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2013年1月25日 (金)

明治維新の功罪を見なおす必要を感じる

維新の会が設立されるなど、明治維新を称賛する声は多い。
明治四年から五年の動きを見つめると
維新という言葉の称賛は
一部の官僚たちが仕掛けた罠であることが見えてきます。
明治四年
・廃仏毀釈の徹底
 (太政官布告で寺社領上知令が布告され、
  境内を除き、寺や神社の領地が国に没収される。
  国による簒奪?)
・廃藩置県の断行
・民部省が廃止され大蔵省に吸収合併(本来は民部省が上位)
・文部省の設置
・散髪脱刀令布告
・普化宗の廃止
・岩倉使節団の欧米への派遣
明治五年
・学制の公布と発布
・田畑永代売買禁止令(土地永代売買の禁)廃止
・陸軍省・海軍省設置
・神祇省が廃止され、宗教統制をする教部省が設置
・僧侶の肉食・妻帯・蓄髪が許可(むしろ強要された)
・改暦ノ詔書並太陽暦を頒布:グレゴリオ暦の導入を布告
・神武天皇即位紀元制定
・徴兵令
次々と新たな制度が敷かれていき、
そのために上意下達の官僚制度が堅固になっていき
一方では江戸時代は全否定されていきました。
そして明治維新を全面肯定をするように
歴史は改竄されていったの

です。
明治維新で日本が失ったものは少なくありません。

南方熊楠等はそれを強く訴えましたが
ほとんどが無視され、維新は一層強固に行われて行きました。

そのツケが今になって現れているのではないでしょうか。
官僚はとても優秀な人達の集まりであるにもかかわらず
権力闘争が行われ、本当に必要なところは無視され
内部組織を守るために、本当に有能な人材が潰されていっているようです。

特に、民部省が大蔵省に吸収合併されたことは
今の日本の官僚支配の元凶の一つのように感じます。

廃仏毀釈は、仏教を骨抜きにするのみならず
神道も古神道から国家神道へと変貌してしまいました。

改暦も日本人から季節感を奪ってしまいました。

もちろん、明治維新により救われた人も少なくありません。

江戸時代が良かったという気はありませんが
明治で捨て去られたものの中に
ほんとうに大切なモノが少なくないように思えます。

明治維新の功罪をもっと明らかにする必要を感じています.

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2013年1月22日 (火)

江戸時代 知らないことがいっぱい

江戸時代の研究をし始めて知ったことが幾つもあります。

江戸時代の「てんのう」とは、「スメラミコト」つまり「天皇」で

はありません。殆どの場合が「天王」つまり牛頭天王のことで厄神

様のことでした。明治維新により、天王が破却または改名させられ

た例が少なくありません。

江戸のグランドデザインを施した人物、天台宗の天海です。目白・

目黒などの五不動を配置し結界を張りました。また日光や寛永寺も

鬼門封じです。東海道五十三次も華厳経の入法界品の善財童子が学

んだ師匠の数にしたがったものにしています。江戸城から民間にも

広がった五節句も天海が決めたものだそうです。この五節句は厄を

封印して善きものを導き出す行事。明治維新により天海が作り上げ

た結界や厄封じは全て解かれてしまっています。

江戸時代の大名は基本的に何をしていたのか。政務は家老たちとの

合議ですが基本は家老が摂っていました。では大名の役目は何か?

一つは血を繋ぐことです。親戚同士の結婚は当たり前で、むしろ親戚同士で結婚をしていたと言っても良いと思います。まるで英雄であった先祖の地を色濃く残したいという思いがあるようにさえ感じます。公家との婚姻も相当なもので、系譜を作るとその複雑さにびっくりするほどです。大名のもう一つの仕事は祭祀です。五節句や嘉祥頂戴・玄猪などの儀式を司り、先祖礼拝をする。一年ぽうちほとんどが祭祀祭礼を行なっているのはあまり知られていません。

天海の影響もあり、天皇に連なる法親王が日光東照宮輪王寺の門跡

となり、江戸時代の僧侶のトップであったことは意外と知られてい

ません。その輪王寺の門跡が上野東叡山寛永寺の貫主を兼務し、輪

王寺宮と呼ばれ、普段は寛永寺に住居し、多くが天台宗の座主でし

た。そして江戸時代の大罪人の赦免を願い出ることができる唯一の

存在だったそうです。これは江戸時代の常識なのですが、受験で日

本史を学んだ人でもこれを知っている人は多くないと思います。一

部のマニアや学者のみが知っていること。

日本史では大名を、親藩・譜代・外様と分けますが、江戸城内でそ

のように分けられた例はほとんどありません(少なくとも私は披見

していません・・・)。前田・島津・伊達・浅野・池田・黒田・島

津・毛利・鍋島・蜂須賀・山内などの大大名に関しては、江戸時代

の公式記録『徳川実紀』の中では全て松平姓として記録されていま

す。多くが、将軍家や御三家・さらには福井や会津・高松等の徳川

親藩家と婚姻を結んでいることも注目に値します。しかし、学校の

歴史の中ではこうしたことは教えられません。

江戸城内での格式は、基本的には家柄よりも官位で座る位置が決め

られていました。どの部屋の何枚目の畳に座るのかも、官位によっ

て決められていたのです。この武家官位は公卿の羽林家という家柄

に準じて昇位します。この官位を理解するのに少し時間がかかりま

す(^^;そのためか官位に手を出す学者はそれほど多くはありま

せん。

ここに載せたのはほんの一部。お餅はひと月ひと月でいろいろな種

類のものがあったとか、そのほか江戸時代の常識は今ではすっかり

失われてしまいました。もちろんあのような身分制度のはっきりし

た時代は問題がありますし、不自由な点も多々あります。明治維新

によって解放された面も少なくありませんが行き過ぎて大切なもの

まで捨て去られたことも忘れてはならないように感じます。

江戸時代を学び、明治維新で捨て去られた大切なモノを取り戻す、

どうもそれがしばらくの私のテーマのようです。あ、もちろん学者

ではありませんので、実践第一主義で行きたいと思っています。

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2013年1月21日 (月)

京商売と近江商売・・・

あるとき、聞いたお話です。「京商売と近江商売」というお話だったと思います。
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通りを挟んで二軒のお菓子屋さんがありました。共に百年ほど続いた老舗でした。

通りの左のお菓子屋さんは、どんなに行列が並んでも一日に二百個以上を作ることはありませんでした。「これはうちの家訓ですから。一見さんではなく、毎日来てくださる方を大切にしたいので。」という理由で、どんなに並んでいても、毎日毎日二百個のお菓子を続けて行きました。

一方、通りの右側のお菓子屋さんは、それまで毎日二百個だったお菓子の数を、前日並んでくれた全員が買えるだけ見込んで数を作るように方針を変えました。「望まれるお客様皆様に買っていただきたいから」という理由でした。

五年後、左のお菓子屋さんは相も変わらず主人自身が一日二百個を作り、毎日行列が並び売り切れていました。一方、右のお菓子屋さんは、全国からの注文も受けるようになり二千個ほど作るようになり、全国規模で売るようになっていました。ただ一人で作れる数ではなくなったために職人を多く雇うようになっていました。

五十年後、左のお菓子屋さんは代が変わっても主人が二百個を作り、毎日行列ができて売り切れていました。一方、右のお菓子屋さんはなくなっていました。

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このお話だけでは善悪は判定できません。右のお菓子屋さんは儲けて別の事業に移っていったのかもしれませんし、逆に見込み違いが生じて潰れてしまったかもしれません。同じ物を続けることが大切なのか、時代に合わせて変化させていくことが大切なのかは、場合場合によって異なってきます。固定客を大切にするのか、一見さんさえも大切にするのかは、これも正しい答えはありません。この寓話を作られた方の意図は感じますが、どのように捉えるのかは、自分次第だと私は感じます。

ただし、作者がこの寓話で言いたかったことは今の日本にとって、とても大切なことのような気がします。ですからここで紹介をしました。

いかがでしょうか?

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