今日(6月18日)は何の日? 唐(618年~907年)の成立した日 「貞観政要」を読んでみよう
今日(6月18日)は何の日?
唐(618年~907年)の成立した日
「貞観政要」を読んでみよう
618年6月18日(中国旧暦:義寧二年/武徳元年五月二十日)、随の三代皇帝恭帝から、太原留守の李淵が禅譲を受け唐を建国した。ここに隋は滅び、唐は大帝国への道を歩み始める。日本は推古天皇・摂政が聖徳太子のときである。太子が小野妹子を遣隋使として派遣し「日出處天子致書日沒處天子無恙」の書面を送ったのが607年のことであり、皇帝は二代目の煬帝という暴君であった。その十一年後には隋は滅んでいる。
いきなり唐が大帝国になったわけではない。
隋の初代皇帝高祖諡文皇帝楊堅の皇后は独孤伽羅(文献皇后)であった。彼女は李淵の母の妹であったことから、李淵は隋帝国内で累進していく。隋の高祖文帝が崩御し、二代目に李淵の従弟にあたる煬帝が帝位に着いた。煬帝は暴君であり周辺諸国からも侵入を受ける。国内でも反乱が起き、李淵も反乱を起こした。そして李淵は長安を落とし、煬帝は江都へと居を移した。李淵は、元徳太子楊昭(煬帝の兄)の子である侑を推し、隋の第三代皇帝(恭帝)に即位させ、自らは国政を司る尚書令・大丞相に任じられる。その際に唐王に任じられ、隋の国政を任されることになる。煬帝が部下に殺されると、恭帝から禅譲を受けて、隋をそのまま唐として新たな帝国にしてしまう。それが618年6月18日のことである。
しかし、各地で反乱は続いており、洛陽では王世充が鄭を建国、河北では群盗の竇建徳が一大勢力となり、長江以南では南朝梁の末裔を称する蕭銑が梁朝の再興を宣言していた。李淵の次子である李世民はこれらを鎮圧していくことに武功優れ、周囲より次期皇帝へと望まれる。兄で皇太子李建成は李世民を疑い策謀をするが、それを李世民は事前に防ぎ、李建成を討ち、李淵より譲位される。李淵は隠居して政治より遠のいた。その李世民こそが『貞観政要』の太宗その人である。
太宗は全ての反乱軍を鎮圧させ、大唐帝国を完成させた。彼の治世は貞観の治と呼ばれる。ここから世界に誇る唐が隆盛していく。もちろん日本も深く影響を受けることとなる。
ちなみに『貞観政要』は、太宗となった李世民と臣下の問答集である。帝王学の書籍でもある。日本では北条政子が仮名書を作らせ、徳川家康が藤原惺窩に講義をさせるなど、大いに用いられた。
今日は、大唐帝国を作らしめたこの『貞観政要』を改めて読んでみようと思う。
余談:それにしても、『貞観政要』の中のこの唐の時代の人達と、今の中国人が同じ民族であるとは到底思えないのはなぜだろうか?「中華」という形だけ真似ないでほしい。
| 固定リンク
« 今日(6月17日)は何の日? 古賀精里(寛政の三博士の一人)の忌日 「ペリー来航前に開国を論じた儒学者 教育の本質」 | トップページ | 今日(6月19日)は何の日? 竹下登元首相の忌日 「気配り・調整型の政治家 ‘おしん’と呼ばれた辛抱の人」 »
コメント