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2008年2月13日 (水)

教え込みすぎ

スポーツのコーチを見ていると、時折教え魔が居る。
それは野球にもサッカーにも、ゴルフにも剣道にも柔道にも
ハンドボールにもバレーボールにもテニスにも
ありとあらゆる分野にそうした教えたがりが居る。
ところが、こうした教えるという行為には
危険性を伴っていることを理解したうえで
教えている人は少ない。

教えるとは、まず第一に教えている本人が学んでいることである。
一つの事象に過ぎないが、それは万事に繋がってくる。
教える行為が自分の人生と密接に繋がっていることが多い。

次に、教え込みすぎると、生徒の考える力を
阻害してしまうことを知っておかねばならない。
状況判断ができなくなる。
どんな物事にも、自分の背丈があり、自分の力量があり
最後は自分自身で考えて習得していかねばならない。
そこを理解したうえで、伝えていかねばならない。

第三に、教えるには、教える方に
待つ姿勢が必要であるということだ。
器の蓋がされていては
どんなに注いでも、あふれ出てしまうばかりだ。
その蓋が開くのを待たねばならない。
また習得するには遅速の個人差があり
それをじっくり見極める必要がある。

第四に教えられる生徒は個人個人千差万別ということ。
教える側が、教える内容を水の如く
器の形によって変化させていけるものでなくてはならない。
すべてに同じ教えをしてはならない。

自分の例を出すと
寺子屋で一人ひとり異なった指導方法を取っている。
ハンドボールも、できる限り全員に一度に伝えるのではなく
個人個人に声を掛け
その生徒の持ち味が生かせるように伝えるようにしている。
あえて言うと、決して教えたりはしない。
あくまでも伝えるのみ。

ところが昨夜、親友のW師より指摘を受けた。
私は妻に対してまったくこの行為と反対のことをしていた。
教えすぎ。
フォローのしすぎ。
口の出しすぎ。
お節介のやきすぎ。
ショックだった。
自分のしている行為を知ったとき
いじめにも近いことを妻にしていたことを知った。
直接謝ることはできないし
そんなことを面と向かっていうべきことでもない。
今後は、生徒にしているように
待つこと、伝えることの両者をしっかりと見つめていたい。

教育業界では有名な喩えがある。
ある公園に三組の母親が子供といた。
Aさんは木登りをしている子供を放って
自分が好きなことをしていた。
Bさんは木登りをしている子供を気を遣って
木の下で子供が下りてくるのを待っていた。
Cさんは木登りをしている子供を自由にさせ
自分も好きなことをしているのだが
子供が助けを求めた時にはすぐに移動できる場所で
時折子供の様子を見ていた。

もちろん、教育とはCさんを目指すべき。
しかしえてして、私たちはBになりがち。
そして私も妻に対しては過度なBさんになっていた。
大いに反省。

私自身が私自身のことをしっかりと行い
また妻には妻の好きなことをしっかりとしてもらい
お互いに助け合う場所では助け合う
ここが必要であることを改めて感じさせられた。
昨年年頭のイヴェントで
このことを目の前にぶら下げられていたにもかかわらず
気付くことのできなかった自分を深く反省する。

そういう意味では、
桜丘中学ハンドボール部の
顧問やコーチは待ちのできる人。
子供たちからの質問を待っている。
質問されれば積極的に答えるが
質問されないことにまで、過度な教えはしない。
自主性を重んじている。
この姿勢は学ばされることが少なくない。

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