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2010年10月29日 (金)

尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(3-02)『温知政要』二条 愛に敵なし 家康公のように仁者であれ  原文と現代語意訳

第二条 愛に敵なし 家康公のように仁者であれ


<原文>

一和漢古今ともに
 武勇知謀千万人に勝れし名将
 其数限りなし
 しかるに功業終に成就せすして滅ひ失せ
 子孫二代と續かさるは
 慈仁の心なく
 私欲さかんにして
 自分の栄耀奢りを極め
 人民を済ふの本意
 曽てなかりしゆへ也
 東照宮には
 内に寛仁の御徳そなはらせ給ひ
 下々迄も御慈悲深く
 御敵となりし者さへ
 心を改め服すれは
 其罪をおゆるしなされ
 義の為には御身を忘れさせ給ふ程の
 明君にて渡らせられしゆへ
 御子孫枝葉迄も
 その徳行を受はかせられ
 千万年かきりなき御治世は
 昔王代にもまれにして
 天下の政務武将の執行ひ
 初しより以来
 御當家の様に成
 四方の隅々まで
 物いひ少もなく
 堅く御大法を守り
 御仁政に服し奉りたる
 目出度御世はなき事也
 仁者に敵なしといへる古人の語
 尤至極のことなるへし


<現代語意訳>
日本も中国も、昔も今も
武勇と知謀が、誰よりも優れた名将たちは
数限りなくいる。
しかしその功績が完成する前に滅び
子孫が二代と続かないのは
慈しむ深い愛情の心がなく
私欲に充ち溢れ
自分の栄耀栄華を奢りつくして
民衆を救おうという本来の心が
なかったからだ。
東照神君家康公におかれては
心に広く深い愛情のお徳が備われており
世間一般の者に対してまで慈悲深く
敵になった者さえも
心を入れ替えて心服すれば
その罪をお許しになられた。
やらねばならない道義のためには
自分の身体のことを忘れるほどの
名君であられたので
子孫は傍流の末までも
その徳を受け継がせていただいている。
永遠に続くであろう幕府の政の世は
今までのどんな王朝にも殆ど無かった。
天下の政治を、
武家が執り行なうようになって以来
徳川家のように
四方の隅々にいたるまで
言い争うことが少しもなく
しっかりと法を守り
深い愛情あふれる徳ある政治に
心服されるような
めでたい世はなかった
「仁者に敵なし」という
古い時代の偉人の言葉は
もっとも当然のことである。

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2010年10月26日 (火)

尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(3-01)『温知政要』一条世の中明るい事が大事 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政を 原文と現代語意訳

第一条 世の中明るい事が大事 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政を

<原文>
一夫人たる者
 平生心に執守る事なくては
 叶わさることなり
 しかし其品多けれは
 忘れ怠りやすし
 一二字の中より
 限なき工夫出る物なり
 殊に国持たらんもの
 すへずへまで行渡らすしては
 あやる事多かるへし
 故に慈と忍との二字を
 懸物二幅にそらへ
 慈の字の上には日の丸を描せたり
 慈は心のうちにのみ隠れては
 その詮更になし
 外へあらはれすえすへへにも及ひ
 隅々まても照したき心にて
 大陽の徳をしたひての事なり
 忍の字の上には月の丸を描せたり
 堪忍は心の中にありて
 外へ顕れさる時の工夫ゆへ
 大陰の形を表せり
 日月の二字を合すれは
 則明の字也
 大学の明徳にも叶へきか
 萬の事明らかになくしては
 所まかふ事のみにて
 宜く正理に叶ふやうには行れまし
 駕輿道具の者の衣服には
 仁の字を相印に申し付たり
 駕輿道具の者の衣服には
 仁の字を相印に申し付たり
 是内に居ては慈忍の二字を見
 外へ出ては仁の字を見
 朝夕何方におゐても
 暫くも忘れすして執行
 勘弁止むましき為の工夫也


<現代語意訳>

そもそも、人は
普段から心に留めて守らなければ
できないことがある。
しかし、その数が多すぎると
忘れやすく怠けやすい。
多くを語るより一文字や二文字で
数多くの工夫ができるものだ。
特に国持ち大名は、
その思いが隅々まで行き渡らなければ
間違った政治をしかねない。
だからこそ慈と忍の二文字で
二幅の掛け軸を作った。
慈の文字の上には太陽を描かせた。
慈は心の中に隠していては
あまり意味がないからだ。

その思いが外に顕れ、広く行き渡り、
隅々までも照らし出す心が慈。
太陽の徳のようであって欲しい
という願いだ。
忍の文字の上には月を描かせた。
堪忍は心のなかにあるもので。
外へ出すものではないので
太陰である月の形で表現した。
日月の文字を合わせれば
つまり明という文字になる。
『大学』に説かれる明徳にも
かなっているものと思う。
すべてのことが明らかでないのならば
間違ってしまうことばかりで、
あたりまえに正しい道理に
かなうようにはならない。
駕籠や輿等の道具を持つ者の衣服には
仁の文字を記すように申し付けた。
このように、
内にあっては慈忍の二文字を見て
外に出たときは仁の文字を見て
いついかなる時も、どこに居ても
ほんのわずかでも忘れないように
執り行い
物事を考え定めることをやめないための
工夫である。

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尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(3-00)『温知政要』序文 原文と現代語意訳

序文

<原文>
古より国を治め民を安んするの道は
仁に止るる也とそ
我武門貴族の家に生るといへとも
衆子の末席に列り
且 生質疎懶にして
文学に暗く  
何のわきまえもなかりし中
幕府衹候の身となり
恩恵渥く蒙りしうへ
はからすも嫡家の
正統を受續き
藩屏の重職に備れり
熟思惟するに
天下への忠誠を尽し
先祖の厚恩を報せん事は

国を治め安くし
臣民を撫育し
子孫をして
不義なからしむるより外有まし故に
日夜慈悲愛憐の心を失わす
万事廉直にあらん為
思ふるを其侭に
和字に書付け
一巻の書となして
諸臣に附與す
是我本意を普く人にもしらしめ
永く遂行ふへき誓約の證本なるうへ
正に上下和熟一致にあらん事を
欲するか為に云
 享保十六辛亥三月中浣
 参議尾陽侯源宗春書

<現代語意訳>

昔から、国を治め民衆を安心させるには
仁にとどまらねばらないと言われている。
私は武家の貴い一族に生まれたが
多くの子供達の中でも最後の順。
しかも、生まれもっての怠け者。
学問もそれほどしたわけでもないし
何の分別もなかったけれども
幕府のお役目をいただく身となり
多くの恩恵をいただいた上に
予想もしなかった(尾張藩)本家の
正統を受け継ぐこととなり
藩を守るという重職に就かせて頂いた。
しっかりと考えれば
将軍家への忠誠を尽くし
御先祖方の多くの恩に報いるために

自らの国(尾張藩)を治め安心させ
臣下や民をかわいがり大事に育て
子孫たちが
道から逸れないようにする他はない。
昼も夜もいつでも
慈愛と深い優しさの心をなくさずに
全てのことに
心正しくあるようにするために、
思うことをそのまま
誰もが読みやすい書き下した文で書いて
一冊の本として
諸々の臣下に渡すことにした。
これは私の本当の思いを広く人に知らせ
末永く行なっていくという
誓約の証本であり
まさに身分の上の者も下の者も
仲良く一つであるように願って

語るものである。
享保十六(1731)辛亥年
三月中旬(新暦四月下旬)
 参議尾張藩主源宗春書

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2010年10月25日 (月)

尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(2)吉宗公・宗春公治世下の享保元文の世相

吉宗公・宗春公治世下の享保元文の世相

五代将軍徳川綱吉公と側用人から大老格となった柳沢吉保。この時代に元禄文化は花開きます。それに続き六代将軍徳川家宣公と側御用間部詮房・侍講の新井白石等による正徳の治。そして八代将軍吉宗公等による享保の改革。享保時代とはは綱吉公が薨去されて七年後、まだ元禄文化の残り火がかろうじて残っていました。宗春公の若い時代を育んだのは、この元禄文化の残り火であったと言っても過言ではありません。


このころの学問が幕末の原動力の礎となった

五代将軍綱吉、六代将軍家宣ともに、徳の治世を重視していました。そのために、元禄時代に活躍した学者は多く、その愛弟子たちが輩出された時代が享保の時代です。

 ・林鳳岡(正統朱子学)及びその弟子たち
 ・伊藤仁斎(古義学)の弟子たち
 ・荻生徂徠(蘐園学派)及びその弟子たち
 ・熊沢蕃山(陽明学)の弟子たち(特に宮中で重きをなしていた。幕末に影響)
 ・木下順庵の弟子たち(室鳩巣・新井白石など)
 ・貝原益軒(本草学・養生訓など)の弟子たち
 ・関孝和(和算)の弟子たち  
 ・渋川春海の弟子たちや中根元圭と幸田親盈などの弟子たち(歴学・和算)
 ・契沖(精密な国学の検証)の弟子たち
 ・山崎闇斎(崎門学派神道)(特に宮中で重きをなしていた。幕末に影響)
 ・太宰春台(経世家・儒学者:『経済録』等)
 ・石田梅岩(石門心学)
 ・浅井周伯(医学・本草学)の一族と弟子たち
 ・松岡恕庵(医学・本草学・崎門学・古義学)の弟子たち


伝統芸能と商業の興隆

  元禄文化と総称されるほど、綱吉公の時代は大きく文化が花を開きました。そしてそれを支える商人たちが台頭してきた時代でもあります。享保の時代に入り、倹約緊縮で新たな文化の創設は閉ざされてしまいますが、元禄文化に生まれた芸術の流れは止まることなく、倹約緊縮の享保年間にもしっかりと根づき伝統文化となっていきました。

・歌舞伎俳優たちの活躍
 ・初代二代目の坂田藤十郎 ・初代から四代目までの市川團十郎・市川海老蔵
 ・初代尾上菊五郎  ・初代松本幸四郎 ・初代沢村長十郎
 ・初代中村十蔵(吉右衛門) ・初代中山新九郎  ・初代山中平九郎 
 ・初代沢村宗十郎 ・三代目嵐三右衛門 ・初代坂東彦三郎  ・その他

・元禄末期に美人画で有名な菱川師宣が活躍し、浮世絵が世間に広がる

・尾形光琳(絵師)や尾形乾山(陶芸)兄弟の最晩年

・宮崎友禅斎による友禅染

・近松門左衛門(心中物)の最晩年


・竹本義太夫の弟子竹本出雲(義太夫)の晩年

・江戸・京で宮古路豊後掾の文金(髷:文金高島田の源流)と豊後節が大流行

・紀伊国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門など豪商の最晩年

・俳諧では松尾芭蕉の弟子の志太野坡、その門下の多賀庵風律、湖白亭浮雲
 芭蕉門下の各務支考の最晩年、その弟子の加賀千代女、仙石蘆元坊、田中五竹坊
 
・歌壇では霊元上皇(法皇)とその門下 中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄など
 その他、当時の宮中の多くは霊元上皇の影響を受ける

・書道では、霊元法皇、その子有栖川宮職仁親王による有栖川流

・箏曲の生田流、長唄、、「さらし」「三段獅子」「六段恋慕」などの手事物が興隆

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尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(1)宗春公の主な経歴

宗春公の主な経歴 年齢は数え年

元禄九年十月二十八日(新暦1696年11月22日)生まれ
四歳   父の綱誠公(48)が薨去
五歳   祖父光友(76)公が薨去する
十三歳  兄の吉通より通春という名前を授けられる
十八歳  信濃路を通って江戸に移り住む。
兄吉通薨去 その子五郎太逝去 兄継友が六代藩主に
元服し、求馬通春と名乗る
二十一歳 譜代衆、従五位下主計頭叙任。松平主計頭通春となる。
二十四歳 従四位下 大名格を得る
二十九歳 長女誕生(以下、二男六女を得る)
三十五歳 尾張家御連枝となり陸奥梁川三万石の大名に・常在府 国持大名扱い
三十五歳 兄継友が薨去し、尾張七代藩主に
三十六歳 従三位参議・左近衛権中将となる  
主著『温知政要』執筆  名古屋へ戻る:名古屋入府の際に、漆黒の馬に、黒尽くめの衣装で庶民を驚かせ喜ばせる:全国的な倹約緊縮体制に反し、規制緩和積極経済政策を打ち出す:名古屋の人口は増え、大いに賑わう
三十七歳 京での『温知政要』出版が所司代より不許可となる:江戸に参勤交代で移った後に将軍家より三か条の詰問を受ける?
四十歳 藩士に遊興徘徊と博打を禁じる。その後、幕府も大名と旗本に同じ令を出す:嫡子万五郎(7)が逝去
四十一歳 一部緊縮体制に移る。幕府の貨幣改鋳等に対する対策?
四十二歳 次男龍千代(1)逝去
四十三歳 江戸詰めの最中に、老臣により尾張藩内でクーデター
四十四歳 藩内の混乱を理由に幕府より蟄居謹慎を命じられる:名古屋城三の丸に幽閉
五十九歳 名古屋御下屋敷へ転居
六十六歳 閉門が一部解かれ菩提所建中寺に
六十八歳 八事山興正寺に参拝
六十九歳 御下屋敷で薨去(明和元年十月八日(新暦1764年11月1日))

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2010年10月23日 (土)

尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(序-003)

宗春公は、財政問題と遊興な生活を幕府に咎められて、
蟄居謹慎させられたといわれています。

名古屋に三つの遊郭ができ、
さらに彼自身の奇抜な服装から、
財政放漫を想像されたようです。

しかし、彼の当時の政策は幕府のそれを先回りするようなものばかり。
実情は放漫であったかどうかは疑問が残ります。
残されている記録は、宗春公にとって都合の悪いものばかりで、
幕府にとって都合の悪いものは
消去されている可能性が高いからです。

幕閣は、自分たちの政策の過ちが際立ってしまうことを畏れ、
宗春公を追い込んでいきます。
そして最後には、吉宗公は宗春公に蟄居謹慎を命ずるのですが、
吉宗公の本当の目的は、幕閣とは異なり、
財政問題でも遊興のことでもなかったようです。

吉宗公薨去後、幕府は宗春公に怯えます。
宗春公は隠居所で文化を愛で、
後進のための道づくりを楽しんで居られました。

宗春公が薨去した後も、
幕府は怨念を勝手に想像をし、それに怯えます。
彼の薨去後、何度も謹慎解除の願いが出されるのですが、
幕府は一環としてそれを認めませんでした。
そして七十五年にしてようやく蟄居謹慎が解かれたくらいです。
それほど宗春公の蟄居謹慎は無理があったのでしょう。
いつしか尾張藩内でも、想像が想像を呼び、宗春公を怯え、
ついには彼を天王権現として祀り上げるまでになりました。
明治維新の際も、宗春公の力を借りようとした形跡さえあります。
しかし、明治維新を経て、太平洋戦争の始まる直前に
天王権現社の社は後代の寺院によって売却されてしまいます。
また墓石も焼夷弾に被弾し焼けただれたままになっていました。

名古屋錦の寿司喜多八ご夫婦が、
宗春公の人徳にを慕い、その墓石を直そうと提案。
その墓石を修復すべく、ボランティアが集まり、
墓石は修復されました。

墓石修復に伴い、宗春公の事績を調べるうちに、
宗春公の世間で言われている事実は全くの間違いであり、
さらにその大いなる発想は名古屋にとどまるものではなく、
日本全体、いや世界全体に通じるものであることが分かってきました。

昭和元禄と呼ばれたバブル期が過ぎ去り二十年。
日本だけでなく世界的に見ても、バブルが過ぎ去り停滞期の昨今。
今だからこそ宗春公のような発想が求められる時代ではないでしょうか。
「庶民のよろこび」を第一に考えた宗春公の発想はとても重要です。

徳川宗春公の生涯こそ、今の時代を乗り越えるヒントが隠されていると思います。

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尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(序-002)

享保年間(1700年代前半)、
絶対的君主に近いと思われている
江戸幕府第八代将軍徳川吉宗公。
享保の改革という倹約・緊縮財政を取り、
幕府の財政赤字は改善されたといいます。
幕府の金庫は豊かになりましたが、
地方では飢饉と重税による一揆が続発。
倹約令によって庶民の楽しみは抑制され、
徹底した管理体制が敷かれていました。
そのために吉宗公在世当時の、
将軍人気は決して高くはありませんでした。
吉宗公が、当時の庶民にとって
良き人であったかどうかは疑問が残ります。
彼は政権にとって都合の良い人物であり、
政権維持の英雄であったからです。
当時のほとんどの大名や旗本が
幕閣が主導する倹約・緊縮財政に追従。

その中、ただ独り、積極経済政策をとった大名がいます。
御三家筆頭尾張藩第七代藩主徳川宗春公
元禄九(1696)年十月二十八日~明和元(1764)年十月八日。
テレビドラマでは、吉宗公を英雄視するために、
宗春公は派手好みの遊興に走る敵役にされることが多いのですが、
実像の彼は悪役どころか、先進的な思想の持ち主であり実践家でした。

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2010年10月18日 (月)

尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実 (序-001)

Twitterばかりで、ここのところあまりブログを書いていなかった。
といっても何もしていなかったわけではなく
最近は尾張藩七代藩主徳川宗春公に没頭している。
そこでしばらく宗春関連の文章を
このブログ内で記していこうと思う。

あちこちに内容が飛ぶかも知れないが
このブログの内容で
徳川宗春公の思いを
現代に活かせていければ最高である。

ここで記す内容は
今まであまり言われてこなかった内容が含まれる。
論文やブログ、そのほか小説などに
ここでの内容を引用される場合は
ご一報していただきたい。

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