いじめ問題。遠い世界ではなく、近いところにも存在している。
各務原市の某中学校でもかなり深刻な問題になっているようだ。複数者によるいじめ。かなり陰湿化。学校側の対応も、いじめているものに対して個別対応せず、集団で謝らせたりして、彼らの感情を逆なでする方向で動いている様子。ひょっとすると、こうした措置しかできない先生たち自身も、職場で虐めをしていたのではないかとさえ感じる。傍観者ではいられないので、私なりには手を打ったが・・・。
数年前、僧侶の間で、私も苛められた。「坊主の社会はやくざの社会と同じだ」とさえ言われた。ショックだった。真理を求めるはずの僧侶が、俗以上に俗に堕していた。しかも、そうした虐めをしているのはいわゆる正義派と自分たちが思い込んでいる人達ばかりであった。今思えば、彼らは自分は虐めをしていたという意識は全くなかったと思う。正義の旗の元に制裁を加えているという意識だったのではないだろうか?しかし、正義という言葉は、自分達の都合の良い正義であり。決して真理に基づく正義ではないことが多い。私はその虐めを通して多くを学んだ。今思えば、これも大きな導きだったのかもしれない。おかげで私は得がたき人材との繋がりを得た。
会社でも苛めにあった。非常に厳しかった。「達磨に泳げと言うようなもんだ」と反論した際に、「それも面白いじゃないか。達磨もプールに落とせば泳ぐかもしれん」という返事が返ってきたこともあった。それでも何とか踏ん張ってきたが、途中で糸が切れてしまった。数ヶ月間休み無しの生活。劇痩せし、肺炎を起こし、精神的にもまいってしまった。しかし、今は思う。苛めていた人たちは苛めていたのではなく、私を叱咤激励しているつもりであったと思う。打てば打つほど伸びる人材だと思われていたのだろう。
同じ会社で部下を叱り付けた事があった。そして彼が突然会社を辞めた。そのときの責任は私にあったと今は思う。私は彼の引き起こした問題を叱りつけ、その後は事後処理をし、カバーをしたのだが、結果的には彼にとってはそれは苛めのように思えたのかもしれない。
ふと思い出した。小学校の時に虐めをしたことがあった。集団での虐めではなかったし、それなりの言い訳はあった。しかしそれも自分にとって都合の良い正義の仮面をかぶっていたように思う。私も加害者であったことがあったのだ。
虐めとは何か?苛めている本人が苛めていることを自覚していないことの方が多いのではないか?また、皆が他人事のように思いすぎては居ないだろうか?果たして、今までに一度も誰をも苛めたことがない人がどれほど居るのだろうか?
走馬灯のように、苛めに関わる経験が頭を過ぎった。自分が関わらなかったが、傍観者で居た苛めもあった。ひょっとしたら今もなにか傍観者で居ることがあるかもしれない。自分もまた、決して第三者ではないことを改めて感じた。
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