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2011年12月 5日 (月)

なぜ吉宗が八代将軍になったのか。

なぜ吉宗が八代将軍になったのか。

六代将軍家宣五十歳には、鍋松という五歳(満4歳)の子が居ました。家宣は、自分が病に倒れた時、将軍位をどうするのか、悩んだといいます。候補者は四人。一人は鍋松。一人は尾張中納言吉通二十三歳。もう二人は、紀伊中納言吉宗二十九歳。水戸中納言綱條五十七歳。家宣は学問をよくなし、正しさを求める人柄であったので、将軍位にはそれなりの人物が就かねばならないと考えました。鍋松は五歳と小さく、将軍位に堪えられないと思ったからです。そこで、尾張藩の吉道に後継を願います。吉通の祖父光友は家康の孫。その妻、つまり吉通の祖母は三代将軍家光の長女。さらに側近の記録では、自分を律することを知った立派な殿であったそうです(一部、正反対の意見もありますが、これは別問題があり、取るに足らないと思います)。将軍家宣は、それを側近の間部詮房と新井白石に伝えました。すると二人は大反対し、鍋松を将軍にすべきであると告げました。一度は、家宣はそれを了承しますが、やはり死が近づいてくると、尾張中納言吉通に西之丸に入ることを願います。西之丸とは将軍家後継または隠居の住む場所。この時点で吉通は将軍後継となるはずでした。ところが、家宣が死ぬと、間部詮房と新井白石は、将軍の意志ということで鍋松すなわち家継を将軍位に据えてしまいます。
ここで、間部新井にとって邪魔になる存在は吉通でした。家継が将軍位についてから、尾張藩では奇怪な事件が続きます。江戸在番の尾張藩士が吐血して頓死したり、謎の切腹を遂げ、それと前後して吉通の伯父の梁川藩主大久保松平出雲守義昌がなくなります。そしてその二ヶ月後に吉通は急死。そのまた三ヶ月後に尾張藩を継いだばかりの五郎太三歳が亡くなってしまいました。これで、将軍家継嗣の問題は一度は消え去ります。
これと平行して、起きていたことがあります。五郎太が誕生した翌年に、吉通の下の弟通顕と通温が江戸城より呼び出されます。これは吉通からの推薦ではなく、江戸城すなわち家宣名の呼び出しでした(家宣が呼び寄せたとは考えにくい。おそらく間部新井の仕業か?)。そしていきなり通顕に従四位下左近衛権少将大隅守を、通温に従四位下侍従安房守を授けます。一方、末弟の通春は全くの無視でした。通春は、吉通帰国時には常に夕食を共にしていたといいますから、間部や新井からは、吉通側近と映っていた可能性があります。間部新井の両名は、この後も通春を無視します。ある意味、大隅守通顕も安房守通温の両者は、間部新井に近づいていたといえるのではないでしょうか?

さて、話は代わり、将軍家継の後見を命じられていた吉通が居なくなると、将軍家継にもっとも影響力のある人物は月光院、すなわち家継の実母となりました。甲府藩以来の仲ですので、月光院と間部は親密であったという噂が流れます。そこから、将軍家宣の正妻である天英院と、実母である月光院の、大奥の争いが注目され、その争いの象徴的存在として絵島生島事件が起き、月光院派は一掃され、間部たちは足場を失ったと言われています。ただこうした紋切り型の発想にはどこか無理があります。そこには人の感情で抜けている部分があるように思うからです。江島生島事件(絵島生島事件とも)とは、月光院月大奥老女江島が、増上寺への代理墓参の帰りに山村座で歌舞伎を観て、茶屋で接待を受け、時刻までに帰らなかったことが大騒ぎに発展し、江島は罰を受け、江島と仲のよかった間部は痛手を被ったと言われる事件です。果たしてこの事件で痛手を被ったのは月光院と間部と新井だったのでしょうか?この事件の結果としてもっとも痛手を被ったのは、芝居小屋と大奥でした。幕府公認の芝居小屋である四座のうち山村座は廃止、森田座・市村座・中村座は桟敷撤去、非公認の座も七十を超える芝居小屋が廃止になりました。それと同時に大奥の風紀取締が徹底されたと言います。芝居小屋や大奥の存在を恨めしく思っていたのは、間部詮房であり新井白石でした。彼等は風紀取締という名目で、江島生島事件以来、大奥の支配を目指していきました。つまり月光院と間部が痛手を被ったのではなく、大奥全体が痛手を被ったのです。つまり、間部と新井が大奥を封じ込めたのが、この江島生島事件の真相ではないかと考えられます。実は、江島生島事件には、それに先立つ同じような事件がありました。尾張藩主吉通が十六歳の時、実母の本寿院が、芝居役者生島大吉、すなわち生島新五郎の実弟と誼を通じ、その淫乱さに業を煮やした幕閣と尾張藩家老たちにより、本寿院を四谷屋敷に蟄居謹慎させ、大吉は入牢させる事件がありました。本寿院は、このご許されるのは八代藩主宗春が藩主になった直後であり、大吉は入牢の翌年に出所が許されましたが狂い死にしています。この事件でも、本寿院は吉通に対して多大な影響力を誇り、美人でとても聡明な人であったとも言われます。それを妬んだ家老たちが、本寿院の影響力を減らすために本寿院を押し込めたというのです。もしこれが正しいのならば、江島生島事件はそのコピーであり、まったくのでっち上げの可能性が高くなるのではないでしょうか?どちらも、将軍や藩主に影響力のあった女性が、淫乱であったため処罰され、しかも相手が生島新五郎・大吉兄弟であったこと、そして江島が初めて女中奉公したのは尾張藩であったなど、偶然が重なりすぎているように思うのです。もし、これが人の恣意によるでっち上げであるのならば、内容はとてもわかり易くなると思います。江島生島事件について、実際に事件があってからことが露見して大事になるのに少し時間がかかっています。門限破りならばすぐに罰をくだされるはずなのですが、罰が下るまでに時間がかかり、さらに死刑を減刑したと恩着せがましい記録が残されています。また単なる門限やぶり、老女の遊びに対する罰にしては、あまりにもことが大きくなりすぎです。つまり、家老や老中グループが、女性の勢力を削ぐために行った謀、これこそが本寿院大吉事件であり、江島生島事件の真相なのではないでしょうか?

これらのことが正しいとするならば、今まで不思議とされてきた家宣正妻の天英院が吉宗を推した理由が見えてきます。五郎太の跡を継いで尾張六代藩主になったのは、大隅守通顕すなわち継友でした。継友も、祖父を家康の孫に、祖母を家光の子に持つ、血統的に紀伊中納言吉宗や、水戸中納言綱條よりも、将軍位に近い立場でした。しかも、家継側近の間部詮房と新井白石に引き上げられ、継友にとっては間部も新井も恩人でした。さらに、継友の婚約者は、近衛基煕の孫、つまり天英院の姪の安己姫。江戸城の中では、天英院や間部新井に推される人でした。ところが、この継友という人は、汚水を人にかぶせたり、障子に火を放ったり、大酒を飲むような奇怪な行動を取るひとであったという記録もあります。藩士の家の台所に突然現れて、藩士を困らせたとも言われています。さらに、五代藩主五郎太逝去の翌日には宴会をして藩主就任を祝ったとも言われる人です。治世時代は善政も多数あるのですが、自分の政策というよりは、家老たちの言葉をそのまま行なっていたようです。一方、吉宗は自分自身が主導権を握り、藩を改革し、家臣を引っ張ってきたという実績がありました。そうなると、七代将軍家継の後継は、誰が有利となるのでしょうか?以下は想像です。
間部詮房や新井白石は、自分達がコントロール出来ない吉宗よりも、制御しやすい継友を応援した。六代藩主家宣は一度は尾張四代藩主吉通を指名しているので、その弟ということもある。月光院は自分の子が生死を彷徨っているのであてにならず、大奥は天英院がキーパーソン。その自分の実家の五摂家筆頭近衛家をとても大切にする天英院の姪は、尾張中納言継友と婚約中となれば、天英院も継友を推すはず。そこで間部や新井は、六代少軍家宣の遺言ということで、天英院に一任。しかし、天英院はじめ大奥の女性たちは、奇怪な事件を起こしていたという噂のある継友を主人に迎えるよりも、男らしく家臣を引っ張る吉宗に魅力を感じていた。さらに、大奥は、江島生島事件で間部や新井に痛い目を合わされているので、間部や新井が推す継友は押したくない。結果的には、吉宗と継友の二人のうちどちらがよいか決しかねていた老中たちに、六大家宣の遺命ということで天英院が吉宗を指名してしまった。間部や新井は慌てたが、天英院を推したのは自分達であり、後の祭り状態となっていた。
と、私は想像しました。資料が少ないので何ともいえませんが、人の心の動きを考えると、これがもっとも分かりやすいのではないかなぁと思います。吉宗が将軍就任直後に、間部や新井に無視されてきた尾張藩の通春が従五位下主計頭に任官され、すぐに従四位下となり、尾張藩を支える存在となります。また、間部詮房のご領地が遠くに飛ばされた時、天英院も月光院も助け舟を全く出しませんでした。さらに、江島生島事件後の、天英院と月光院は仲が良かったということも理解できるように思えます。
私は学者ではありませんので、裏付けの新たな資料に基づいて述べているわけではありません。むしろ今まであった資料を見つめ、それに新たな角度から解釈を施してみただけです。
研究者の方にはぜひ、研究しなおしていただきたいと存じます。

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コメント

将軍後継者には水戸家はなれません
逆に、もう一人の後継者、将軍に最も近親者である家宣の弟のことが何もか書かれていないので、都合のいい部分だけ繋ぎ合わせた感じで、説得力に欠けますね

投稿: 通りすがり | 2019年9月21日 (土) 13時19分

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