青い子供の自分を知る
弘法大師の著述を読めば読むほど感じることがある。それは宗派意識のないことだ。高木(言+申)元高野山大学名誉教授も、最近はこのことを盛んにお話されている。弘法大師が真言宗と述べる場合は、密教経典を学び修行をするものという意味であって、決して集団とか所属ということを意識したものではない。ところが、今はどうだろう。真言宗も十八本山と呼ばれるほど分派し、どこもが自分が中心といわんばかりに宗派意識が強くなっている。
かくいう私もどうだろうか。確かに、宗教倫理学会のおかげでいろいろな宗教の方々とお話をしているし、聖書も文語訳や英語版も含め五冊持っているし、コーランももちろん持っている。神社はしょっちゅうお参りに行く。そういう意味ではあまり宗派意識はないほうだが、やはり他宗の僧侶の方々とお話しするとつよくその宗派意識を感じてしまうということは、私自身にどこか壁があるのだろうかと感じてしまう。
少し前までは、いろいろな宗教を学びそれを尊重することが脱宗派と考えていた。ところが、最近は少し異なる。宗教倫理学会のせいもあるだろうが、自分の尊崇する教えを深く掘り下げ、自分自身がその教えを体現することこそ脱宗派なのではないかと感じるようになって来た。かつて、西田哲学から共産主義に転向したことで有名な柳田謙十郎氏が高野山を訪れた折に、金山穆紹猊下にお会いになられ、「この人の信じるものだったら信じても良い」と言わしめたと我が師より聞いている。このような生き方こそ、実は脱宗派であると最近になってようやく気付き始めた。まだまだひよっこな自分が恥ずかしい。
実は今日は一宮をいろいろ回る用事があった。そのためもあるのか、生まれ故郷を回ることで、そして五歳まで育った場所の前を通ることで、自分自身を振り返るチャンスを得た。この場所を訪れたということは、ひょっとすると宗教レベルではやっと五歳を過ぎて新たな場所へ引っ越す段階になったのかもしれない。最近良著に恵まれている。真言の教えをより自分自身に体現するためのものと思い、真言という牙で噛み砕き吸収していきたいものだ。
ただこんなことを書いている自分がまだまだ青い子供に思えてしまうのは気のせいだろうか???ハハハハハ。
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