体調優れず
今日は体調が優れず、一日寝込んでしまった。急に気圧の変化があったためなのか精神的なものか、それともどちらもあってのことなのかは分からない。これも大いなる命からのメッセージなのか。
まもなく、若者二人が訪ねてくる。話を聞いてもらいたいとのこと。それまでには体調を整えたいと思う。
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今日は体調が優れず、一日寝込んでしまった。急に気圧の変化があったためなのか精神的なものか、それともどちらもあってのことなのかは分からない。これも大いなる命からのメッセージなのか。
まもなく、若者二人が訪ねてくる。話を聞いてもらいたいとのこと。それまでには体調を整えたいと思う。
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寺子屋の生徒たちとカラオケに。三時間、歌い続けた。70年代の歌やアニソンや、いろいろ歌ってみた。おなかの底から声を出すのはいいものだ。カラオケは確かに偉大な発明だと思う。これを思いついた人に頭が下がる思いだ。
メロディ、歌詞、歌は人の心を癒す。
これで来月からは寺子屋も新たな展開。私自身もリフレッシュしよう!
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部屋の掃除をしていたら人形劇のテーマ集のCDが出てきた。そして聞いてみた。思わず声を出した!これだ!
新八犬伝・・・この人形劇は私の子供心にともし火をつけた大きなものだった。南総里見八犬伝も読んだ。仁義礼智忠信孝悌。今も思い出す。そしてその中にあった坂本九の名曲「夕やけの空」。本当にすばらしい曲だ。明日、寺子屋の子供たちとカラオケに行くのでぜひ歌ってみたい。
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月例護摩。体調が今ひとつだったが、護摩を焚き始めると不思議とその瞬間はしゃんとする。面白いものだ。
昨年末より、添護摩木の裏面に懺悔を書いてもらうようにしている。不動尊の言葉に「懺悔を数えて望を施す」とある。それを実践するために何ができるかを考えた。
添護摩木には願い事を書いていただいている。だからこそ逆に懺悔が必要と思い、懺悔を書いていただくようにした。すると護摩の火そのものが変化した。とても柔らかな美しい火になってきた。私自身も懺悔を大切にするようになってきている。
法話でも懺悔を語った。
我が師匠も懺悔を大切にしている。その弟子として私は実践の場で活かしたいと思っている。
具体的な懺悔の方法は何か?密教にはその方法がある。それが礼拝行だ。一回一回仏に礼拝することで、今まで背負ってきた悪業障碍を仏に手渡していく。毎日三回すれば、一年で千回の礼拝をしたことになる。つまり千回の懺悔だ。
最近、願い事ばかりが表に出る傾向がある世間の風潮だが、高家寺ではこの懺悔をもっともっとアピールしていきたいと今は感じている。
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寺子屋の中学三年生がやってくる。今日が最後。色々あったが、それぞれが自分の道を見つけて歩み始めている。子供たちが巣立つのは本当に嬉しいものだ。この子達が自分の人生を全うすることを心より願う。
今日、ツバメが戻ってきた。
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部屋の整理をした。机を設置。
名鉄岐阜の近くにある、大塚屋に行き、テーブルクロスを探して良い生地を見つける。黄色の布。かなり気に入った。それにしても店員の生地を切る技術はたいしたものであった。小さな出来事であったが感動した。
帰宅後、机に布を被せる。いい感じに出来上がった。
そろそろ私も心のリニューアルの時期なのかもしれない。大笑
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午前中に水子供養。午後から四七日に出かけ、帰ってきてから相談。睡眠がおかしくなっているせいもあり、その仕事が終わった瞬間に、食事もせずに寝てしまった。そして目が覚めると11時。夜の11時。嗚呼、また睡眠のタイミングを逃してしまった。ま、好きなことをし始めての睡眠障害だから、これも笑い話なのかもしれない。
さて、今日の四七日で語ったこと。これまでは何か良いことを積極的に行う一週間であるようにお願いしてみた。なかなかできるものではない。意識していてもできないのだから意識していないと余計にできないようだ。これからの一週間はお地蔵様。お地蔵様は笑いの仏様。この一週間は笑いを大切にしようと語りかけた。笑う門には福来る。
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昼前から三十五日の法事に出かける。亡くなった方は旧暦のお正月に亡くなりちょうど100歳であった。いろいろ家族にはわがまま放題だったらしいが、実に正直に生きられた方みたいだ。特に健康には気をつけられており、歯はなんと全部自分の歯だったらしい。孫には硬いものを食べろといい続けていたという。この教えはなかなか興味深いものがある。徐々に柔らかなものばかりたべはじめている現代人。最終的には流動食なるものも出てきたが、実際は歯を動かす食べ物が実に大切なようだ。私も実を言えばやわらかいもののほうがすきなのだが、これからは硬いものを意識していただこうと感じた。それが故人を見えない命として活かすことの一つではないかと感じている。命とは見えるものばかりではなく見えない命としてもつながっていくものであることも感じさせられている。
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寺子屋の中学三年生最後の日。全員、行く学校が決まってホッとしている。賑やかな生徒たちだったので、さびしくなりそうだ。来週は卒業パーティでカラオケに行く予定。さてさてどうなることやら・・・。
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師匠のお宅で毎月一回、勉強会を行っている。高野山真言宗の管長という激務にもかかわらず、この勉強会を大切にされている師匠に深く頭が下がる思いだ。
そして近日中に私の当番が回ってくる。担当する場所は、不生不滅云々の一節だ。過去の学匠達は言葉の違いに非常にこだわりを持たれていることが分かった。実に細にいるまで研究されている。ただそれを弘法大師はどのように見るのだろうか。非常に単純に、人にすれば文殊菩薩、法に約せば大般若経と、『十住心論』で喝破されているところを観ると、細かい作業もある程度のところまででよい気がしてきた。それよりも、弘法大師が何を言おうとしていたのか、それをどのように現代に活かすのか、ここが重要な気がする。面白くてのめりこんでいる。文殊菩薩を信仰している私にとってはとても重要な一節だ。出来上がる日が楽しみである。
ただおかげで睡眠障害になりつつあるが・・・。
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今日はお彼岸のお中日。弘法大師の日でもある。いつもより大勢の方々がおまいりに来られた。おかげでろうそく立てが限界であった。いつも来られている方々が何人か来られていなかったにもかかわらず。
高家寺の弘法大師像は数体ある。
中心は銀杏弘法大師。飛騨のミホロダムの底に沈んでしまった弘法大師が突いていたといわれる杖より大きくなったという伝説の銀杏の木で作られている。作は昭和30年ごろだが、その素材に含められた意義は深いものがある。しかも修行大師像である。
お前立ちは厄除け弘法といわれ、当山に長く伝わるものらしいが、その出所は不明。
向かって右奥に祀られているのが、般若心経秘鍵弘法大師。いわゆる秘鍵大師。今から7年ほど前に、南濃町からお電話で弘法大師像を預かって欲しいという依頼があった。底に訪ねていくと、居られたのがこの秘鍵大師である。昔からこの弘法大師像に惹かれていた。実は観たことがなかったのだ。存在は知っていたのだが・・・。しかも、この大師像は立像。非常に面白い。まさにこの大師像に私が呼ばれ、また大師像自身がこのお寺に着たがっておられたそのように思う。
そのお前立ちが重軽弘法。石でできているのだが、丁度持ち上げるのによい重さで、重軽石と同じように扱わせていただいている。実際に願い事がかなうときはこの石がびっくりするくらい軽くなるらしい。老人でもさっと上げてしまうくらいだからだ。
正面、やや左にあるのがつるぎ弘法。手には何も持たれていない。実はこの像も預かって欲しいという依頼があったもの。もっておられた方は90歳を超える翁夫婦。それゆえに、鶴亀より「つるぎ」とつけた。いつか私自身の手で、剣を彫ってみようと思っている。
毎月21日に行われる月例弘法。守護尊カードを出すようになった事も良かったようだ。この守護尊カードも不思議なほど、必要な人の手元に渡っている。
この月例弘法を大いに活用していただければと思う。
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明日はお彼岸のお中日。春分の日であり、高祖弘法大師が御入定なさった日でもある(ただし高祖の場合は旧暦だが)。春分の日をなぜお彼岸というのだろうか?いろいろな説があるが、私は下記の考え方が気に入っている。
1)この日は真東から太陽が昇り、真西に太陽が沈む日。朝には真東の薬師如来の瑠璃光浄土を思い、夕べには真西の阿弥陀如来の極楽浄土を思うことができる。それゆえにお浄土を思いつつご先祖に祈りをささげる大切な日である。
2)日中と夜とがちょうど同じ長さのこの日。まさに真ん中。中道。仏教は中道の教え。それゆえにこそこのお彼岸こそ、中道を思い、彼岸(悟りの世界)を思うに適した日。
明日に配る守護尊カードを作りながら、上記のようなことを思い浮かべた。
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壊れていたパソコンの調子がようやく戻ってきた。ソフトもとりあえず充実させることができて、以前よりも濃い内容になりつつある。一度壊れたものを修復するよりも、やはりリセットしたほうがよいのだろうか?
時と場合によりけりのこのリセットの問題を考えさせられる。
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午前中に供養一件。午後から三七日にでかけ、その後に御祈祷一件。睡眠のコントロールが効かないため、顔が少し腫れていた。
今日の三七日で語ったことは以下のとおり。
「今日までの一週間は、なにか今までしていたことで辞める習慣を身に着ける週間。それが文殊菩薩の剣がシンボル。 これからの一週間は、何かよいことを積極的に行う一週間。よい習慣を身に着けていただければと思う。それが普賢菩薩の一週間。」
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午前中に法事が一件。午後からは体調を鑑み、ベッドに入った。体が冷えてしまい、横になっていても深く眠れない。浅い眠りが続いた。夢をたくさん見た。そして何度も起きた。夜に学生が訪ねてきたようだが、私は起きれなかった。申し訳ないことをしてしまった。体調をもういちど見つめてみようと思う。
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寺子屋。中三生が今日から居ない。少しさびしい気もするが、今まで控えていた生徒たちが急にのびのびし始めた。中学生における先輩後輩の圧力は目に見えるほどのもののようだ。
今日は後半は映像による学習。視覚に訴えると、大きな効果がある。学校でも、下手な授業をするよりも、こうした映像を使った学習に取り組めばよいのにと改めて感じる。
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昨日は生徒の受験日だった。元から居た生徒たちは早々に特色科で合格を決めていたのだが、新規に入った生徒たちが昨日は試験だった。どうなったのだろうか。やはり気になるところだ。最後に追い込みをかけてはいたのだが。
正直言って、生徒たちにレッテルを貼るのだけ早めてほしい。なぜぐれてしまうのか、なぜ学校嫌いになるのか。もっと教師も親も学ぶべきなのではないのか。これほど優秀な生徒たちが、なぜこんな状態にされているのか
もっと早くに来ていてくれれば、そう思うが、やはり人には縁がある。受験は思うように行かないかもしれないが人生はまだ長い。その過程で、この寺子屋で学んだことを生かしてくれればと思う。
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体調を崩し寝込んでしまった。今日は支所の総会があったにもかかわらず。ゆっくり眠れない。底冷えが激しく、私自身の体も温まらない。寒さで目が覚め、冷えで呼吸が乱れてしまった。体調が悪いと体の温度調節も狂ってしまうようだ。よい勉強になった。
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パソコンのハードディスクを入れ替えた。いろいろソフトをインストールするうちに「太閤立志伝」というゲームを見つけた。そしてやってみたらはまってしまった。一人の人間の一生を追っていくロールプレイイング。面白かった。久しぶりだということもあっただろう。そのなかのミニゲームがあり、そこでいろいろ学ばされもした。なるほどと思えるミニゲームが数種はいっている。こんなところで、学ばされるとは夢にも思わなかった。そのためにはまってしまった・・・。反省・・・・。
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昨日は、二七日を迎えた檀家さんのお宅へ行く。そこでの法話。最初の一週間は不動明王。最もよく動かれる仏様。その名前と異なり、本当に自由自在に動かれる。菩提心が不動だからこそ、自由自在に動かれることを説明。そして次の二週間は釈迦如来。釈尊ともいう。真言宗の釈迦如来は生身の御釈迦さんではなく、その御釈迦さんがこの世に生まれてこられたその本体である受用法身の釈迦如来をいう。この釈迦如来は生活を整えるための戒律と深く結びついている。そこで、その檀家さんに、一週間前に「これからの一週間、何か自分で決め事をして行動をとってほしい」と伝えた。そして、今回は文殊菩薩。釈迦如来の脇侍のお一人。剣を持ち、煩悩を切り裂く菩薩。それゆえに「これからの一週間は、何か一つやめることを決めて実行してほしい」と伝えた。お茶断ちという言葉があるが、自分の好きなことを控えて、そのエネルギーを最もやりたいことに向けることは大切なことだ。それを実現する一週間と伝えた。今回のこの七日ごとのお参りは、ある意味おおきなモデルとなりうな予感がしている。
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一昨日の金曜日は高野山へ行く。師匠の月一度の勉強会があったからだ。今回も車で出かける。まずは奥の院へ。地下法堂に入ると人が居なかった。約五分間ほどたった一人で祈りをささげた。懺悔と感謝。そして、中の橋の駐車場で母からの要望のあった高野槙を二本購入。その後、壇上伽藍に行き、御影堂、四社明神、金堂、根本大塔で感謝の真言と経を唱え、師匠のお宅へ。今回も般若心経秘鍵。面白い発表だった。そして、師匠の随行さんと共に本山へ行き、その後の彼と食事へ。いろいろ話せてよかったと思う。
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午前中は三七日を迎えた檀家さんをお迎えする。午後からは、相談事が二件。いろいろ考えさせられる事案だった。以前にご祈祷をした子供の姿を見ることができたことをうれしい。命が危ないとされ、それでも大きく育っている姿を観て、ホッとする感覚を覚えた。若い人が多い相談。この相談窓口をもう少し整備しようと思っている。
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コンピュータの壊れたHDが修復不可能であることが分かった。ショックだった。昨年の8月からのメールは消えてしまった。また12月以降の写真も全部消えてしまった。これは何を意味するのか。いみじくも、母と弟子二人の意見は一致していた。残念ながらそれを認めざるを得ない。近日の過去を捨てて新たな道を歩むとき。そこに差し掛かったようだ。
今日は高野山へ上る。高祖の御廟と御影堂の前で新たな思いを抱かねばならないようだ。否、初心に戻り、この道を歩もう。こうして、南山に戻してくれる大きな流れに感謝したい。
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マドンナのコンフェッションズツアーライブのDVDを入手。昨年のマドンナのワールドツアーのうちロンドンで撮影されたものだ。
私個人としては、LAのステープルスセンターと大阪ドームで見させていただく縁を得た。そのときの衝撃が未だに心に残っている。彼女の宗教性の深さに驚愕するばかりだった。
そして、ついにDVDを入手。再度、あのときの感激を確かめてみた。CDには残念ながら、彼女が最も伝えたいメッセージの部分であったはずの曲がカットされていた。しかしDVDにはしっかり記録されているので、何度も何度も確かめてみた。やはり私の感性は間違っては居なかった。マドンナはある一定のレヴェルをはるかに凌駕している。デビュー当時の彼女と今の彼女はまったくの別人といってよいような気がする。いや、デビュー当時の彼女を大きく大きく包摂した存在になったというのが適切な言葉のように思える。
最後に彼女が語る言葉に「10人の人が分かってくれれば、このコンサートは成功よ」という言葉の重みを感じる。2万人の観衆のうち10人。この発想はすごい。
彼女に会い、宗教を語り合う日もそう遠くはないかもしれない気がしている。これは私の妄想だろうか?
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http://www.kokeji.com/realfuneral.html に高家寺の葬儀の概要を掲載した。今日の般若心経講座は、この内容の講義であった。お葬式のありかたを今見つめなおす必要を私は感じる。高家寺の葬儀のあり方が、全国に大きな影響を与えて行ってくれるよう、今後つとめていきたい。
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最近、ヤクザの世界をいろいろ教えてもらってきた。良い悪いではない。何かの理由で刑に服してきた者たちが、全うに働くには世間は冷たすぎる。そんな中で、その受け皿となっているのがヤクザの世界であることを改めて認識させられた。またその家族を全身全霊で支えていく人たち。ここにはそれなりの魅力が存在していることを知らされた。
本来、お寺もその一端を担わなくてはならないはずである。世間で罪を犯した人たちを受け入れる器がかつての仏教にはあった。しかし、今の仏教は経済仏教になってしまっている。ヤクザの世界にも経済ヤクザという言葉があるが、最近は任侠道を全うしている親分が登場してきているらしい。こうなると男は男に惚れ、その道でまさに極道していくのではないかと思う。仏教もまた経済ではなく仏道を歩む必要があると思う。そう思うと、今の仏教界はヤクザの世界よりもはるかにひどい状態である。
大きな器。ここをもう一度見つめなおして生きたい。そういえば、師匠のオーラというかエネルギーが実に透明になってきている気がする。この人に就いて本当に良かったと思う。師匠も親分もある意味一つの流れなのかもしれない。
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ここ数年、自分が本当に何をしたいのかを観ずにいた。観ずにいたというよりも観ないようにしていたというのが正確かもしれない。昨年は勧学会の三年目に参加させていただいた。本当に運が良かった。そして年末に後事を託すに値する弟子ができた。写瓶(しゃびょう)という言葉を当てはめても良い弟子だ。そして、今年には三回の葬儀。そこで自分は感じた。自分が本当に何をしたいのかを目を瞑っている自分がそこに居た。
今はかなり明確になっている。数日前に私は一大決心をした。そしてそこからは驚く速さで、さまざまな膿が出ていった。私はやはり観ずに居た道を歩むべき人間であることを実覚した。
今日も親友のKさんが心配をして来てくれた。もう一人の親友のWさんにも電話した。二人はやはり兄たちである。本当にありがたい。深く感謝している。
この道より 吾を生かす道なし この道を行く (武者小路實篤)
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吉良町の社会福祉協議会のお招きで講演会をさせていただいた。タイトルは、心のともし火 ボランティアの心のケア。阪神大震災の時のお話から仏教のお話と多義にわたってお話させていただいた。
吉良上野介のお墓にも参る。私は一宮市立浅野小学校卒業。つまり浅野匠のご先祖が出でた場所の出身で、吉良家にとっては敵の土地の出身。しかし、一方で、高家寺というお寺の名前が示すように、高家筆頭であった吉良上野介とはまったく縁がないわけではない。そのあたりから話を進めた。三種の動物による心理学の性格診断。阪神大震災の際のボランティアの話。私がボランティアの心のケアに回った際のお話をさせていただいた。丸十二年。ボランティアとは何かを仏教の布施と絡ませてお話をさせていただいた。
その後、吉良町から幸田町へ行きある学生と食事し、そのあとかみさんの知人に会い、弟子を送って帰宅した。
夜、親友のKさんが心配をして駆けつけてくださった。その心に深く感謝したい。友は本当にありがたいと改めて感じた。そして私の決意を伝えた。
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二七日と初七日と連続した今日。飛び込みの水子供養もあった。
二七日のご家族とは三十五日の打ち合わせも。齢かぞえ100歳で亡くなられた方。それゆえに四十九日とはせず、三十五日を忌明けとした。
初七日のお宅では、とても感謝された。葬儀がご近所で評判になっており、深く感謝された。僧侶の数を増やすのではなく、どれだけ丁寧に葬儀を行い、個人を送り出すことが大切か改めて感じさせられた。こうした葬儀を連続でさせていただいたことに、深く頭を下げたい。
明日は吉良町で講演会。そのまえにPCの設定をもう一度行いたい。
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私のテストは私が敗れた。予想はしていたが、残り1%の望みも絶たれた。失意のまま、名古屋へ。またPCのハードが壊れたからだ。その途中、国府宮のUFJ銀行に所要で寄った。すると国府宮の裸祭りに出くわした。PCのデータの消失。テストの失敗。裸祭り。すべてが私にゼロから出発していることを求めるものである。私は深く決意した。今夜は本堂に篭ってもう一度自分を見直すつもりだ。
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三月一日 私はある決意をした。明日それを実行に移す。どうなるかはわからない。私にとって人生の中でも最も重たい決断だ。そしてその結果どうなるか。今日は激動の一日だった。
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