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2016年3月28日 (月)

できる人とできない人の差は、できる人は自分にできることをし、できない人は自分にできないことばかり目を向けて出来ることをしない

ある方から、かつて教えられた言葉があります
「確かロマン・ロランが言っていた内容だと思うが、できる人とできない人の差は、できる人は自分にできることをし、できない人は自分にできないことばかり目を向けて出来ることをしないことだ。」

告白すれば昔の自分はできないことばかりを妄想していました。自分の実力をある意味過信していましたし、現実の自分を否定していたのだと思います。

ところが仏教を深く学ぶうちに、密教の修法を重ねるうちに、お釈迦さまは、世の中は思うようにならないことばかりだから、まずは自分にできることを見極め、それに専心するようにということを対機説法で伝えていたことに気づきました。

弘法大師もできることを最大限におこなわれていたように感じます。

そのことに気づいてからの人生は一変。とにかくなんでも自分にできることの限界を見つめて、その限界を少しでも広げられるようにするようになりました。またその枠組みの中で精一杯するようにもなりました。すると、人の評価よりも大切なものが目の前にあることにも気づかされていったのです。

私たちは視界を始め普段の生活の中で自分にできることは何かを意識することはほとんどありません。それを日々の瞑想の中で見極めていくと、逆に自分と他との境が消えていくようです。

限界を知れば限界がなくなる

面白いものです。これを知ってから、本を二冊書きました。今も別のものを執筆中です。また中日文化センターや市の生涯教育で講義もいくつも持つようになりました。

おそらく、これからも今のこの自分の枠組みを見極めて、その枠組みを消すということを繰り返していくと思います。時には辛いことまでも見極めなくてはなりませんが、今は自分の枠組みを見極めることが楽しくて仕方がありません。

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2016年3月27日 (日)

#偶像崇拝 と #仏像 #仏画 について雑感 仏教のそれらは真理の一表現

偶像崇拝と仏像・仏画について雑感
初期仏教では仏像や仏画を偶像崇拝として基本的には認めていませんでした。ところがガンダーラやマトゥラーで仏像が作られてからは一転して仏像や仏画が制作され、崇拝の対象として変化していきました。

では仏像や仏画に対しての崇拝は偶像崇拝なのでしょうか?

おそらく大乗仏教初期の僧侶は相当悩まれたと思います。しかしその悩みを突破され、仏像や仏画を上手に内に取り込んでいかれたようです。

その一例として、もっとも多くの仏像や仏画を扱う密教の立場でものを見つめると、ありとあらゆるものが大日如来の表現の顕現です。特に仏像や仏画は、お姿や持ち物、色に深い意味が込められています。

弘法大師(空海)は、お経を始め仏の教えを人の姿で表したものが如来や菩薩であるとまで言い切って居られます。

つまり、仏像や仏画はこの世の真理を形として表したものであり、単純な偶像ではないということです。その仏像や仏画を通して、その奥にある真理に祈りを捧げるのが、本来のあり方ということになるでしょう。

心ある、真言行者はこのことを深く理解しています。単純に仏像や仏画そのものをありがたがることはありません。

あたかもその仏像や仏画が神さまのごとく祈りを捧げると、そこにあるのは天部の欲望に満ちた神さまである可能性が強く出てきます。

あくまでも仏像仏画は真理の表現。

だからこそ、一つ一つの仏像や仏画が表現しているものは大切。そのお姿が心の琴線に触れるほど優れている場合は、真理そのものにつながりやすいのだと思います。その意味でも仏像や仏画を大切にしたいものです。

仏像や仏画は単純な偶像崇拝ではありません。

補足ですが、密教では古代インドの習俗を取り込んでいます、その習俗をそのまま認めるのではなく、大乗仏教の哲学を付与し、習俗そのものをおこなうことで大乗仏教が身につきやすいように工夫をしています。仏像や仏画も、こうした考え方が原点にあり、偶像崇拝に仏教哲学を付与して、偶像崇拝ではなく、真理への到達のための良い意味での大切な道具にしたのかもしれませんね。

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2016年3月10日 (木)

光が欲しければ 目先のことよりも根本を

「目先ではなく根本を」

西郷隆盛は
太鼓のような人であったという

軽く叩けば軽く響き
大きく叩けば大きく響く
そんな人であったらしい
愚人が近寄れば愚人に見え
賢人が寄れば深き賢人であったという

常にそうありたい
私が願うところ
もちろん西郷さんのようには行かないが(^^
こういう生き方をしていると
誤解されることも多々あるが・・・

何を言わんとしているのかを
深く理解して下さる人には
奥深く響くように心がけている
後日になってから
「あのときの言葉とは
 こういう意味だったのですね」
と後日にお応えいただける方も少なくない
そのたびに、「良かったぁ」と嬉しくなる

ハウツーとか簡単にとか安易なものとか
そうしたものを求める方には
厳しいかもしれない。

今すぐに分かっていただくことより
自分で目を開けていただいた後に
理解していただくことを
大切にしていただいているから。
目先よりも根本という視点。
これは人生を深めてくれる。

目先のものよりも
根本的なところまで考える

師匠から徹底して教えられたこと。

そして信じる宗教は異るが
D大学のO教授やT元教授の言葉や生き様から
学んだ大切なモノ。
お二人はどういわれようと
お二人は我が心の師。

目先のものよりも
根本的なところまで考える

光がほしい時こそ
大切な言葉

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