陀羅尼について
真言宗関連の方は陀羅尼と聞くと
阿弥陀如来根本陀羅尼とか佛頂尊最勝陀羅尼などを連想し
長い文字の真言を陀羅尼と思い浮かべる人が多い。
しかし、弘法大師空海は陀羅尼をそのようには捉えていなかった。
空海は
陀羅尼をむしろ
一字真言であり、種子であり
その一字の中に多義にわたる意味が込められていると考えていたようである。
阿弥陀如来根本陀羅尼は
その無量意味を有した一字真言が連なったものであり
長い真言を陀羅尼と読んだものではない。
あえて言えば、長い真言にはたくさんの表面的な意味が含まれているので
それを陀羅尼と読んだのかもしれない。
しかし空海の陀羅尼とは、文字面のことではなく
一字の中に込められた深い深い意味である。
しかもそれを理解することができる密教の器の人とは
決して頭の良い人ではない。
むしろ頭の良い人たちは文字面にとらわれてしまい
文字を解釈することにこだわってしまう。
空海はそれを多明句を好む者とし、顕教の器であると言う。
一方密教のそれは、文字面ではなく
その文字の背後に隠れた意味を感じ取る者。
頭の良し悪しに関係なく、
文字にとらわれることなく深い意味を感じ取れる者こそ
密教の器であるとした。
空海のいう陀羅尼はまさに一文字に記され
多くの文字を費やさないからこそ
直感的であり
秘密の教えのために在るものなのであろう。
空海が陀羅尼と言う言葉を使って表そうとした世界を
垣間見ると
そこには無限に広がる可能性がある。
世の中を推し測る物差しは、頭の良し悪しもあるだろうが
そればかりではないことを
改めて教えられるのが
陀羅尼を通して知った密教の機根論である。
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