初期仏教では仏像や仏画を偶像崇拝として基本的には認めていませんでした。ところがガンダーラやマトゥラーで仏像が作られてからは一転して仏像や仏画が制作され、崇拝の対象として変化していきました。
では仏像や仏画に対しての崇拝は偶像崇拝なのでしょうか?
おそらく大乗仏教初期の僧侶は相当悩まれたと思います。しかしその悩みを突破され、仏像や仏画を上手に内に取り込んでいかれたようです。
その一例として、もっとも多くの仏像や仏画を扱う密教の立場でものを見つめると、ありとあらゆるものが大日如来の表現の顕現です。特に仏像や仏画は、お姿や持ち物、色に深い意味が込められています。
弘法大師(空海)は、お経を始め仏の教えを人の姿で表したものが如来や菩薩であるとまで言い切って居られます。
つまり、仏像や仏画はこの世の真理を形として表したものであり、単純な偶像ではないということです。その仏像や仏画を通して、その奥にある真理に祈りを捧げるのが、本来のあり方ということになるでしょう。
心ある、真言行者はこのことを深く理解しています。単純に仏像や仏画そのものをありがたがることはありません。
あたかもその仏像や仏画が神さまのごとく祈りを捧げると、そこにあるのは天部の欲望に満ちた神さまである可能性が強く出てきます。
だからこそ、一つ一つの仏像や仏画が表現しているものは大切。そのお姿が心の琴線に触れるほど優れている場合は、真理そのものにつながりやすいのだと思います。その意味でも仏像や仏画を大切にしたいものです。
補足ですが、密教では古代インドの習俗を取り込んでいます、その習俗をそのまま認めるのではなく、大乗仏教の哲学を付与し、習俗そのものをおこなうことで大乗仏教が身につきやすいように工夫をしています。仏像や仏画も、こうした考え方が原点にあり、偶像崇拝に仏教哲学を付与して、偶像崇拝ではなく、真理への到達のための良い意味での大切な道具にしたのかもしれませんね。
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