国会な以外の騒動を経験したのならば、より国家が大人となるように進んで欲しいですね
B「アウフヘーベンを忘れていないか?」
上記二題を扱う雑記です。
周りの大人は彼らの言葉を褒めて煽るばかりで、実態を見つめていませんでした。
若者のリーダーが居ました。言葉巧みに自分さえも酔っていました。周りはそれに言い返すだけの器量がありませんでした。
彼のことばは私には、全く染みこんできませんでした。
よく見つめてみると若者たちはじつはまとまっていませんでした。
周りを見渡すと、最も若いけれどもリーダーにむいている女性が居ました、私は事務方の若者一人に相談を持ちかけクーデターを図りました。そこでリーダーが入れ替わり、最も若い女性がリーダーになり、とても良い流れとなってボランティアの大会は成功に導かれました。
私は大会の後も若者をお寺に招いていろいろと話し合いました。元のリーダーも新たなリーダーも区別なく付き合っていきました。しかし元のリーダーは詐欺に近い行為をし始め、私は他の若者を守って、元のリーダーとの付き合いはやめました。私は良い点はほめることもありましたが最後まで彼を単純に褒め称えることだけはしませんでした。
今回の国会内外の騒動を観ていてその時のことが思い出されました。
多くの人が一部の学生を褒め称えています。しかし彼らを無条件に褒め称えるよりも、委員会に招いた大人のほうが大人であったように感じます。
それでも今回の改正に賛成派の学生は呼ばれていません。これはあきらかに問題ありです。
相手方の意見も受け止めることができる、リーダーとして優れた人はもっと他に居たはずです。賛成派も反対派も、どちらもがまずは学生同士で、若者同士で話し合える場を設けるのが大人の役目であったように思います。
今回の大人はその義務を怠りました。だからこそリーダーとして中途半端な人が表に出てきてしまいました。
彼のことばに感動したという人は、本当に自分自身で考え、状況を見極めたのでしょうか?彼の発言が一方的であったことになんの違和感もなかったのでしょうか?
おそらくは多くの大人が若者たちとまともに付き合っては居ないがゆえに、表面上の付き合いをしてしまうがゆえに彼らを祭りあげてしまうのではないでしょうか。
どちらの陣営も、もっともっとしっかりとお互いに相手を見つめ、あのような場ではなく、公開の場でディベートすべきではなかったのでしょうか。
私は今も若者たちと話し合っています。
B
さて、一連の出来事を見ながら感じたことは以下のとおりです。
国際情勢の中で、大きな丸も小さな丸もない難問の回答をするときに、大きなバツを選ぶか・小さなバツを選ぶかは政治家の判断によるものだとも理解しています。
結論を出さねばならない時、批判を甘んじて受けるが、国家として大きなバツだけは選ぶことができない、これは認めたくなくとも認めざるをえないと考えています。なにが大きなバツか、何が小さなバツかも、立場によって異なるので、ここは難しいところですが、政治家は決断をする役目なので批判を受けるのも仕方がないし、決断を断行せざるをえないのも仕方がないでしょう。
こうしたことを批判する人が居て、反対する人が居て、決断する人がいるのは、社会として健全だと感じます。どこかの国は反対も批判も許されていないのですから。
Yes派もNo派も、いずれにしても自分の意見を押し付けるだけで、相手の意見を聞き入れるだけの度量がないように思えます。私は今回の出来事は日本にとってとても良い経験をしていると思います。より良き国を作るために反対意見を寄せあい、それをどう処理していくのか、ここが問われているように思います。
アウフヘーベンしていってほしいものです。
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