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2014年11月28日 (金)

準備もまた本番の一部  護摩の準備にての雑感

28日の月例不動護摩の段木や支木をようやく切り終えた。

今から護摩堂に行って掃除をし直し、準備をしようと思う。

護摩の準備をしていると、 お護摩そのものと同じくらい、
その準備が大切であることを実感する。

段木を切る瞬間も真言を唱え、
墨で一本一本塗っている時も真言を唱え、
壇を清めながら真言を唱え、
さまざまな供物を揃えていく瞬間も真言を唱える

信者さんの座の位置を考え決め

洒水をする机を配置するときもまた不動真言。

準備の一瞬一瞬が実は護摩供養そのものであると感じる。

護摩だけではない。
あらゆる準備もまた本番なのだと
この歳になってようやく実感する。

普段は準備不足が目立つ自分を反省しつつ
何事も自ら準備をさせていただけることへ
ようやく感謝できるようになった。

ありがたいばかり。

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2014年11月25日 (火)

松長有慶『高野山』岩波新書を読んで 感想ザックリと

師匠である松長有慶先生の『高野山』(岩波新書)を
読んでのざっとした感想です。

高野山の通史は知っているようで知らないことが多く
良い学びになりました。

改めて感じたのは、真言僧侶とって
高野山の寺院は樹木の幹のような存在。
私たち地方寺院は枝葉。
幹には実は付きませんが
幹が太くなければ枝葉も広がりません。
枝葉は光合成のエネルギーを幹に送り
幹は大地からのエネルギーを枝葉に送る。
お互いがお互いの役目を果たして
一本の木が生き生きとするもの。
高野山のご住職や跡継ぎの方々の
大変さを思い知るとともに
祖山という大地から
私たち枝葉に送って頂いていること
改めて感じました。
実を付けないからと
非難する地方寺院もあるようですが
祖山には祖山の役目
地方寺院には地方寺院の役目があり
その両者が揃ってこそ曼荼羅が成立するもの。
どちらがどうのではなく
共にお互いを思いやって進んで行かなくてはと
改めて感じさせられました。
曼荼羅宗としての心構えを
再認識させていただきました。

また、これ一冊で、案内人ができます。
逆に言うと一般の方々で
この本を読まれている方々がおられることを
私達真言僧は知っておかねばならないとも言えるでしょう。
今以上にしっかりと学ばねばなりません。

真言宗の歴史とも重なりますので
高野山真言宗以外の真言宗の方々にも
ぜひ読んでいただきたい一冊です。

余談ですが来年の1200年の団体参拝時に
参加者全員に配ろうと思います。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004315085…

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2014年11月17日 (月)

剣道に誘われ、お断りした。その時に思い出したことがある。新藤五國光。妄想が妄想ではなかった。

「妄想が、単なる妄想ではなかったと知る」

昨夜の夕食で、あるお医者さまより剣道を誘われた。これで何度目だろう・・・。ふと思い出したことがあった。

高校一年の時、体育の授業で剣道があった。自分で竹刀を購入。他者との取り違いをなくすために、竹刀に自分の名前ではなく新藤五國光と名前を削った。刀剣には前から興味があり、いろいろ見てきたが、その中で最も気にっていた作者の名前である。剣道の授業では負け知らずであった。剣道部にも負けなかった。竹刀や木刀を握ると、自分でも怖がるくらいに自分のも相手のも、その太刀筋が見えた。本当に怖かった。私は授業以外で木刀や竹刀を握ることをやめた。

あのまま続けていれば、多少は剣術家になれたかもしれないし、全く才能がなかったかもしれない。ただ少なくとも、のめり込んでいたのは間違いないと思う。僧侶になった今、剣道をしなくてよかったと改めて感じている。ただ剣道の理論は、五輪書・新陰流の伝書などで少しずつは学んでいた。これらには密教の知識が不可欠であり、むしろ剣術の理論書をとおして密教のあり方を見直すことができたからである。

二年前にびっくりしたことがあった。徳川宗春の愛刀である脇差しが新藤五國光であったことを知ったからだ。しかも徳川美術館で飾られていたその一刀は遠くからでも私を惹きつけていた。新藤五國光で驚き、宗春愛刀で更に驚いた。正直、凍りつくような怖さを感じた。高校生の時に馬鹿げたことに國光の名を竹刀に彫ったのも、実は縁がなかったわけではないし単純な妄想の産物であったわけでもなかった。

また剣術が多少できるとのではないかと思ったのも単純な勘違いで、おそらくは國光を通して、何かとつながっていたからではないかと今は思う。

剣道の理論は大好きだが、実戦は私にはむかない。

単純な妄想も実は妄想ではなく縁のなせるものであったことに、この世の不思議を思わざるをえない。

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