手段と目的が逆転:「虹を翔るお坊さん 2007東京ボーズコレクション」
CNNニュース http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN200712160014.html で、東京築地本願寺で僧侶のファッションショーがあったという。この方向性は決して悪くないと思う。新たな時代を切り開く試みとして評価されよう。
ただし、仏教という時代を超越したベースの中でファッションショーはやはり疑問符だ。一つの法要を、いろいろな衣体(衣帯)で行うのは良いだろう。それを見て美しいと感じるのも問題ではない。しかし、見せること自体を目的とした行為はどうであろうか?どこか商業ベースのにおいがする。目的と手段が入れ替わっているのではないだろうか?この内容が仏教の中で永続性があるものだろうか?この内容にどんな仏教的な意味づけがなされているのだろうか?
今の寺院が一般から乖離しかけているのは、こうした手段と目的の逆転があるように思えてならない。
たとえばお布施。お布施は僧侶の時間を拘束し、信者さんがそれによって心の安定を得られたお礼として出されることが多い。ところが、最近はそのお布施を頂くために僧侶活動をしている僧侶が多すぎる。お布施を否定しているのではない。現実に私のお寺も、そのお布施によって成り立っている。しかし、頂くことが目的であり、お寺が存続することが目的であってはならないと思う。お寺の存続もあくまでも手段。お寺は人々の心の安寧を得る場所であり、その安寧を得るための手段に過ぎない。そしてそれを存続させるためにお布施を頂くのではなく、人々に安寧を提供するからこそ、その方々が布施をし、そして結果としてお寺が存続していく。そういうものなのではないだろうか。それに合わなければお寺も統廃合が必要だろう。
高家寺もかなり前衛的で、大道芸を取り入れたり、音楽会を開いたりもしてきた。あくまでも、それは仏の供養の延長でしか行っていない。しかし、坊主のファッションショーには、仏教の意味づけを見出せない。またここまでは手を出す気はない。いや出してはならないと思っている。
ただこうしたニュースを見させていただいたおかげで、やはりお寺の基準と言うものが必要だと言うことを感じさせられた。右でもなく左でもない中道こそ仏教。それを教えてもらえたことには深く感謝したい。
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