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2015年9月27日 (日)

茄子料理から教えられる

昼と夜、共に外食。法事のお斎と、旧町名の会。共にお茄子が出ました。秋茄子。嫁に食わすなというほど絶品だけれども身体を冷やすとも言われます。季節感あふれる食材ですが、料理の仕方で味は異なるもの。当たり前のことですが、食の生かし方も色々あるもの。守ること一つに決めるばかりが大切なのではありませんね。

一つのものでも色々な展開があり得る

いろいろなものでも実は一つのものの展開でもある

旧町名の会で講師の木村さんが示してくださった 「一体全体 」と茄子料理が妙に一致し 、この言葉が、一即多 多即一 または一門普門 普門一門 などなど密教のキーワードと同じなんだと知れて、とても嬉しく感じました\(^o^)/

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2015年9月26日 (土)

まずは身近な法事をできる限り大切にしたいものです。

今日はお檀家のお茶の先生のお子さまの十七回忌。突然の娘さんの逝去で、あの時の先生は居た堪れませんでした。
その時のことを思い出しながら懇ろに追福菩提の法事をおこない、そのあとはお斎。美味しくいただきました。
ご家族との対話、こうした機会が最近めっきり減ったと言います。葬式だけで終わりというものも少なくありません。
故人の見える肉体の命は亡くなっても、見えない命をそれぞれの中で活かしていくのは残された子孫や親戚・知己のつとめではないかと思います。
先人たちが先祖供養の法事を綿々と続けてきたのも、意味があるなぁと最近はよく感じます。
明治や戦後になり、面倒だからと端折ってきたものの中に大切な宝は少なくないのではないでしょうか?
まずは身近な法事をできる限り大切にしたいものです。

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アメリカ人が信じる日本人を、私も日本人として信じています。

アメリカの外交に大きな影響力を持つ雑誌。かなり冷静な分析がされています。全論文を読むには有料ですが、一部分や見出しだけでもかなり勉強になります。ここに書かれていることがアメリカの真意であるかどうかは分かりませんが、少なくともこうした視点を持ってに本を見ていることも事実です。
日本人よりも日本人を信じているのがアメリカ合衆国に影響を及ぼす学者さんたちとはなんともやりきれません。
私たち日本人が、今後何らかのブレーキを見出す必要はあるでしょう。小林節慶応大学教授は、強固に今回の安保問題に反対しましたが、彼は護憲派ではなく、知る権利を憲法に明記することを講演などで述べていました(論文は未見)。私はこの知る権利を憲法の補足条項として記入することが、いろいろなことのブレーキになるのではないかと考えています。それは今まで秘密裏にあったことが数十年後には秘密ではなくなるからです。この知る権利こそ平和への、更には一部官僚の横暴に対する担保になるではないでしょうか?
私のような素人が云々することではないかもしれませんが、工夫の余地はあると思います。そうすれば今よりも優れた道があるのではないかとさえ感じます。
アメリカ人が信じる日本人を、私も日本人として信じています。

http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201510/Gady.htm

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2015年9月21日 (月)

国会な以外の騒動を経験したのならば、より国家が大人となるように進んで欲しいですね

A「若者をしっかりと見つめているか?」
B「アウフヘーベンを忘れていないか?」
上記二題を扱う雑記です。
A
むかしあるボランティアの大会に携わりました。そのとき、学生をはじめとする若者たちが中心になっての動きがありました。

周りの大人は彼らの言葉を褒めて煽るばかりで、実態を見つめていませんでした。

若者のリーダーが居ました。言葉巧みに自分さえも酔っていました。周りはそれに言い返すだけの器量がありませんでした。

彼のことばは私には、全く染みこんできませんでした。

よく見つめてみると若者たちはじつはまとまっていませんでした。

周りを見渡すと、最も若いけれどもリーダーにむいている女性が居ました、私は事務方の若者一人に相談を持ちかけクーデターを図りました。そこでリーダーが入れ替わり、最も若い女性がリーダーになり、とても良い流れとなってボランティアの大会は成功に導かれました。

私は大会の後も若者をお寺に招いていろいろと話し合いました。元のリーダーも新たなリーダーも区別なく付き合っていきました。しかし元のリーダーは詐欺に近い行為をし始め、私は他の若者を守って、元のリーダーとの付き合いはやめました。私は良い点はほめることもありましたが最後まで彼を単純に褒め称えることだけはしませんでした。

今回の国会内外の騒動を観ていてその時のことが思い出されました。

多くの人が一部の学生を褒め称えています。しかし彼らを無条件に褒め称えるよりも、委員会に招いた大人のほうが大人であったように感じます。

それでも今回の改正に賛成派の学生は呼ばれていません。これはあきらかに問題ありです。
善悪は別として、私には反対派の学生の言葉が全く心に響きませんでした。自分に酔っているとしか感じませんでした。それは相手方の意見を全く聞く姿勢がなかったからです。あのときのボランティアの大会のことが思い出されるばかりでした。

相手方の意見も受け止めることができる、リーダーとして優れた人はもっと他に居たはずです。賛成派も反対派も、どちらもがまずは学生同士で、若者同士で話し合える場を設けるのが大人の役目であったように思います。

今回の大人はその義務を怠りました。だからこそリーダーとして中途半端な人が表に出てきてしまいました。

彼のことばに感動したという人は、本当に自分自身で考え、状況を見極めたのでしょうか?彼の発言が一方的であったことになんの違和感もなかったのでしょうか?

おそらくは多くの大人が若者たちとまともに付き合っては居ないがゆえに、表面上の付き合いをしてしまうがゆえに彼らを祭りあげてしまうのではないでしょうか。

どちらの陣営も、もっともっとしっかりとお互いに相手を見つめ、あのような場ではなく、公開の場でディベートすべきではなかったのでしょうか。

私は今も若者たちと話し合っています。


B
さて、一連の出来事を見ながら感じたことは以下のとおりです。
自分の国の総理大臣や政治家たちを説得できない人たちが、外交で他国と対等な平和外交ができるのでしょうか?この質問に答えている人はどこかにいるのでしょうか?
一方では、法律家・法律学者が憲法を順守し法治を守ろうとする姿勢は理解できます。この安保法案を認めてしまうと、法律はどのようにでも解釈できることになってしまい、法律家の基準までもが狂ってしまうからです。法律家の方々が今回の安保法案に反対するのは当然でしょう。

国際情勢の中で、大きな丸も小さな丸もない難問の回答をするときに、大きなバツを選ぶか・小さなバツを選ぶかは政治家の判断によるものだとも理解しています。

結論を出さねばならない時、批判を甘んじて受けるが、国家として大きなバツだけは選ぶことができない、これは認めたくなくとも認めざるをえないと考えています。なにが大きなバツか、何が小さなバツかも、立場によって異なるので、ここは難しいところですが、政治家は決断をする役目なので批判を受けるのも仕方がないし、決断を断行せざるをえないのも仕方がないでしょう。

こうしたことを批判する人が居て、反対する人が居て、決断する人がいるのは、社会として健全だと感じます。どこかの国は反対も批判も許されていないのですから。

Yes派もNo派も、いずれにしても自分の意見を押し付けるだけで、相手の意見を聞き入れるだけの度量がないように思えます。私は今回の出来事は日本にとってとても良い経験をしていると思います。より良き国を作るために反対意見を寄せあい、それをどう処理していくのか、ここが問われているように思います。

アウフヘーベンしていってほしいものです。

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2015年9月19日 (土)

山本太郎議員の横暴 宗教者としてこれは看過できない。冗談でもゆるされない

山本太郎議員が「安部総理は死んだ」と
まるで北斗の拳のような発言をし
喪服で国会の本会議場に行ったそうです。
目を疑いました。
山本太郎議員、喪服で総理に合掌

絶対やっちゃいけない行為!

本気だろうが冗談だろうが、
やって良いことと悪いことがあります。

あそこでアーメンなんてもしやったら、
キリスト教の人たちは
どのように想うでしょうか?

こうしたことを子どもたちが
真似をしたら
どういうことになるのでしょうか?

大人は大人として
こどもの範となるように
特に国会議員は本会議場では、
範となる行為が
自ずと求められているのでは
ないでしょうか?
それが民意によって選ばれたものの
役目ではないでしょうか?

今回の一連の出来事は
静観するつもりでしたが
これは見逃せません。
冗談じゃない!

一仏教寺院の住職として、
正式に抗議したいと思います。
 ※誰も声を上げないようでしたら
  一週間は様子見しますが
  正式に抗議文を出したいです。

これはやっちゃいけない。

一国を宰る首相への非礼もありますが、
それ以上に仏教に携わるものとして
看過できません。

死者への冒涜

葬祭儀礼への侮蔑

宗教心の欠片も感じさせません。
そういう人がいくら平和を訴えても
それは空虚なものなのでは
ないでしょうか?

心から訴えるのならば
あくまでも真摯に対応することが
国民の胸を打つのではないでしょうか?

こうしたことを停めない会派の人たちは
何を考えているのでしょうか?
小沢代議士は
ここまでトチ狂ったのでしょうか?

いや他の会派の人達も
なぜに停めなかったのでしょうか?

彼を応援している方々には
こうした彼の行為が
彼を象徴していることを
知ってほしいものです。
これを見て喜んでいる人は
大きな暴流に飲み込まれていることを
気づいてほしいものです。

私はこの議決内容の
賛否には言及しません。
しかし、この山本議員の行為は
一宗教者として
看過できないので記します。

尊敬してやまない方が
リンクをシェアされていたものを
私もシェアしました。
紹介してくださったことに
深く感謝します。

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