坊さんとしての生き方
坊さんとは私にとっては生きかたであり
決して職業ではない。
信者さんたちのお零れをいただき
生活をなりたたせていただいている。
共に仲良く生き
ありのままにこの世を捉え
自ら気付いたことを喜び、周りに伝える
これこそが、仏教者であり坊さんであると思っている。
だからこそ本堂などでお説法をするときも
誰かを導こうという傲慢な気持ちにはなれない。
日々の生活の中で気付いたことを喜び
その気付きを独りよがりではないかを経典で確かめ
そして周りのものに伝えていく。
ただただそれを法話の中で繰り返しているに過ぎない。
また、最近ハンドボールに熱中しているが
ここに関わって生きていくことこそ
実は僧侶らしいことであることも知った。
抹香くさい話を、檀家さんだけに話すのが坊さんだろうか?
(それを否定しているわけではないが・・・)
坊さんが寄り集まってスポーツや遊びに興じてよいのだろうか?
形ばかり追うような坊さんであってよいのだろうか?
新たな時代に新たな形で関わっていく
そんな生き様を大切にしたいと私は思う。
実は高野山真言宗岐阜支所の星島支所長に対して
私は密かに尊敬をしてきた。
それは学生たちの野球にかかわり
そのなかで自分の生き様や思いを見せてきたからだ。
私はその熱き思いに大いに感心していた。
これからの僧侶のあり方の最前線を行く
そんな思いを抱いて感心していた。
わたしもようやくそれを果たさしていただいている。
特にハンドボールというのはチーム競技であり
また精神的な面が大きなスポーツ。
もっと言えば、今私が絡んでいる中学高校も
どうしても自分が絡まねばならない事情があった。
だからこそ、特にメンタルコーチ的な立場として
絡むようになってきた。
これこそ私の生き様。
そこには布教とか教導とか言うものは何もない。
ただただ共に生き共に歩み、気付きを共有していくだけ。
高校生たちはさらにシンボリックだ。
彼女たちの意思で私は動かされた。
そしてコートが整備され
チームも強くなってきた。
まだたったの四週間。
それにもかかわらず、彼女たちは驚くほど変身した。
数人の生徒の思いが保護者を動かし
私を動かした。
そして、私は加速装置として学校に掛け合い
クラブチームとして校外でも練習できるようになり
さらには学校内のコートも
学校側が動いてくださり危険が減った。
何よりも驚いているのは学生たち本人であった。
強い意思を持ち、動き出せば
難しいと思ったことでも変化していく
彼女たちがそれを今回のハンドボール部で学んでもらえれば
彼女たちの人生の中でも
きっと役立っていくだろうと確信している。
そのとき、私がコーチをした本当の意義を
分かってもらえるのではないだろうか?
私は技術的には高校生どまり。
決して大学レヴェルのものを持っているわけではない。
いつかは私以上の顧問やコーチが現れるだろう。
そのとき私は黙って消えるつもりである。
しかし、今、私の元でハンドボールをしている
中学生や高校生たちは
私が技術以外の人間としての生き方を
伝えていたということを
将来彼ら彼女たちは実感するだろう。
それは宗教家としてではなく
独りの人間として共に歩むことから
感じ取ってもらえると思う。
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