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2012年1月31日 (火)

味噌煮込みのルーツと尾張藩七代藩主徳川宗春卿 雑考

昨夕、きしめんと宗春に関わる何かがないかと質問を受けた。

色々調べてみると、きしめんについては分からなかったが、味噌煮込みのルーツはそうも「ほうとう」なのではないかという情報があった。
「ほうとう」は山梨県地方の郷土料理。
山梨県は江戸時代まで、甲斐といい、甲府を中心に栄えた国。
甲府・・・実は先日書き上げた尾張七代藩主徳川宗春卿が、前半生で甲府と縁の深い人であることが、宗春卿の研究で分かってきた。

六代将軍徳川家宣が、甲府藩主であった頃に、宗春卿の母方の大叔父が甲府藩の宗門改めであった。また、江島生島事件で有名な江島は三河出身(宗春卿の外祖父三浦太治兵衛も三河岡崎出身)で、尾張藩の腰元から甲府藩の腰元になっていた。
家宣が、将軍家の跡継ぎとなり江戸城西之丸に入ると、五代将軍綱吉の御側用人である柳沢吉保が、甲府藩の藩主となる。この吉保は元禄文化の育ての親でもあり、物語では宗春に多大な影響を与えた人物として創作して描いていた。色々調べてみると、吉保の側室の正親町町子は、従一位前大納言正親町公通の妹であり、公通の娘生姫は尾張藩の御連枝で宗春の父方の叔父である川田久保松平友著の正妻であったことが分かった。宗春と友著は吉宗から非常に可愛がられており、生姫と宗春は確実に繋がっている。つまり、生姫と正親町公通を通して、宗春卿は柳沢吉保と実際に繋がっていた可能性が十分にあることが見えてきた。
ちょうど、この甲府藩を調べているときに、あるお葬式の導師をした。その方は、偶然にも甲府出身であった。火葬場で、そのお兄さんとお話をすると、その家は代々柳澤家と縁の深いお寺の檀信徒総代をしてきたことが分かった。宗春卿と吉保が、笑って私を導いているように感じた。
ふと思いだした。甲府は、宗春の曽祖父であり、尾張初代藩主である徳川義直卿の最初の領地である。義直卿は、甲府藩53万国の大名であった。ただ幼いこともあって江戸幕府初代将軍家康のもとで育てられ、義直の御付家老となった平岩親吉が、甲府を実際に差配した。親吉は、義直が尾張藩に移ったときに、犬山10万国の領主となり、尾張藩の初代執政(御付家老)として活躍した人物である。また家康の嫡男であった信康の守役でもあった人物で、家康の最も信頼厚き武将であった。この親吉の官位が主計頭である。宗春が吉宗の推挙で最初に朝廷から頂いた官位が、従五位下主計頭。つまり、宗春の最初の官位が、主計頭であり親吉と同じであった。以下のようなエピソードが『徳川実紀』に記録されている。吉宗がある日、鷹狩に行った。そこで自ら得た雁を、譜代の重臣四人に授けた。その内の二人が、先に挙げた川田久保松平但馬守友著(尾張藩八代藩主徳川宗勝の実父)であり、部屋住みで独立が許されていなかった松平主計頭通春と名乗っていた宗春である。しかも、その時の吉宗から使者として宗春に遣わされた小姓の名前が平岩七之助であった。この平岩七之助は、平岩親吉の幼名であり、親吉の後継が途絶えたことを哀れんだ幕府が旗本として、その名を復活させていた。このことを考えると、吉宗は、宗春に平岩親吉を重ねあわせていたように思われる。このエピソードでも、なにか面白いドラマが描けそうである。
おそらく、「ほうとう」が、平岩親吉またはその周辺によって尾張に持ち込まれたのであろう。そこに尾張や三河、さらには甲斐出身の武将たちが大勢居る尾張藩であるので、白味噌に変わって赤味噌が使われ、今の味噌煮込みになったのではないかと、私は類推している。

宗春卿は、時折鷹狩や鹿狩りをしていた。巻狩という大きな演習さえも企画した。そこでは一つの鍋を、武士も町民も百姓も共に食べ、一つの目的に向けて演習を行なっていたことが十分と想像される。同じ釜の飯を食べることが、最も身近になっていく方法だからである。宗春ほど、庶民と藩士が交流をするようにと心を砕いた藩主は少ない。

連絡を受け、きしめんを調べ、味噌煮込みから色々なことが見えてきた後に、夜食を食べようと思って冷蔵庫を開けた。するとそこになぜか「ほうとう」が入っていた。桑名に住む大叔母が送ってくれたものらしい。
そして、さきほどカミさんが「ほうとう」を作ってくれた。そのうどんはきしめん状であった。こんなところに、きしめんのルーツを見出した。
「ほうとう」をいただくまえに、宗春卿が色々導いてくれることを実感し、合掌して感謝した。とても美味しかった(^^)
20120131


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誰のための改革なのか?江戸時代から曖昧になっている。

江戸時代の三大改革といえば、
江戸幕府八代将軍徳川吉宗の享保の改革
吉宗の孫の幕府老中松平定信の寛政の改革
幕府老中の水野忠邦の天保の改革。

塾では「きょう・かんてん」と順を覚えなさいと私は言って来ました。

ところが、尾張藩七代藩主徳川宗春卿を調べるに辺り
幕府の公式記録である『徳川実紀』を通読して、
今までの認識が全くの誤りであったことが分かりました。

享保の改革の後半・寛政の改革・天保の改革に共通するのは
庶民が抑圧され、社会が潤っても居ないのに増税され、
庶民が苦しみ、一揆や暴動が続発していたということ。
これはびっくりする内容でした。

江戸時代の三大改革は、庶民のための改革ではなく
官僚のための、財政優先主義に過ぎなかったのです。
しかもその財政も目先のものを追っていて
恒久的な財政健全化ではなく
むしろ幕府の実入りを少なくしていくようなものでした。

では、なぜ、現代ではこの3つの改革を持ち上げるのか?
なぜ三大改革というのか?

それは、官僚政治を日本に定着させるために必要な考えかたを
日本人に押し付けるためのものであるように感じます。
ある意味、官僚政治を善とする洗脳教育です。

私は官僚が悪いとは思いません。
官僚の方々は非常に優秀で、
頭がさがるくらい一所懸命に日本を思い働いている。
しかし、彼らには遠くを見つめる政治哲学が許されていません。
目の前の、自分が所属する組織防衛の哲学で
それが日本のためだと思い込んでしまうくらい
彼ら自身が先輩たちによって
洗脳されているのではないでしょうか?

それは今に始まったことではなく
江戸幕府六代将軍家宣が死去した後に
間部詮房・新井白石の二人により幕府が動かされた時から
日本の官僚政治は、凝り固まっていったように思えます。
特に、吉宗政治の後半は、官僚政治の最たるものでした。
その中心人物が、老中松平左近将監乗邑。
頭がよすぎる彼は、近視眼的な政策をし続け
一次的に財政は改善されますが、
結果的には、九代将軍家重に嫌われます。
しかし、祖父を吉宗に持つ松平定信
先祖に、吉宗側近の最初の老中だった水野忠之を持つ水野忠邦
この二人は、吉宗の後半の政治を踏襲してしまいました。
これは吉宗の政治ではなく、松平乗邑の政治の真似だったのです。

3つの改革は、結果的には官僚支配のための
庶民にまで質素倹約を押し付ける改革でした。

そして現代もその改革を善として、学校では歴史を教えます。
つまり、学校では官僚支配を善として教えてしまっているのです。
さらに、受験でもそれが正解とされています。

今の政治もそうで、あらゆるところに共通することですが
改革とは誰のためのものなのか、
この根本を見失うと、かえって弊害が高くなるように思います。

政治が悪いとか、官僚が悪いとか言う前に
私たち庶民自身が目覚めないと
結果的には何も変わって行かないということを最近つくづく感じます。

こうしたことを知ったのも
尾張七代藩主徳川宗春卿のおかげなのかもしれません。

また、目覚め気づくことを教えてくれた釈尊(仏陀とは目覚めた人のこと)であり
発想の大転換を教えてくれた弘法大師のおかげと思っています(^^)

宗春卿や密教を通して、私は今後も
目覚め気づき(仏)、
ありのままの自分を大切にし(法)
皆と仲良く平和に生きていきたい(僧)と
強く思っています。

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2012年1月22日 (日)

祭りを通じて、人としての生を謳歌することが大切!

尾張七代藩主徳川宗春を調べています。
今前の研究や想像では、
彼は祭りならばなんでも良かったというイメージがあります。
また楽しければそれで良いというイメージもあります。
ところが丹念に調べてみると全く逆でした。

・新婚が困る真冬の正月の水掛け風習をやめさせている。
・鳥の格好で、厄除けと称して現れる人に、顔を全面出すように命じる。
・旅人を捕まえて厄男とする風習を禁止している。
というように、
人が傷ついたり、人権を無視したり、人が困ったりする無意味な祭りは
断固として中止させていました。

一方では、盆おどりや東照宮祭、名古屋祗園祭を大いに盛り上げ
奪いあう祭りではなく、
庶民も上士も一体となって気持ちを一つにし
お互いに分け与える祭りを推奨していました。

この姿勢は何ごとにも通じますね。
私自身も、自分のお寺も、自分が関わっていることも
この視点を常に持ち続けていたいと改めて感じています。

奪いあいは、お互いに恨みつらみが増長されて
二度と参加したくないという人も大勢になりますが
互いに分け与えは、新たに知己を得、温かい気持ちに包まれ
誰もが皆また参加したいと思うもの。
どんな祭礼であろうと行事であろうと
お互いが温かい気持ちになるといいですね。
激しさよりも温かさが祭りの本質のように感じます(^^)
祭りを通じて、人としての生を謳歌することが大切!

節分を前に改めて、これを自分に言い聞かせています(^^)

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