超宗派という甘い言葉に注意 時には薬に時には毒になりえます
ちょうど一年ほど前に、ある方が
「全仏教の宗派が亡くなり一つにまとまれば良いですね」
と言われ、それに何人かが賛同されることがありました。
すかさず私はそれに疑問を呈しました。
「一つにまとまるとは魅惑的な言葉ですが
それこそ他者を否定する狭い考え方ではないでしょうか?
宗派があるのは
人には縁や個性があるからと思うのですが
いかがですか?」と。
弟弟子が超宗派のNPO活動をしています。
とても尊い行動だと思っています。
古き知人の某宗派の宗務総長さんが中心となって
地方の神社やお寺を繋ぐネットワークを組まれました。
これもお互いに繋がって行く貴重なあり方です。
一定のテーマに向けて、
色々な考え方をしている方々が集まるのは
大切なことだと思います。
ところが、形式だけ真似て
なんでも超宗派が良いと勘違いしている方々も
少なく有りません。
教えには相性があり縁があります。
合う人もいれば合わない人もいる。
それを無理やり合わせるのは考えもの。
特になんでも超宗派としたり
なんでも一つという考え方の後ろには
一神教的な一つにまとめて支配しようという意図が
見え隠れしています。
このような考え方は
日本には合わないはずなのですが・・・。
一例を挙げますと、
真言宗は多種多様な如来や菩薩を大切にし
人それぞれにあった仏菩薩があり得るとする立場です。
一方、浄土真宗は阿弥陀一筋。
浄土真宗のような考え方を真言宗に持ち込むと
真言宗の教えが矮小化されてしまいます。
真言宗のような考え方を浄土真宗に持ち込むと
浄土真宗は蓮如さんを否定しなくてはならなくなります。
もしくは自分の宗派の考え方を捨て
第三の教えを建立しなくてはなりません。
寺院は各宗派や地域により異なってくるもの。
それを全国マニュアル化したり
なんでも一律に行おうという動きは
気をつけ無くてはならないように思えます。
十人いれば十の顔があるのと同じように
宗教もまたそれと同じようなもの。
このことは忘れてはいけないように思います。
なんでも一つにまとめようという動きには
気をつけていたい、
例を挙げれば、坊さんのあり方とか、
お寺の経営とか、
そうしたテーマで超宗派をすることには
大いに疑問を有しています。
僧侶も寺院も、宗派の教えがあって成り立つもの。
各別であるからこそ、成り立っているはず。
そうしたものを一つにまとめて考えていくことに
違和感があるのです。
魅惑的な言葉には気をつけていたいですね。
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コメント
超宗派の本質は「違いを認め合う」ってことが肝心に思います。
>なんでも一つという考え方の後ろには
一神教的な一つにまとめて支配しようという意図が
見え隠れしています。
このような考え方は
日本には合わないはずなのですが・・・。
私もそう思います。
ただ、互いの許容する範囲を決めて「共通すること」をリストアップして、互いに認識するって作業は大事に思えます。
「私の宗旨では強くないから、コレコレの宗派にいってみたら?」
と言い得るようになるのが、日本式「超宗派」の在り様の根幹に思えます。
失礼しました。
再見!
投稿: 忠武飛龍 | 2013年3月 4日 (月) 10時34分