遊歩和尚のつぶやき「何をやっても中途半端。でも中途半端も極めれば・・・。真言末徒で良かった」
遊歩和尚のつぶやき「何をやっても中途半端。でも中途半端も極めれば・・・。真言末徒で良かった」
昔から何をやるにしても、それなりの上の下か、中の上。できないわけでもなく、さりとで優秀でもない。何をやるにしても中途半端といえば中途半端。しかし、それも五十年続けると、今では持ち味になりました。(^^
小学三年生の時、担任の先生ととても仲が良し。周りの生徒から贔屓を超えて認識され、別格扱いを受けていました。変わり者の私のことをよく見ていてくださった先生。その先生から、何度か言われたのが「北川くんは誰もが気づかないことに気づいて物事を始めるけど、誰かにそれを知らせて、誰かがそれを進めると、次のところに移ってしまうよね。これから大人は、最後までやりなさいって言うかもしれないけど、今の自分を大切にしなさい。それがあなたの最大の持ち味なんだから」と。三年生ですから、深いところでわかっていたかどうかは疑問ですが、今思えばその先生の言葉がずっと私を支えてくれました。
ところが、その先生と結婚された五年の担任(浄土真宗のお坊さん?)からは「お前はいつも最後までしないなぁ。そんなことをしてると、いつも成果を誰かに取られるぞ。最後までしあげるくせをつけなあかんぞ」と何度も。これもまた真でした。ただ誰かが成果を持って行くことが何が悪いのか、今もって私には分かりません。
中学二年生の時の担任も、またよく私を見ていてくださった数学の先生でした。「誰よりも最初に気づいて始め、誰かにそれを譲ってしまう。損することが多い人生かもしれないけど、気にするな。それがお前の良さだ。天は必ずお前を見ている」と。
母方の祖父兄弟姉妹の影響だと思うのですが、「世間で言われている通説を素直に信じるな」と子供の頃から叩きこまれてきました。そのおかげで、特別に優秀でもないにもかかわらず、変わったことに気づく癖が出来上がりました。
そしてなによりも、師匠が通説を疑う「ちょっと待て」ということを学生時代に叩き込んでくださいました。
ありがたいことに才能あふれる多くの方々のおかげで、僧侶として大切な視点を、より広く持てるようになりました。今も、優秀な学者の方々からお教えいただくことが少なくありません。
自分は決して優秀な人物ではありません。だからこそ、何かに飛び抜けた才能がなかったからこそ、こうして今があるのだと最近強く感じます。そして、気づく(budh)ということが人一倍多いのは仏教者としてありがたいこと。Buddhaとはbudh目覚め・気付きの派生語。仏教は気づきの教えという意味もあるからです。
中途半端もまた持ち味、欠点も視点を変えれば欠点ではなくその人の個性。曼荼羅の教えを実感できるのも、こうした欠陥に満ちた人物だから。これも如来の慈悲なのだと感じます。
また、如来も一人ではなく、あらゆることにいろいろな道や役割のあることを伝える真言宗の教え。出会えたこと、そのものに本当に感謝しています。
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