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2010年10月23日 (土)

尾張藩七代藩主徳川宗春公の真実(序-003)

宗春公は、財政問題と遊興な生活を幕府に咎められて、
蟄居謹慎させられたといわれています。

名古屋に三つの遊郭ができ、
さらに彼自身の奇抜な服装から、
財政放漫を想像されたようです。

しかし、彼の当時の政策は幕府のそれを先回りするようなものばかり。
実情は放漫であったかどうかは疑問が残ります。
残されている記録は、宗春公にとって都合の悪いものばかりで、
幕府にとって都合の悪いものは
消去されている可能性が高いからです。

幕閣は、自分たちの政策の過ちが際立ってしまうことを畏れ、
宗春公を追い込んでいきます。
そして最後には、吉宗公は宗春公に蟄居謹慎を命ずるのですが、
吉宗公の本当の目的は、幕閣とは異なり、
財政問題でも遊興のことでもなかったようです。

吉宗公薨去後、幕府は宗春公に怯えます。
宗春公は隠居所で文化を愛で、
後進のための道づくりを楽しんで居られました。

宗春公が薨去した後も、
幕府は怨念を勝手に想像をし、それに怯えます。
彼の薨去後、何度も謹慎解除の願いが出されるのですが、
幕府は一環としてそれを認めませんでした。
そして七十五年にしてようやく蟄居謹慎が解かれたくらいです。
それほど宗春公の蟄居謹慎は無理があったのでしょう。
いつしか尾張藩内でも、想像が想像を呼び、宗春公を怯え、
ついには彼を天王権現として祀り上げるまでになりました。
明治維新の際も、宗春公の力を借りようとした形跡さえあります。
しかし、明治維新を経て、太平洋戦争の始まる直前に
天王権現社の社は後代の寺院によって売却されてしまいます。
また墓石も焼夷弾に被弾し焼けただれたままになっていました。

名古屋錦の寿司喜多八ご夫婦が、
宗春公の人徳にを慕い、その墓石を直そうと提案。
その墓石を修復すべく、ボランティアが集まり、
墓石は修復されました。

墓石修復に伴い、宗春公の事績を調べるうちに、
宗春公の世間で言われている事実は全くの間違いであり、
さらにその大いなる発想は名古屋にとどまるものではなく、
日本全体、いや世界全体に通じるものであることが分かってきました。

昭和元禄と呼ばれたバブル期が過ぎ去り二十年。
日本だけでなく世界的に見ても、バブルが過ぎ去り停滞期の昨今。
今だからこそ宗春公のような発想が求められる時代ではないでしょうか。
「庶民のよろこび」を第一に考えた宗春公の発想はとても重要です。

徳川宗春公の生涯こそ、今の時代を乗り越えるヒントが隠されていると思います。

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