年の使い捨て」 「一内閣一仕事」 「玉拾いに徹する。」「参議院を笑う者は参議院に泣く」 「言語明瞭、意味不明」 「これから生きとし生ける私の身柄をかけて、燃焼し尽くさなければならない」「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」「公平で簡素な新しい税制を実現することが、現下の急務だ。いかなる困難があろうとも『若し聞く人なくば、たとひ辻立ちして成りとも吾志を述べん』との先哲(石田梅岩)の言葉を自らに言い聞かせつつ、この身命のすべてをささげ、全力を尽くす」 「円登り、竹下下る」「我が道を行く」「私は一貫して『政治は無限の理想への挑戦』という信念に基づき、ひたすらこの道一筋に歩き続けてきた。しかし、いま静かにその歩みを止める時が来たと決意した」

首相としては消費税導入と、昭和天皇崩御・現今上陛下御即位・故郷創生1億円・日米貿易摩擦の一部を解消(牛肉オレンジの輸入自由化)を成し遂げたが、リクルート問題などで短い首相生命であった。しかし、自民党最大派閥の竹下派の領袖として君臨続け、海部内閣や宮沢内閣、小渕内閣に隠然たる影響を与えている。

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竹下の政治手法はそれまでの首相たちと大きく異なっていた。それまでは自民党内でも主流派と反主流派があり、反主流派は閣外が一般的であった。ところが竹下は、福田派の安倍晋太郎を幹事長にし、宮沢を副総理・大蔵相とし、派閥均衡内閣を作って「総主流派体制」を実現した。ここにも竹下の人となりが顕れている。

竹下の政治家としての明闇はここでは述べない。むしろ「おしん」と呼ばれ辛抱を通してきたことや、周囲への気の遣い方こそ彼の真骨頂であろう。そしてその真骨頂を作ったのは、ほかでもない、最初の妻正江が竹下の不当な叱責により自らの命を断ってしまったことであった。

個人的なことだが私は選挙が苦手であるし気配りが下手であることを深く自覚している。今日は竹下登元首相を見つめ、自らの反省点をも見つめ、少しでも糧にしたい。

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2017年6月18日 (日)

今日(6月18日)は何の日? 唐(618年~907年)の成立した日 「貞観政要」を読んでみよう

今日(6月18日)は何の日?
唐(618年~907年)の成立した日
「貞観政要」を読んでみよう

618年6月18日(中国旧暦:義寧二年/武徳元年五月二十日)、随の三代皇帝恭帝から、太原留守の李淵が禅譲を受け唐を建国した。ここに隋は滅び、唐は大帝国への道を歩み始める。日本は推古天皇・摂政が聖徳太子のときである。太子が小野妹子を遣隋使として派遣し「日出處天子致書日沒處天子無恙」の書面を送ったのが607年のことであり、皇帝は二代目の煬帝という暴君であった。その十一年後には隋は滅んでいる。

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いきなり唐が大帝国になったわけではない。

隋の初代皇帝高祖諡文皇帝楊堅の皇后は独孤伽羅(文献皇后)であった。彼女は李淵の母の妹であったことから、李淵は隋帝国内で累進していく。隋の高祖文帝が崩御し、二代目に李淵の従弟にあたる煬帝が帝位に着いた。煬帝は暴君であり周辺諸国からも侵入を受ける。国内でも反乱が起き、李淵も反乱を起こした。そして李淵は長安を落とし、煬帝は江都へと居を移した。李淵は、元徳太子楊昭(煬帝の兄)の子である侑を推し、隋の第三代皇帝(恭帝)に即位させ、自らは国政を司る尚書令・大丞相に任じられる。その際に唐王に任じられ、隋の国政を任されることになる。煬帝が部下に殺されると、恭帝から禅譲を受けて、隋をそのまま唐として新たな帝国にしてしまう。それが618年6月18日のことである。
しかし、各地で反乱は続いており、洛陽では王世充が鄭を建国、河北では群盗の竇建徳が一大勢力となり、長江以南では南朝梁の末裔を称する蕭銑が梁朝の再興を宣言していた。李淵の次子である李世民はこれらを鎮圧していくことに武功優れ、周囲より次期皇帝へと望まれる。兄で皇太子李建成は李世民を疑い策謀をするが、それを李世民は事前に防ぎ、李建成を討ち、李淵より譲位される。李淵は隠居して政治より遠のいた。その李世民こそが『貞観政要』の太宗その人である。

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太宗は全ての反乱軍を鎮圧させ、大唐帝国を完成させた。彼の治世は貞観の治と呼ばれる。ここから世界に誇る唐が隆盛していく。もちろん日本も深く影響を受けることとなる。

ちなみに『貞観政要』は、太宗となった李世民と臣下の問答集である。帝王学の書籍でもある。日本では北条政子が仮名書を作らせ、徳川家康が藤原惺窩に講義をさせるなど、大いに用いられた。

今日は、大唐帝国を作らしめたこの『貞観政要』を改めて読んでみようと思う。

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余談:それにしても、『貞観政要』の中のこの唐の時代の人達と、今の中国人が同じ民族であるとは到底思えないのはなぜだろうか?「中華」という形だけ真似ないでほしい。

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2017年6月17日 (土)

今日(6月17日)は何の日? 古賀精里(寛政の三博士の一人)の忌日 「ペリー来航前に開国を論じた儒学者 教育の本質」

今日(6月17日)は何の日?
古賀精里(寛政の三博士の一人)の忌日
「ペリー来航前に開国を論じた儒学者 教育の本質」

1817年6月17日(旧暦文化十四年五月三日)、儒学者の古賀精里が逝去した。あまり知られていない人物だが、明治時代への序曲として、少なからざる影響を残した人物である。それはペリー来る五十年も前に海外との外交が重要であることを説いていたからである。

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彼は佐賀藩出身で、昌平黌の教授へと招聘されるが、佐賀藩には彼の子孫が残って学問的に藩を支えている。佐賀藩は明治維新でも重要な藩。薩長土肥の一つであり、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らを輩出した。

彼の学問は湯武放伐を否定した山崎闇斎の朱子学である。これは権力者側に都合がよく、自由にものごとを考えることができる新たな学問を否定することにも繋がった。そのおかげで数え四十七歳で昌平黌の儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士と呼ばれるようになる。老中松平定信の寛政の改革に協力して、学問を非常に厳しく統制する「寛政異学の禁」へと繋がってしまう。

このときの幕府儒官の最高位であった大学頭林家当主は林述斎である。林述斎を、林家に送り込んだのは松平定信であった。それにより、林家に自由な学問を禁じることに成功する。林家に送り込まれた林述斎は、八代将軍徳川吉宗の享保の改革の中後期を支えた老中松平乗邑の孫に当たる。松平定信は徳川吉宗の孫であり、享保の改革の担い手の孫同士が寛政の改革を担っていた。そして、それを山崎闇斎の朱子学で支えた一人が古賀精里である。

古賀と付き合いのあった人物の一人が頼山陽である。頼山陽は『日本外史』を著した歴史家でもあったが、朱子学と対抗する陽明学も修めていた。頼山陽は古賀を「厳密寡黙」と評している。

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古賀には多くの弟子が居た。羽倉簡堂・草場佩川・斎藤拙堂・野田笛浦・篠崎小竹・野村篁園などである。ところが不思議な事に、その弟子たちも、嫡男の古賀穀堂も、そして彼らの弟子、すなわち古賀の数多くの孫弟子たちも、朱子学一辺倒ではなく、幕末から明治維新にかけて柔軟に対応できる学問をしていった。これは、古賀が説いた海外との外交の重要性を、弟子たちが朱子学以上に強く認識していたからかもしれない。

教育の本質を今日は少し考えてみようと思う。

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2017年6月16日 (金)

今日(6月16日)は何の日?vol.2 香淳皇太后陛下の忌日 「夫婦のあり方の理想像」

今日(6月16日)は何の日?  vol.2
香淳皇太后陛下の忌日
「夫婦のあり方の理想像」

平成12年(2000年)6月16日、昭和天皇の皇后であられた香淳皇太后さまが御崩御された。歴代の皇后さまの中で最もご長命で満97歳であられた。

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諱はは良子(ながこ)さま、久邇宮家の御出身で、皇后となる以前はの身位は女王。歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。

昭和の激動の時代、昭和天皇様をよくお支えになられ、皇后陛下の理想的なお姿をも、妻としてのあり方をも、母としてのあり方をも示されたお方でもある。

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昭和天皇様は、香淳皇后様のことを「良宮(ながみや)」と呼ばれ、御夫婦はとても仲が睦まじかったという。久邇宮家のお生まれであったこともあり、香淳皇后様ご自身の性格が、おっとりしたおおらかであったことも御夫婦の仲睦まじさの要因であったように思う。香淳皇后様は昭和天皇様のことを「お上(おかみ)」と呼ばれ、従順に夫を立てる古風な女性であられたことも国民の印象をより良くしたのかもしれない。ある意味でお二人のお姿は日本国および日本国民にとって理想的な御夫婦のあり方を示されていた。それゆえにこそ、今上陛下御夫婦もお二人のようなあり方を模索されてこられ、二代続いて今のような理想的な御夫婦であるのかもしれない。

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今日は仲睦まじくあられた昭和天皇御夫妻を見つめ直して、自分も振り返りたいと思う。

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2017年6月15日 (木)

今日(6月15日)は何の日? 信用金庫法制定記念日 「信用金庫の原論である小原理論 裾野金融理論を見つめ直す これぞ日本の金融思想!」

今日(6月15日)は何の日?
信用金庫法制定記念日
「信用金庫の原論である小原理論 裾野金融理論を見つめ直す これぞ日本の金融思想!」

「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」「貯蓄興国、借金亡国」「銀行に成り下がるな」「人の性は善なり」「人柄に貸せ」「産業金融に徹する」「国民経済が大切」これらはこの法律制定の功労者 小原鐵五郎の言葉

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信用金庫のルーツは二つある。
一つは、天保2年(1831年)に大原幽学が、上総(千葉県)で、神道・儒教・仏教を一体とする「性学」を講じ、先祖株組合という農業協同組合を世界で初めて創設したことがルーツと言われる。
もう一つは、二宮尊徳の弟子である岡田良一郎によって明治12年(1879年)に勧業資金積立組合が設立された。これが掛川信用金庫の前身で、日本最古の信用金庫と言われる。

明治政府は、急速に導入した資本主義の弊害是正し産階級の育成と庶民の生活安定のために、ドイツの信用組合を見習う。株式会社の銀行ではなく、融資対象・営業地域を限定し一人一票の民主的な運営原理の協同組織の金融機関を創設。明治33年(1900年)に内務大臣の品川弥二郎や平田東助が中心となって産業組合法が制定される。それによって生まれた信用組合と農業協同組合は協力関係を築いた。生活協同組合も生まれる。

続いて、都市の中小商工業者のために大正6年(1917年)に産業組合法が一部改正。昭和18年(1943年)に市街地信用組合法が制定。終戦後、GHQにより、旧市街地信用組合は法律上中小企業等協同組合法に基づく都道府県管轄の信用協同組合とされてしまう。この法律により「青果や食肉など業種別の組合」「職域組合」「民族系組合」などから派生した新しい信用協同組合が林立。ところがこれは町役場の金融部門」「町の発展のための公共的金融機関」として発足した旧市街地信用組合とは経営理念・歴史・経営内容が異なっていた。
旧市街地信用組合は、一線を画すことを望む。昭和26年(1951年)6月15日に、議員立法により、新たに大蔵省直轄の協同組織金融機関制度である「信用金庫」を創設して転換した。「地域で集めた資金を地域の中小企業と個人に還元することにより、地域社会の発展に寄与する」を目的としている。そのころ、無尽会社が相互銀行に、信託会社が信託銀行にと、「銀行」という名称に変更していた。しかし旧市街地信用組合の関係者は「儲け主義の銀行に成り下がりたくない」という強いプライドから「信用銀行」という案を拒否する。そこで当時の舟山正吉銀行局長から「金は銀よりも上」として、政府機関のみが使用していた金庫という名称を許可され「信用金庫」という名称となる。そのときに常任理事として活躍したのが城南信用金庫三代目理事長となる小原鐵五郎である。昭和38年(1963年)には全国信用協同組合連合会(現信金中央金庫)の会長に、昭和41年(1966年)3月に全国信用金庫協会長となり長年活躍した人物でもある。

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小原は
信用金庫の3つのビジョンを「中小企業の育成発展」「豊かな国民生活の実現」「地域社会繁栄への奉仕」とした。
「超資本主義で事を進めるなら、いつか貧富の差が激しくなり、階級闘争が火を吹くかもしれない。平和な世の中を作るには、信用金庫の存在こそ必要ではないのか」
「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」
という小原理論、すなわち「裾野金融理論」を提唱した。

これは今も十分通じる理念ではないだろうか。経済ばかりでなく多くのことに通じる哲学でもある。

今日は「小原理論」をもう一度見つめてみようと思う。

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2017年6月 9日 (金)

今日(6月9日)は何の日? 皇太子殿下の御成婚記念日 「結婚の日付と日本国民としての思い」

今日(6月9日)は何の日?
皇太子殿下の御成婚記念日
「結婚の日付と日本国民としての思い」

1993年(平成5年)6月9日、皇太子殿下であられる浩宮德仁様と、外務省職員(外交官)であった小和田雅子様が御成婚された。

個人的に皇太子殿下の霊性の高さを感じているし、江戸時代までの天皇家としてのシステムをある程度学んだ身なので、禁裏での皇太子ご夫妻に関する記述の多くは控えようと思う。

この日付を見て不思議に思う人がいるかもしれない。それは6月に結婚式が行われたことである。

一般的にジューンブライド(6月の結婚式)は憧れられる。その起源は、古代ローマにある。ローマは6月頃になるととても天候がよく、温暖で晴れ上がり結婚式にとても良い。6月のJuneとはユーノー(Juno: Iūno)というローマ神話で結婚生活を司る神に由来しているほどだ。ユーノーはギリシア神話のヘラに比定され、女性の守護神でもある。

ところが新暦の6月Juneとは、古来からの日本の旧暦五月皐月に相当し、別名を物忌月(ものいみづき)と呼んだ。お祝い事をしてはならない月であり、そのために端午の節供で、薬などを渡し、菖蒲(しょうぶ)で厄除けをしていた。それくらい物忌月は恐れられていた。梅雨であり、湿気が強く、病になりやすかったり食物が腐りやすいこともあったからである。

私は疑問に思った。なんで皇太子殿下は、そんな時節に結婚されたのか?まさか宮内庁が西洋に毒されたのか?

ところが私の疑念は杞憂に終わった。1993年(平成5年)6月9日の旧暦は四月(卯月)二十日であったからだ。宮内庁はジューンブライドでもあり、旧暦の物忌月を避ける絶妙な日であった。流石に宮内庁であると感心した。

今日の話とは関係ないが、最近皇太子殿下を批判する声が時折聞こえてくる、退位せよなどと素っ頓狂な論文さえ出された。どうも皇太子殿下および妃殿下の足を引っ張る人たちは、日本の皇統を崩そうとしているのではないかと感じる。それこそエセ日本人の可能性も高いし、皇室を恐れる海外からの何らかの工作かもしれない。

皇太子殿下は既に皇太子殿下である。次期、天皇となられることが決まった方である。そうしたご夫妻を批判するのではなく、国民として温かく見守っていくのが、象徴天皇制を戴く日本国民として当然ではないだろうか。

間もなく、殿下は天皇陛下として御即位され、妃殿下は皇后陛下となられる。つまらない揚げ足を取るのではなく、お二方をを私たちの象徴として支えていく日本であってほしいと強く願う。

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