『空海のことばの世界』村上保壽 久しぶりに接する
昨晩、カミサンが机の上を整理してくれた。そのおかげで、目の前の机上に数冊の本が並べられている。そこに『空海のことばの世界』村上保壽著 東方出版 が置いてある。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488591860X/prpmenade-22
講演を聴いたり本を読んだりして、自分がどのように捉えるのか?否定的に見るのか、肯定的に見るのか?全面賛同するのか、部分賛同するのか、全面否定するのか?人それぞれなのだが・・・。
著者は私の兄弟弟子、村上保壽博士。現在は高野山真言宗の教学部長。今年の春までは高野山大学の教授であった。直接、教えを受けたことはないが、講演を聴いたり、本を読んだり、個人的にお話をさせていただいたり、さまざまな面で村上先生の考えに触れてきた。10年近く前だっただろうか、静岡で行われた教師研修会で村上先生の講義があった。その前にも、僧正参篭だったと思うが、そこでも村上先生の講義があった。「今のような弘法大師一辺倒の大師教になると阿弥陀一向宗と何の代わりもない!弘法大師の教えはそんなものではない。」この言葉を両方で聞かされた。普段私の中にあった思いと一致。さすが我が兄弟弟子!と心の中で拍手をし、我らの師である松長御前(当時大学教授)にもその嬉しさを報告したものだ。ところが、その後、村上先生より聞かされたのは「あれでmけっこう批判があったんだ」。驚いた。レベル的には少し上級者向けであったが、僧侶であるのならば、ましてや僧正を名乗るのであればあれくらいのレベルは確保しておかねばならないものだったからだ。それからも何度も村上先生のお話を聞いたが、元々は倫理学を専攻されていた方だけあって実に面白い。専門馬鹿ではない良さを感じる。師の松長御前も実に広い分野の方々と接しておられるために見識は深く広い。その影響もあると思うが、村上先生の話しは面白い。時代的に、宗教の中での倫理学が求められているからかもしれない。
ところで、この『空海のことばの世界』は弘法大師空海の著作の中の言葉に注目し、同じ言葉を使っても弘法大師は新たな視点に立って言葉を使っていることを解明した画期的な著述だ。そして、空海が何を思っていたのかを「ことば」を通して伝えようとした意欲的な著書である。真言宗は「言葉は瓦礫」であると考える一面と、「ことば」を通してしか伝えられないものがあるという両極端な考えを同時に共有しているという思想体系を有している。二律背反を内に有することが大きなエネルギーとなっていくからだと思う。この二律背反を内に有するためには「行」が必須となってくる。この直接体験である「行」を通してしか理解できないものがあるからだ。しかし、一般に生きる人にとってその「行」は普段の生活の中ではなかなかできるものではない。そこで村上先生は本書を照会するに当たり以下のはしがきを書かれた。少し長いが引用する。
p.1>>それでも、空海を理解し評価したいのであれば、空海の「行」を共有するしかないであろう。その境地に入り住するならば、才能の人空海ではなく、偉大な思想家であり宗教者である空海が見えてくることであろう。しかし、私は、すべての人が空海と「行」的境地を共有する必要がないと思っている。また、すべての人がそのようなことができるとも思っていない。空海の「ことば」を身と心で聞き、感じ、イメージ化して受け止めるならば、十分に空海の思想と個性を理解し、自分の言葉で空海を表現することができると思うからである。(中略)
本書は、空海と「行」的境地を共有する機会を持たない人たちに、空海の「ことば」の理解を通してその思想と個性を伝えようというねらいから書かれている。そしてまた、本書には平成の真言教学の探求とでもいうべきねらいがある。(後述略)<<
村上先生の熱き思い、改めてこの本から感じることができた。村上保壽という西洋倫理学の専門家を空海の道に導いた師松長有慶御前の誘導、著述や後代の弟子たちを通して突き動かした弘法大師空海のエネルギーに深く敬意を表したい。もちろん、久しぶりにこの本に接する機会を与えてくれたカミサンにも感謝したい。
| 固定リンク
コメント