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2012年3月15日 (木)

力をもってすると駄目。何でも力を入れぬでも済むコツがある 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

力をもってすると駄目。何でも力を入れぬでも済むコツがある
 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

通春(宗春)は母の見舞いという名目で二ヶ月間江戸を離れている。
そこで、蟄居謹慎させられた兄通温を見舞うという設定にした。

通春は名古屋に戻り、蟄居謹慎している兄の安房守左少将通温を訪ねる。

松平通温:  「おお、主計頭か?元気か?」

松平通春:  「兄上、お久しぶりでございます。すっかりお元気そうで。」

松平通温:  「まぁこの屋敷からは出られんからのう。それにここには酒も女もない。まるで坊主のような生活じゃ。されどな、酒が抜けると、なんと己がたわけだったかよくわかる。今は庭の花を愛で、木刀を振る毎日じゃ。おかげで見てみい、この身体。」

通温は上半身裸になり、筋骨隆々の姿を通春に見せる。すると、通温の見張りの者が

見張り役:  「安房守様は、私どもが三人がかりで動かぬあの庭の石も、お独りで軽々動かされまする。」

と庭の石を指さして言われますと、通春は驚く。

松平通春  「あの石をですか?」

松平通温:   「力をもってすると駄目じゃ。なんでも力を入れぬでも済むコツがあるもの。今はそれがよう分かる。兄上の、圓覺院様の言葉をもっと早うから学ぶべきじゃった。こうして金の鯱を見ておるとな、権現様が尾張藩を敬公に任せられた意義もわかってきた。尾張は決して将軍位を争ってはならぬ。われら連枝は宗家を支えることこそ使命。それを超えると宗家が滅びかねぬ。今となっては何もかも遅いがのう。」

松平通温:  「兄上。」

松平通春:  「そなたには随分とひどい事を行ってきたものよのう。それでもそなたは何時も兄として私を奉ってくれた。感謝するぞ。まぁこれも幕閣に祀り上げられ調子にのっておった私への天罰よ。」

通春と通温は、夜が更けても子供の頃の話など、長く話をした。ふたりともこれが今生の別れとも知らずに。

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2012年3月14日 (水)

四端の心 理に走らず情を知れ (by 伊藤東涯) 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

四端の心 理に走らず情を知れ (by 伊藤東涯)
 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

通春(宗春)は、享保十三年に母の見舞いということで名古屋に戻ったという事実が幕府の記録に記載されています。その間二ヶ月間。少し時が長すぎるので、私は通春は今日へ足を伸ばした設定にしました。というのも、通春が可愛がっていた姪の三千姫(兄し吉通の長女)が京の九條家に嫁いでおり、夫をなくして後家になったばかりだからです。しかも朝廷では、近衛家と霊元法皇が対立し、京がざわめいている時でした。こうした時に通春がおとなしくしているとは思えなかったので、こうした設定にしたのです。後に宗春の奥女中として最期まで仕えた猪飼いずみとはこのとき九条家で知り合ったことにしました。そのいずみの歌仲間である冷泉宗家と共に島原遊廓に行き、大橋太夫と出会い、大橋太夫から清華家の花山院常雅を紹介され、その常雅から伊東東涯を紹介されたという設定です。

特に冷泉宗家には嶋原遊廓を案内される。嶋原では、大橋太夫を紹介される。通春は、大橋太夫の教養と芸の深さに驚く。吉原と異なり、町人は男女を問わず、更に遊女も鑑札があれば出入り自由。遊女といえども一人の人間。そのような嶋原遊廓のあり方に興味を得る。また、大橋太夫の紹介で、清華家の花山院家当主常雅とも知り合う。常雅は、伊藤東涯様に私淑し、通春に東涯を訪ねるように紹介する。通春は翌日に伊藤東涯を訪ね、学問の根本について語り合う。

伊藤東涯:  「朱子学は大変良くできた学問ですが、少々理に走る所があります。新井白石殿にそれをお伝えしたのですが、ついに分かってもらえませんでした。人には情というものがありまする。孟子はその情を大切にされ、四端の心を説かれました。ご存知ですか?」

松平通春:  「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり」

伊藤東涯:  「ほほう。よう学問をされて居られますなぁ。」


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2012年3月13日 (火)

白牛について 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

白牛について 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

宗春(通春)は、名古屋で白牛に乗るのですが、実はインドから白牛を輸入したのは吉宗で、安房で放牧したという記録があります。その乳を好んで飲んだそうです。その事実から、通春と吉宗のやり取りを設定してみました。

ある日、通春は江戸城に登城。すると黒書院前の廊下に、将軍吉宗が、老中松平乗邑と、御側御用取次の加納久通と共に庭を見ていた。吉宗は通春を見つけ、側に呼ぶ。

徳川吉宗:  「主計頭殿、天竺より珍しい動物が参りましたぞ。」

松平通春:  「白牛のことでございましょうか?」

徳川吉宗:  「既に耳に入っておるようじゃなぁ。」

松平通春:  「吉原でも大騒ぎでございまする。+」

横で乗邑が、その言葉を制するように咳払いをする。通春は、乗邑の顔色を伺い、さっと話題を元に戻す。

松平通春:  「上様は何故に白い牛を?」

徳川吉宗:  「そなたは、酪・酥・醍醐をご存知か?」

松平通春:  「仏教の経典に記してあるものでありますれば。」

徳川吉宗:  「まさにそれじゃ。酪も酥も醍醐も美味であるには違いないが、それ以上に身の健壮を保つよい薬と聞いておる。それゆえに、日の本や清の牛ではなく、経典の記された天竺の牛を求めたのじゃ。」

松平通春:  「なるほど。」

徳川吉宗:  「そなたは、白牛を見て何を思った?」

松平通春:  「昔より白牛は神話の動物でございまする。法華経の家宅の喩えの白牛もありますし、閻魔天の乗り物、菅公(菅原道真)の夢の話、毛利の萩の伝説や、磐城平の石の伝説、その他にも僧侶が白牛に乗っていたり、『露地白牛を蔵し、長空日月を呑む』という禅語もございますれば、とても意味ある生き物かと存じ上げます。」

松平乗邑:  「既に白牛を牧す地として安房を選んでおりまする。」

と口を挟む。通春は笑顔で

松平通春:  「着流しを着て、長煙管でもふかし、白い牛に乗りゆったりと歩みたいものです。」

松平乗邑:  「そのような武士にあるまじき姿を」

松平通春:  「将監殿。前田家初代の大納言様をご存知ですか?」

松平乗邑:  「いかさま。」

松平通春:  「あの方は若い頃は、女性物の襦袢を着て、練り歩いたそうでございます。大納言様の武勇にあやかりとう存じまする。」

松平乗邑:  「上様が食される乳を出す牛に乗るなど、とんでもないことではございませぬか。」

徳川吉宗:  「わしも白牛に乗ってみたかったのじゃが。」

松平通春:  「ほんとうは、間もなく来るという象に乗りたいと思っておりまする。されどそれは難しゅうござるので、白牛ならば可能かと思いましたが、やはり無理でございますか。」

徳川吉宗:  「主計頭殿、済まぬなぁ。そちと同じように象に乗り白牛に乗りたいと、わしも考えたのじゃが、年寄りどもがうるさくてなぁ。」

加納久通:  「こればかりは、と、上様をお止めいたしました。」

松平通春:  「白牛と象は、これより江戸で何かと話題になりましょうほどに。」

加納久通:  「それも吉原での話題でございましょうか?」

と通春に久通が笑って問いかけられると、

徳川吉宗:  「ワハハハハハ。これは遠江の勝ちじゃ、のう主計頭殿。」

それを乗邑が制するように咳払いをする。

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2012年3月12日 (月)

何事も伝聞のまま信じるのではなく、自分で確かめる 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

何事も伝聞のまま信じるのではなく、自分で確かめる
 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

歴史書では、山下幸内が、紀州藩の浪人として当然居たものとされるが、
私の拙い研究では、彼の実在を認める文献が見いだせなかった。
それゆえ、山下幸内は吉宗の一人芝居ということで設定した。

九月、青山に住む紀州浪人山内幸内が、
目安箱に吉宗様の政策を批判する訴状を入れたというできごとが起きる。
訴状の内容は、
「紀州藩主と将軍とは立場が異なる、質素倹約では庶民が成り立たぬ」
という吉宗の政策への批判文章であった。
吉宗はその率直さを認め、それを十一月二日に書き写させ、各奉行に配布させた。

これを聞いた通春(宗春)は不思議に感じた。
吉宗ならばその様な浪人を放っておくことなく、然るべき地位につけるであろうこと。
紀州の浪人であったのならばなおさらと思い、
自分で青山に出向く。
ところが山下幸内なる人物は青山に居らず、通春は驚く。
通春は、その夜に南町奉行大岡忠相の役宅に出掛ける。。

松平通春:  「越前殿、青山に行ってきました。」

大岡忠相:  「既にお聞きになられていましたか?山下幸内のこと。」

松平通春:  「お奉行たちはご存知のようですな。あれは上様の一人芝居で御座いますな。」

大岡忠相 : 「ははははは、主計頭様は流石でございますなぁ。何事も伝聞のまま信じるのではなく、御自分で確かめに行かれる。」

松平通春:  「もしあれを書くものが居るならば、私が召抱えます。上様は、自らを嗜めるために、幕閣を嗜めるために記されたのですな。そのうえこういう批判もあるであろうが分かっておるぞという事にもなりますれば。」

大岡忠相:  「いかにも。されど、あのような考えがあることを知っておらねばなりますまい。あの考えは、主計頭様が上様に常日頃申されていることではありますまいか?」

松平通春:  「ははははは。越前殿、どうやら我々二人も上様の掌の上のようでございますなぁ。されど越前殿、あまりやり過ぎないようにな。」

忠相と通春は互いの顔を見て笑う。しかし、通春の思いとは反対に、十日後、幕府は九十六業種に渡る商品価格の統制をし、新規の商品の禁止、新規の商売の禁止をしてしまう。その三日後に、月が隠れてしまう皆既月食がおき、江戸の町人たちは不安に駆られる。これらの政策も老中や若年寄に献策したのは、山城淀藩主松平左近将監乗邑であった。乗邑は、名門である戸田松平家を淀から鳥羽へ移し、自分がその淀に入ったほど、政治力に長けた俊才であった。

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2012年3月11日 (日)

質素倹約ばかりでは民は生きられぬ。この世は祭り!(by紀文) 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

質素倹約ばかりでは民は生きられぬ。この世は祭り!(by紀文) 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

今回は、紀伊国屋文左衛門が深川富岡八幡宮に金の神輿を三基奉納したという事実に基づき、
そのお祭りに通春(宗春)が訪れ、対話するという設定です。
晩年の紀伊国屋が自分の思いを通春に託し
通春は、その思いを自分の中で生かしていく前触れの内容です。

その年、享保三年八月十五日、深川富岡八幡宮境内に紀伊国屋文左衛門殿が金張りの神輿を三基奉納する。神輿祭と呼ばれるほど数多くの神輿があつまる富岡八幡宮例祭。

文左衛門:  「紀文最後の奉公じゃ。皆も祝ってくだされ」

と、小判をばらまく。そこへ着流しの派手な姿で、通春が現れる。

文左衛門:  「おお、尾張の麒麟児様のお越しじゃ。より賑やかになって良いのぉ。」

松平通春:  「紀文殿、久しゅうござる。」

文左衛門:  「疱瘡にお罹りになったと聞いておりましたが、お顔には出なんだ様子ですなぁ。」

松平通春:  「運が良かったのですよ。」

文左衛門:  「麒麟児様は病まで上様とは正反対じゃ。ハハハハハ。」

と笑い飛ばすと、通春から離れ、大きな声で叫ぶ。

文左衛門:  「質素倹約ばかりでは民は生きられぬ。それを幕府のお偉方に見せつけるために、こうして最後のご奉公。わしもまもなくあの世へ旅立つによって、金子など持っていても仕方がないからのお。この世のお金はこの世で使えというものじゃ。」

すると周りから「そうだ、そうだ。」と歓声が上がる。文左衛門が再び通春に近づき

文左衛門:  「わしの考えは全て求馬殿、いや主計頭様、三浦屋(吉原の楼閣)で、あなた様にお伝えしてあるゆえ、もうわしは思い残すことはない。わしは主計頭様の中で生きますからな。これだけは奈良屋茂左衛門もできなかったことじゃて。はははは。わしは良い跡継ぎを見いだせた。尾張の麒麟児、主計頭様。」

と囁くと、皆の方を向いて

文左衛門:  「もっと賑やかに神様を盛り上げよ」

と叫ぶ。「ワッショイワッショイ」。通春も着流しの上からはっぴを羽織り、民の中に入って共に御輿を担いだ。「ワッショイ ワッショイ」。通春は紀文の言葉の重みを実感しながら祭りに参加し続けた。

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2012年3月10日 (土)

「絆」にちょっと待った!原意を知って使ってる? 絆から結びへ転換の時では?

‎3月11日を目の前にして、あえて世間の流れとは逆の話を。
高家次公式ブログの内容を改変。

「絆」にちょっと待った!原意を知って使ってる?
絆から結びへ転換の時では?

若い友人たちと話しているときに
「どうも「絆」という言葉に抵抗感があった。
『きず』と『な』だから、
 原意は、いま使っている意味ではないのではないか?
『糸へん』に『半』も気になる」
では、調べてみようということで、iPhoneの『漢字源』をひいてみた。

1)ほだし。きずな。馬の足にからめてしばるひも。
 また、人を束縛する義理・人情などのたとえ。
2)つなぐ。ほだす。しばって自由に行動できなくする。

とあり、ビックリ。予想以上にマイナスの言葉。
仏教で言う、煩悩の極致のような言葉。
いま多くの方々は原意を全く知らず使っている。
これは私たち宗教者や、国語学者の責任でもある。

そこで、少し考えてみた。
「絆」に代わる、日本古来の良い言葉はないかと。

『古事記』を紐解いたらいきなり出てきた。
「むすび」
タカミムスビ・カミムスビの神々
おむすび・むすんでひらいて・・・などなど
日本人の心の奥底にずっと横たわっている大切な言葉。

お互いが手と手を結んで、お互いに助けあう、ここが大切。
まさに曼荼羅、あらゆるものと繋がっている。

言葉は大切。
何でも安易に用いるのではなく。特にシンボルになる言葉は
原意をしっかりと踏まえた上で使いたいもの。

何かに縛られ、束縛される「絆」ではなく
あらゆるものとゆるやかに繋がっている
「むすび」という言葉を大切にしたいもの。

東日本大震災は、大きな災害であったと共に
私たちのこれからをうながす大きなシンボル。
ここでがんじがらめに土地や人に縛られて生きていくのか
お互いが手に手をとりあって生きていく
だからこそふるさとは大切として生きていくのか
どちらを選ぶのかで未来は大きく変わる。

3月11日に犠牲にあった方々を思えばこそ
今の自分や周りを大切にしたい。
絆から結びへ、大きく転換していきたいもの。

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あえて将軍の逆を行う。民のためならばこそ 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

あえて将軍の逆を行う。民のためならばこそ
 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

前回に引き続いて、野駆に来ている八大将軍吉宗と
部屋住ながら御連枝として将軍に可愛がられている通春(宗春)との対話です。
二人は仰向けに野原に寝っ転がっている想定です。


松平通春:  「名古屋のお城の金の鯱は、権現様が自らの大阪を創ろうとしたからだそうです。大阪は太閤の町故に新たな台所を必要とされた由。」

吉宗は驚く。

徳川吉宗 : 「そのようなお考えだったのか。平岩(親吉)殿を犬山におかれたのもその為じゃな。」

と尋ねると、通春様はうなずいた。しばらく沈黙する二人。

松平通春:  「私は全てにおいて上様の逆を行いまする。上様の出来ぬことをすればこそ、徳川一門かと。町中を歩み、庶民の声を聞き、衣装も派手ならば、お金も使いまする。ただしそれは自分の為に使うのではあらず。民のために使おうと存じます。民の喜びのためならばなんでも致しまする。」

徳川吉宗:  「ははは。どちらかが転んでも、どちらかが生き残ることもできようて。まぁ部屋住みのお主にはかなわぬ話じゃが、いつかお主を大名にしたいものじゃ。その時はそなたの思ったとおりにしてみると良い。今の言葉を決して忘れるでないぞ。ハハハハハ、神妙な話はここまでじゃ」

二人とも大声で笑う。
「ハハハハハ」

すると吉宗のお供周りが追いついてくる。

松平通春:  「そろそろ帰りましょうか」

徳川吉宗:  「うむ。今日の話は二人だけのヒミツじゃ。天は聞いておられたがな」

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2012年3月 9日 (金)

上に立つものは常に孤独 自らの道を進め 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

上に立つものは常に孤独 自らの道を進め 
「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

若き宗春こと通春に主計頭という官位を授けた吉宗。
その後も、雁を特別に下賜したり
江戸城内の紅葉山東照宮の参拝に特別に予参をさせたり
母の見舞いに尾張に一時帰国させたり
一度廃絶した梁川藩を復興させたり
藩を継承して一年で日光東照宮参拝を許可したり
兄の義孝を飛ばして尾張藩主を継承させたり
吉宗はどう見ても宗春に目をかけていました。
そこで私は、宗春と吉宗は昵懇であったという設定にしました。

今回は、通春と吉宗が野掛けをしたという設定です。


吉宗と通春は先へ進む。
武蔵野の大きな野原に出るとお二人は馬を止め、野原で仰向けになって寝転んだ。

松平通春:  「上様、いつまでもこうしていたいものですね」

徳川吉宗:  「ほんにそうじゃなぁ。だがそうも行かぬらしい。政も徐々に道筋ができてきた。こうして外駆けすることも許されなくなりそうじゃ。じゃがな、わしはお主とこうして野山を駆け巡るのが何よりも大好きじゃ。この先、どうなっていくかは分からぬ。本来ならば、お主の兄の吉通殿が将軍職に継ぐべきじゃったのだが、何の縁かわしが継がねばならなくなった。吉通殿は、お主のことが大層お気に入りでな。連枝として、亡き摂津守(四谷松平義行)殿のように、常に側に置いておきたいと言っておられた。もし吉通殿がご存命ならば、ワシは将軍職を引き受けなんだ。尾張(継友)殿ではのう。致し方がなかったのじゃ。もし、わしが紀州、いやそなたと同じように紀州の連枝であれば、そなたと毎日のように野駆をし、相撲を取り、狩りをできたものを。」

松平通春:  「亡き兄(吉通)が申しておりましたのは、尾張は、決して将軍位を争ってはならぬと。尾張には権現様から預かった大切な大きな役目がある故と。」

吉宗は少し真剣な眼差しをする。

徳川吉宗:  「そうであったか。尾張の執政(附家老成瀬隼正・竹腰壱岐守)達が積極的に動かなんだと聞いてはおるが、そういうことであったか?」

松平通春:  「私は尾張藩主の亡き兄上のそばで働きとうございました。」

徳川吉宗:  「柳澤殿も同じ考えでなぁ。そうそう、そなたのことを自分の跡継ぎができたと。たいそうお喜びじゃった。されど両人共もう居らぬ。残された者はさびしいのう。」

松平通春:  「上に立つ者は常に孤独ですね。」

徳川吉宗:  「今後、立場上、そなたと、こうして外に出ることも許されなくなるであろう。城中で会っても、話さえ出来ぬやも知れぬ。またときにはわしはお主に厳しく接しなければならぬこともある。商人と仲のよいのお主がいつも言うように、本来は規制を緩めねばならぬのやもしれぬ。米ではなく金子を元にした勘定方にせねばならぬのやも知れぬ。しかし、今のわしはわしの道を行く。お主はお主の信じる道を歩め。」

二人はしばらく天を見つめる。

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2012年3月 8日 (木)

若き日に苦悩する宗春(通春) 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

若き日に苦悩する宗春(通春) 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

実際の若き日の通春(宗春)は順調だったかというと、そうではありません。
尾張藩のプリンスとは言え、末弟であり、
よくてどこかに養子に行くか、それともお控えさまで生涯を終える立場でした。
同い年で、通春よりも四ケ月先に生まれた通温は、17歳で
間部詮房や新井白石に引き上げられ
叔父松平友著や、同母兄の松平義孝を超えて従四位下侍従安房守に任官したのですが
通春は、19歳になる直前でやっと元服、そのときに通温は近衛権少将と昇進していました。
実際に、通春は四代藩主の兄吉通に可愛がられて夕餉を共にしていたと記録があります。
間部詮房や新井白石は、吉通を煙たがっていましたので
通顕(継友)や通温を引き上げ、吉通と連なる通春を軽視したものと思われます。

18歳で江戸に下った通春は直後に、同道した家臣二人が喀血死する事件に巻き込まれます。
その直後に、通春の伯父の梁川藩主大久保松平出雲守義昌が逝去し
義姉九條輔子の実兄の九條左近衛大将大納言師考が薨去し
兄の四代藩主吉通が薨去し、五代藩主となった甥の五郎太が逝去するというように
周りで人がどんどん死んでいくことを経験します。
その年の暮れに、通春は元服して求馬通春と名乗ります。
ここまでは事実です。

物語では、自分を可愛がってくれた吉通の薨去に立会い、慟哭し
さらに甥の五郎太が、何者かに毒殺されてしまって、ここでも激しく憤る姿を描いています。
また九條輔子は、通春の初恋の相手という設定ですので
その輔子が実兄と夫と一人息子を次々と亡くしていき
側に居て何もできない自分に悔しい思いをする通春も描きました。
さらに、翌年に、江島生島事件に巻き込まれる設定にしました。
大奥中老となった江島と、宗春の母宣揚院梅津が
ちょうど同じ頃に江戸の尾張藩邸の腰元であった事実があるので
江島と梅津は二人は顔見知りという設定にし、
その縁で、事件の直前に求馬通春と江島が知り合い、
さらに、生島新五郎とは、本寿院大吉事件が絡んでおり、尾張藩とも縁があり
芝居に入れ込んでいた通春は新五郎とも知り合っていた設定です。
その江島生島事件の穏便な解決に通春が奔走したのですが
兄で六代藩主継友に邪魔をされて、
結果的には悲劇を目の当たりにせざるを得なかったことにしました。

吉宗が將軍になった後も
柳沢吉保の側室で、尾張藩とも縁が深かった正親町町子の逝去を自殺と設定し
その直後に通春が六義園を訪れ、慟哭する設定を設けました。
事実としてこの頃の柳澤家は、甲府藩主。
初代の甲府藩主は、尾張藩の諸祖義直でしたし、
宗春の大叔父(外祖父の実弟)が元甲府藩主というように
尾張藩と柳澤家とは深い縁がありました。
しかも、町子が死んだのは、柳澤家が甲府藩から大和郡山藩に
移動を命じられたその日でした。
そこで、町子が自殺したという設定にし、通春が来て、その死を目の当たりにする設定です。

その他にも、妹の前田家に嫁いだ松姫の逝去や、叔父松平義行の逝去など
通春の周りでは次から次へと人が死んでいき
そこで苦悩と悶絶を繰り返していく設定です。

今後は、吉原で大失敗をする通春も必要かと思っています。

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理屈だけでは人は動かない 人情が人を動かす 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

理屈だけでは人は動かない 人情が人を動かす
「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

前回に引き続き、間部詮房と通春(宗春)の会話

間部詮房:  「主計頭様。そなた若いのによくもそこまで気づかれるのう。」

松平通春:   「私ではござらん。新吉原にも芝居小屋にも、巷には人情が溢れておりまする。その人情が人を動かすのです。理屈だけでは人は動きませぬ。仏教で二つの戯論があることをご存知ですか?」

間部詮房:  「戯論?」

松平通春:  「昨年身罷られた法親王(公辯)様の受け売りでございますが、理屈に走る見論と、情に流される愛論とが二つの戯論でございまする。越前殿の御子孫のために、いやご領地の民のために今後は生きてくだされ。」

間部詮房:  「愛論と見論。白石殿と私は見論に走りすぎたということですな。芝居小屋や吉原、あ、いや、江戸の町民たちにも悪いことをしてしまいました。」

詮房様の言葉に、通春はまた優しく微笑んだ。

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2012年3月 7日 (水)

自らまいた種は自ら刈り取らねばならぬ 正義も悪も相対的なもの「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

自らまいた種は自ら刈り取らねばならぬ 正義も悪も相対的なもの
「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

通春(宗春)が、失脚した間部詮房を訪ねる設定です。
間部詮房は、四代藩主吉通や通春を退け、六代藩主継友を持ち上げ
結果的には吉宗に政争で負け、御側用人を解任されてしまい
そこへ、吉宗によって持ち上げられた通春が訪ねていくという設定です。


間部詮房:  「策を弄しましたのは事実でございます。江島生島の二人に関しては、仕掛けたのは拙者でございますが、いつのまにやら拙者が予想をしていた以上に事が大きくなってしまい、思わぬことになり申した。月光院様の力を削ぐつもりが、大奥を敵に回してしまい、このざまでございまする。継友様を輿に担ごうとしたのは、確かに我が身と我が周りを護ろうとしたからに他なりませぬ。今となっては、上様(家宣)の御遺言通り、圓覺院様に譲って居れば、圓覺院様も、五郎太様も七代様も、もっと長生きされたかもしれませぬ。」
と下を向き語る。通春は穏やかな顔で

松平通春:  「私は目付ではございませぬゆえ、誰かの罪状を暴きに来たのではござらん。明日、お城で越前殿と松平右京大夫(輝貞)殿と御領地を入れ替えるという御沙汰が下り申す。それを伝えに参りました。」

間部詮房:  「なんと。報復か?」

松平通春:  「考え方ひとつでございます。右京太夫殿にとっては元々居た領地に。越前殿にとっては新たな領地に。今後これで右京太夫殿が越前殿を恨むことはございますまい。」

間部詮房:  「自らまいた種は自ら刈り取らねばならぬということですな。どちらにしても、拙者は一能役者の子。大名のままで居られるだけでも、六代様(家宣)のおかげだと思えば、問題はありませぬ。右京大夫殿の心が休まるのであれば、これも一つということでしょなぁ。」

松平通春:  「人は自ら置かれた立場を正義と申します。そしてそれに相対する者を悪とする。それらを別の眼で見ると、正義も悪もないことが往々にしてございます。ただし、地位や御領地、名誉は時には戻りますが、亡くなった命は二度と戻らぬということだけ分かってくだされ。できれば左遷された者、亡くなった者たちのために祈ってくだされば…。」

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2012年3月 6日 (火)

大楽と大欲 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

大楽と大欲 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

通春(宗春)が公辯法親王を訪ね、二人が対話する場面を設定しました。


公辯:    「天台の教えの即事而真という言葉を知っておられるか?」

求馬通春: 「いえ、知りませぬ。」

公辯:    「あらゆるもの、あらゆる出来事が、そのまま真理であるということです。真言でも大切にされておる教えです。」

求馬通春:  「苦しみ悲しむときもですか?」

公辯:    「闇があるから光が分かるもの。ただこれは誰に対しても教えて良いものではなく、自ら考え自ら深めることの出来ぬ者には却って毒になりまする。」

求馬通春:  「そして毒は使い方によっては薬になる。」

公辯法親王は、微笑み、うなずく。

公辯:    「天台や真言で用いる経典に理趣経というお経があります。ご存知かな?」

求馬通春:  「伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)が、決別した理由のお経ですね。」

公辯:    「あれは実際は伝教大師ではなく、圓澄法師だったそうですが、その話は別として、その理趣経の経題は、『大楽金剛不空真実三摩耶経』といって、大楽を説くお経じゃ。これを勘違いした真言立川流を拙僧は徹底的に排除したが、それは大楽の本当の意味が誤解されなようにするためのものでもあった。拙僧はこの理趣経を大切にしておる。」

求馬通春:  「大楽。」

公辯:    「また、大欲を説くお経でもある。」

求馬通春:  「大きな欲ですか?」

公辯:    「大きいといっても、あれより大きいというように何かと比較して大きいというものではない。この大は梵語では摩訶不思議の摩訶という言葉で、絶対的な大きさを意味している。」

求馬宗春:  「絶対的な喜びであり、絶対的な大きな欲。あ、普賢菩薩の虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなむ。」

再び公辯は、微笑んでうなずく。

公辯:    「幕府がどうとか、お家がどうとか、金子が欲しいとか、そうした欲ではないのう。あらゆる人が楽しくあること、常憲院(五代将軍綱吉)殿のように、あらゆる命が大切なものとする、あれこそがまさに大欲であり大楽じゃ。しかし、それを理解する者は少ない。それ故に、生類憐れみの令は全くの誤解されたものになってしまった。多くの者が、あの令の本質に気づけなかったばかりに、お犬様や魚屋禁止など極端になってしまうものじゃのう。今の幕閣も、欲が小さすぎる故、悲しいのう。慈眼大師(天海)のように清濁合わせ飲みたいものじゃ。」

求馬通春:  「法親王様、深く感謝いたします。私も尾張藩とか幕府ではなく、この日の本が、この天下が少しでも良くなるように、一人ひとりの人が、楽しく暮らせるように努めさせて頂きます。まさに大楽を願う大欲で。」

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2012年3月 5日 (月)

自らが人柱となるくらいの覚悟が必要。常に学問と世情の両方で心の鏡を磨き、暗闇に光を当て歩む 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

自らが人柱となるくらいの覚悟が必要。
常に学問と世情の両方で心の鏡を磨き、暗闇に光を当て歩む 
「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

柳澤吉保が逝去前に、通春(宗春)を呼んで対話する設定です。

柳澤吉保:  「今の幕府は何でも理詰めで、理屈で考える。されど人の世は情もありまする。
         大奥は情で動きまする。江島殿をあのようにされては、大奥も黙っていますまい。
         決して理屈だけで動いてはなりませぬ。また情だけで動いてもなりませぬ。」

通春様は吉保の言葉にうなずく。

柳澤吉保:  「赤穂の浪士のこと。切腹を命じられたのは上様(綱吉)でございますが、
         切腹を強く薦めたのは私でございます。世間は情で動きます。
         もしあの者達の罪を許せば、当初は持ち上げられたとしても、
         あの浪士たちは忘れ去られていくか、お荷物となってしまったでしょう。
         だからこそ、あの者達の目に見える命は奪いましたが、
         目に見えぬ形で多くの人々の心に生かせる方法を取りました。
         後悔をしていないといえば嘘でございます。
         四十七人もの命を奪ったのですから、その罪は私が負おうと決意しました。
         政は、迷ったときにどちらに転んでも正しい決断であったことは稀でございまする。
         時には間違い、時には正しく、そうやって動かしていくものでございます。
         しかも理屈だけでものごとを決めると、世間が許しませぬ。
         上に立つ者は、常に自分が人柱になるくらいの心構えが必要でございます。
         あの浪士達、特に大石殿や片岡殿は、自らが人柱になろうと思われたのでしょう。
         (浪士No.2の片岡源五右衛門は尾張藩出身)
         私は片岡殿に流れる、尾張武士の心意気を見ました。
         それが源立公(尾張四代藩主吉通)には深く強く流れておられました。
         そして、そなた様にも。
         人の言葉に左右されるのではなく、自分の心の鏡に移して、
         恥ずかしくない生き方をなされませ。
         学問と世情の両方で心の鏡を磨き、暗闇に光を当て歩みなされませ。
         この後、おそらく紀州(吉宗)様が将軍になられます。
         あの方と共に、歩みなされませ。
         そして紀州様が歩むことができぬ道をお歩みくださいませ。
         それが天下万民のためでございまする。
         この国を宜しくお頼み申し上げまする。」

吉保は通春に深く頭を下げる。通春は、両手で吉保の手を握りしめ、大きくうなずく。

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2012年3月 4日 (日)

海のように広く、敵であっても優しく受け止めよ 「千年先を見つめて(尾張七代藩種徳川宗春物語)」より

海のように広く、敵であっても優しく受け止めよ 「千年先を見つめて(尾張七代藩種徳川宗春物語)」より

前回に引き続き柳澤吉保と語りあう宗春を設定しました。


柳澤吉保:  「石田治部少輔が何故負け、何故権現様が勝たれたのか、ここを見れば一目瞭然ですわい。また権現様は一度失敗をしたからといって、たとえ戦で敵方であったとしても、臣従した者には深い慈悲を示してお出ででした。」

求馬通春:  「我が藩の石河家は、関ヶ原で西軍であったにも関わらず、今では当家の筆頭家老。しかも我が祖母霊仙院(千代姫)は、石田治部殿の縁者。」

柳澤吉保:  「権現様は、豊臣さえ残そうとされたお方です。」

求馬通春:  「なるほど、その喩えは大切ですね。今後、東照宮に赴きましたら、常に海のような広い心を思い浮かべまする。されど処罰を受けた者たちが残念でなりませぬ。冤罪の者が多いだけに、悔しい思いでございます。」

柳澤吉保:  「新井(白石)殿は、二年前に勘定奉行荻原近江守(重秀)殿を追い込み、自害させています。思い込むと何をしでかすや分からぬ。此度の江島殿のこともそうじゃ。策を弄し、人を追い込む。将軍家を護るために自らが悪鬼となる覚悟なのじゃろうが、将軍家を護るとは天下を護ることと考えて居ることが問題でございますな。天下を護ることが将軍家を護ることに繋がる、この視点を忘れておる。悲しいですのう。」

通春は大きくうなずく。吉保は続けて、優しくされど力強く

柳澤吉保:  「その思いを心に秘められませ。内に力を貯められませ。」

求馬通春:  「『大学』の泰平を望むものは修身ですね。」

柳澤吉保:  「さすがに学問が血肉になってきておられますな。世の中は不條理だらけでございます。その不條理を心に秘め、一つでも良くなるようお務め下さいませ。」

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2012年3月 1日 (木)

水清ければ魚棲まず 身の丈にあった遊びは大切 「千年先を見つめて(尾張七代藩主徳川宗春物語)」より

前回、公辯法親王を訪ねた通春(宗春)。
続いて六義園の柳澤吉保を訪ねる設定です。

次に六義園の保山(柳澤吉保)を訪ねた。

柳澤吉保:
 「求馬殿、やっと出てこられましたなぁ。」

求馬通春:
 「お耳に入っていましたか、お恥ずかしい。」

柳澤吉保:
 「わしが城の中にいたらこのようなことは止めておりました。
  人は色欲も食欲もあるものでございますれば、
  身丈にあった遊びも必要でございまする。」

求馬通春:
 「保山殿も同じお考えとはありがたい。されど幕閣は。」

柳澤吉保:
 「水清ければ魚棲まず。
 何もかも理屈で片付けると禄なことはございませぬ。
 ゆるりと柔らかく受け止める器があの者達が居ないのでしょう。」

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