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2008年10月20日 (月)

スポーツと道

今回の高校の岐阜地区総体の
ハンドボールの試合で思い知らされた。
現在のスポーツはあくまで勝ち負けに拘るスポーツであって
道としての大義がないということを。

ハンドボールは西洋で生まれたスポーツ。
反則もある程度認められており
球技の格闘技ともいわれている。
西洋のスポーツのほとんどは
戦争の延長線上にあるものが多く
そこは人格形成よりも勝負にこだわる傾向が強い。

私のような中学高校時代の二十数年前に
ハンドボールを行なっていた人物が
各務原高校のハンドボール部のコーチを引き受けたのは
強くするという意味合いもあるが
そこに道としての人格形成が要請されたと思っている。
だからこそ第一に求めたのはチーム内の和。
全選手が一丸となることに意を注いだ。

最弱チームが強くなっていく過程で
二つの方法論があった。
弱肉強食、まさに現代社会のように競争原理中心のもの。
一方は、まずチーム全体が和になり
お互いの欠点をカバーしていくもの。
県内の多くの強いチームは前者を採用している。
弱いチームは学年の和を大切にしている。
私は両者と異なり
一二年生の和も大切にした。
競争原理を働かせる意味でも
一年生の底上げにも意を注いだ。
そうやってチームをまとめ力を付けさせていった。
そこには、荒い反則を隠れて行なうような行為はない。
確かに強いチームは
上手に相手を痛めつける方法を知っている。
しかし、高校の部活動というレヴェルにおいて
そのようなことを教えたり承認したりするのは
いかがなものであろうか?
部活動は人格形成の場だと私は信じる。
あくまでも健全なスポーツマンシップが要求される。
審判の眼を盗んでの反則行為は
うちのチームでは決して行なわせない。
それは道に反するからだ。

最近、柔道とJUDOの違いが良く引き合いに出される。
国際化し、スポーツなのだから
JUDOにあわせるべきだという意見が多数のようだ。
しかし本当にそうなのだろうか?

江戸時代の剣術の道場では
対外試合を禁じることが少なくなかった。
一部では他道場の比較を恐れてのこともあったであろうが
本来の意味としては、
剣術はあくまでも人格形成であり自分を深めていくものであって
他者と比較し、勝負だけにこだわるものではあってはならない
とする「道」の原理が働いていたものと思う。
私はその流れを受けているのかもしれないが
ハンドボールにもそれを求めている。
強くなければいけない。
しかし強いだけではならない。
そう感じるがいかがだろうか?
各務原高校の女子ハンドボール部の選手たちは
たった四ヶ月で見違えるほど変化した。
地区最弱チームが
いつの間にか中堅でも上位チームへと変化してきた。
ディフェンスだけならば
上位チームにも十分通用するレヴェルへと進みつつある。
そして何よりも
彼女達はハンドボールを愛し
ハンドボールを通じて仲間を作り
大きな和を経験してきている。
確かに負けはしたが
それは彼女たちの負けではなく
私の経験不足と油断によるものに過ぎない。

「ハンドボールを知らない」
といわれるかもしれないが
その批判は甘んじて受けようと思う。
ただ、道に反するものではなく
ハンドボールにも道はあることを
私は彼女たちに伝えたいと思う。

勝負にこだわらねばならない。
しかし勝てばよいというものでもない。
私は西洋のスポーツのありかたではなく
日本の道を求めたい。
それが西洋で生まれたスポーツであっても
高校生たちが部活動として行なうものであるならば
やはり日本の道を追求すべきだと信じたい。

本物の強さとは何か
私はそこまで見つめて、彼女たちを応援して行こうと思う。

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