江島生島事件(絵島生島事件)には元になる事件がありました
江島生島事件(絵島生島事件)、
実はあまり知られていないことがあります。
それを見つけることができたのは
徳川宗春(以下全員敬称略)の戯曲を書いているからです。
その過程で、いろいろなものが見えてきました。
時折、ブログでそれを発表しようと思います。
今回はドラマでも有名な江島生島事件。
この事件を取り扱ったものとして
近い所では、2006年の映画『大奥』仲間由紀恵主演があります。
単純に言えば、
大奥では六代将軍家宣の御台所(正妻)の天英院派と、
七代将軍家継生母の月光院派に分かれていました。
天英院は、前関白太政大臣近衛基煕の長女で、
気位が高い公家出身。
一方、月光院は、父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲。
身分の差は歴然としていました。
いわゆる、身分の高い養母と身分の低い生母の関係でした。
それでも天英院は従一位となり、月光院は従三位となりますから、
位の高さは相対的なものです。
その月光院の側近の江島(絵島とも書かれる)が、
六代将軍家宣の墓参ということで、増上寺に行き、
その帰りに今の銀座のあたりの木挽町にあった山村座という芝居小屋で、
当時男役としては絶大な人気を誇った生島新五郎の舞台を見に行きます。
そして、薪炭屋栂屋善六の饗応を受けて新五郎を交えて宴会をし、
四時までに戻らねばならないところを、ギリギリに帰ったところ、
その女中と門番がいざこざを起こしました。
それが若年寄の耳に達し、大奥の風紀の乱れが問題となり、
一大事件となってしまいます。
江島は死刑のところを免れて信州に蟄居謹慎。
その兄は死刑(切腹ではなく斬首)。弟は追放。弟の子は遠島。
など千人を超える人の刑罰がくだされました。
この事件は冤罪という説も少なからずあります。
六代将軍家宣は、実子の家継が幼すぎるのを見て、
将軍位を尾張四代藩主吉通に譲るつもりで居ました。
それを側近の間部詮房や新井白石に止められます。
そしてその将軍の遺言が無視され、
幼少だった家継が七代将軍になります。
ところが翌年に、
吉通の義理の兄の左大将大納言九條師孝
(吉通の正妻輔子の兄)が江戸から京に帰るとほぼ同時に薨去し、
続いて吉通の叔父の尾張藩御連枝梁川藩主松平義昌が逝去し、
二ヵ月後に吉通が薨去し、
三ヵ月後に吉通の嫡男で幼き尾張五代藩主五郎太が死にます。
そして、家継の継承問題で、
紀州藩主吉宗・尾張藩を継いだばかりの継友・
水戸藩主綱條・家宣の実弟の越智松平清武の四人が後継候補となり、
色々な暗躍があった時期が、江島生島事件の頃でした。
この江島という人は、三河出身で、
尾張藩の江戸藩邸に仕えた後に、
甲府藩邸(六代将軍家宣の前任地)に仕え、
大奥に入ったと云われています。
時期的に考えると、宗春の実母の宣揚院と同じ時期に江戸藩邸にいますし、
その宣揚院の叔父は甲府藩の宗門改めの藩士で、後に幕臣となりますので、
江島と宗春および尾張藩は多少は縁がありました。
この事件には前段があることを、今回の戯曲を書いている途中で知りました。
赤穂浪士による吉良邸の討ち入り事件の翌年、
すぐに赤穂浪士の事件が歌舞伎芝居となりました。
それとほぼ同じ時期に、
荒事を完成させた初代市川團十郎が、生島半六に舞台で刺殺されました。
この半六は生島新五郎の弟子でした。
新五郎はその責任を取り、二代目団十郎をすぐに襲名させ、
その後見となり、團十郎を育てて行きました。
その刺殺事件の翌年、
新五郎の実弟の初代生島大吉が、
尾張四代藩主徳川吉通の生母の本寿院と密会した罪で、入牢。
一年後に解き放たれますが狂い死にしたと云われています。
本寿院は四谷の本寿院邸に蟄居謹慎です。
このときに、生島大吉は四谷の本寿院邸に長持に隠れて通ったと云われています。
(江島生島事件も長持に隠れて通ったという風評が流れました。)
私はこの事件そのものが政治的な動きで、冤罪だと思っていますが、
この事件をコピーしたかのように、江島生島事件が発生しているのです。
吉通は七代藩主宗春の七つ上の兄。
本寿院は、宗春により蟄居謹慎を解かれ、晩年は自由自在に生きています。
江島生島事件の割には、本寿院大吉事件はあまり注目されていませんが、
実は江島生島事件の元は、この本寿院大吉事件にあるのではないかと思われます。
どちらも政治に女性と役者が利用された事件。
真実は資料不足でわかりませんが、状況証拠からすると、
江島生島事件も本寿院大吉事件のどちらも、
政治的に利用された冤罪であった可能性が高く、
とても悲しい事件だったと思います。
ドラマになってしまった事件は
何処かにプロトタイプができてしまって
真実が見えにくくなりますが
少し調べるだけで全く違ったものが見えてきますね。
ちなみに、生島新五郎・二代目團十郎と
宗春の関わりも戯曲の中でおりまぜて書いています。
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コメント
はじめまして。
生島大吉の生涯に興味を持ち、あれこれ調べた経験を持つ者です。
古い記事ですが、教えていただきたいことがありまして、書き込みをした次第です。
『歌舞伎年表』『日本演劇史』に、生島大吉の事件が、まあまあ詳しく記載されています。
それによりますと――
○若い役者たち六名と共に、呉服屋・伊豆蔵の長持に忍び、尾張の天龍院様御殿に入ろうとした。
○目付家老の成瀬隼人正と、家老の渡辺飛騨守に「お蔵に入れ」と脅されて、潜入を止めた。
○入牢期間は、わずか一ヶ月。
○大吉は『役者は武家屋敷、及び、町家に出入りを禁ず』の触れに背いた咎で 裁かれている。
(密通は、問題にされていない)
○大吉は過料。抱え主の中村勘三郎は、興行停止。
(ただし、中村座は火事で普請中。興行停止も何もない。甘い判決)
○出牢後、大吉は、発狂して死亡。
以上の事実が分かるのみです。
本寿院と大吉の密通を示す記述は見当たりません。
また、wikiには、女装して潜入したとあります。
この事実も、先に挙げた史料には見当たりません。
もし、二人の関係をはっきりと示す史料をご存知でしたら、教えていただけますでしょうか。
唐突なお願いですが、どうぞよろしくお願いします。
投稿: 忠太郎 | 2012年4月30日 (月) 17時23分
忠太郎さま 直接メールでお返事いたしますが、以下にも記しておきます。
ご指摘ありがとうございます。
とりあえず、手元にさっと披見できる資料の範囲内でお応えいたします。
まず各項目について
○若い役者たち六名と共に、呉服屋・伊豆蔵の長持に忍び、尾張の天龍院様御殿に入ろうとした。
天龍院という女性はその時尾張藩には存在していません。
この名前は、物語が元になった架空時の人物の名前。実在の人物とは異なっています。
おそらく尾張藩主生母の本寿院を公表できないので架空の名にしたものと推察されます。
生島大吉と本寿院の事件は、実際は表沙汰にはなっていません。
ただ全く同日に、本寿院は本寿院で乱行を理由に蟄居謹慎させられ、
大吉は大吉で入牢させられています。
大吉は女形でしたので女装をしてということになったのだろうと思います。
典拠は朝日文左衛門の鸚鵡籠中記はじめ尾張の当時に関わる日記類に散見されます。
○目付家老の成瀬隼人正と、家老の渡辺飛騨守に「お蔵に入れ」と脅されて、潜入を止めた。
当時の御附家老成瀬隼人正正幸は付家老になって二年余りで、数え二十六歳の若者。
そうとう女性遊びが激しかったようで老臣たちから咎められているほどです。
ただし御附家老とはいえ、当時は若く実権があったとは考えられません。
渡辺飛騨守定綱。三十八歳。彼の記録はこの年は正月のものしかありません。
このとき上記二人が江戸に居たという記録はありません。
この年の年初に、正幸は名古屋に居たという記録はあります。
もちろん名古屋に居たかどうかもはっきりしません。
ここでありえないのが本寿院邸に二人の家老が居たということです。
宝永二年閏四月四日に、尾張藩上屋敷市谷邸から、本寿院は四谷屋敷に移っています。
その四谷屋敷に、たまたま家老が居るということはありえないことです。
○入牢期間は、わずか一ヶ月。 ○出牢後、大吉は、発狂して死亡。
大吉が死亡したのは宝永三年四月二十四日です。
今回の事件が起きたのは宝永二年六月のことです。
はっきりとは分かりませんが、大吉が出処したのは宝永三年のことではなかったでしょうか?
○大吉は『役者は武家屋敷、及び、町家に出入りを禁ず』の触れに背いた咎で 裁かれている。
(密通は、問題にされていない)
これについては未見です。
ただし、尾張藩の本寿院に関しては、役者との乱行甚だしということで蟄居を命じられています。
○大吉は過料。抱え主の中村勘三郎は、興行停止。
(ただし、中村座は火事で普請中。興行停止も何もない。甘い判決)
中村座と市村座の火事は宝永三年一月十四日のことで、
本寿院大吉事件が起きた当時は、四座ともに興行を行なっていました。
以上が、分かる範囲での返信です。
宜しくご証左ください。
投稿: 遊歩和尚 | 2012年4月30日 (月) 21時22分