今日(6月17日)は何の日? 古賀精里(寛政の三博士の一人)の忌日 「ペリー来航前に開国を論じた儒学者 教育の本質」
今日(6月17日)は何の日?
古賀精里(寛政の三博士の一人)の忌日
「ペリー来航前に開国を論じた儒学者 教育の本質」
1817年6月17日(旧暦文化十四年五月三日)、儒学者の古賀精里が逝去した。あまり知られていない人物だが、明治時代への序曲として、少なからざる影響を残した人物である。それはペリー来る五十年も前に海外との外交が重要であることを説いていたからである。
彼は佐賀藩出身で、昌平黌の教授へと招聘されるが、佐賀藩には彼の子孫が残って学問的に藩を支えている。佐賀藩は明治維新でも重要な藩。薩長土肥の一つであり、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らを輩出した。
彼の学問は湯武放伐を否定した山崎闇斎の朱子学である。これは権力者側に都合がよく、自由にものごとを考えることができる新たな学問を否定することにも繋がった。そのおかげで数え四十七歳で昌平黌の儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士と呼ばれるようになる。老中松平定信の寛政の改革に協力して、学問を非常に厳しく統制する「寛政異学の禁」へと繋がってしまう。
このときの幕府儒官の最高位であった大学頭林家当主は林述斎である。林述斎を、林家に送り込んだのは松平定信であった。それにより、林家に自由な学問を禁じることに成功する。林家に送り込まれた林述斎は、八代将軍徳川吉宗の享保の改革の中後期を支えた老中松平乗邑の孫に当たる。松平定信は徳川吉宗の孫であり、享保の改革の担い手の孫同士が寛政の改革を担っていた。そして、それを山崎闇斎の朱子学で支えた一人が古賀精里である。
古賀と付き合いのあった人物の一人が頼山陽である。頼山陽は『日本外史』を著した歴史家でもあったが、朱子学と対抗する陽明学も修めていた。頼山陽は古賀を「厳密寡黙」と評している。
古賀には多くの弟子が居た。羽倉簡堂・草場佩川・斎藤拙堂・野田笛浦・篠崎小竹・野村篁園などである。ところが不思議な事に、その弟子たちも、嫡男の古賀穀堂も、そして彼らの弟子、すなわち古賀の数多くの孫弟子たちも、朱子学一辺倒ではなく、幕末から明治維新にかけて柔軟に対応できる学問をしていった。これは、古賀が説いた海外との外交の重要性を、弟子たちが朱子学以上に強く認識していたからかもしれない。
教育の本質を今日は少し考えてみようと思う。
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