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2006年9月30日 (土)

懺悔・・・護摩供養にて

不動護摩。本来、28日に行われるものなのだが、今月は高野山に居たために、30日に繰り越した。

朝、起きて108支を鉈で作る。一本一本気持ちを込めて。そして、焼香や供物の準備。抜けたものはないかをチェック。

そして挨拶をし、まず懺悔文。今まで護摩行では懺悔文を読むことはなかったが、今日より挿入した。不動尊の表白に「懺悔を数えて望を施す」とあるように懺悔はとても大切だからだ。仏に、生死の繰り返しの中で積んできた悪業を懺悔し、その重荷を背負っていただく。その瞬間にその業により今の自分があるということを感謝するようになると、悪業は消え去り悪業でなくなっていく。この懺悔がないと悪業を背負ったまま祈りの世界に入り、結果的には新たな悪業を作ってしまう。だからこそ最初に懺悔文が必要なのだろう。

懺悔文に続いて般若心経。太鼓をココロを込めて叩いた。その響き一つ一つの中に、大宇宙の響きが込められている。そこを強く意識した。さらにその太鼓を叩きながら、十六分月法による月輪観をし、この身が智剣であり、そして不動尊であるという観念を施す。

そして護摩。今までの護摩は一段もしくは二段護摩で、表白の後にすぐに入護摩だったのだが、前方便の大切さを感じ、神分と五悔・普供養・三力を挿入し、三力の後に入護摩へ。今日は前段階の話が長引いたために一段護摩にした。火はきれいな火が昇った。柔らかく優しい火であった。気持ちのいい火といって良いだろう。祈願までスムース。そこで今日から、私の祈願の後に信者さんにも祈願をしていただこうと声をかけた。その瞬間に段が崩れた。私の意識が飛んだためか、信者さんのどなたかの思いが強すぎたせいなのかはわからない。ただその後は上手にまとめられたのではないかと思う。

護摩を焚き終わり、後方便を施し、壇を降り、真言。太鼓を叩きながら観念を整え終了。

今日の法話。自分にとって都合が悪いことが起きたときこそチャンス。そこで、その都合の悪いことは今までの悪業が消えていくチャンスだと捉え、懺悔し喜びに変えるものこそ、悪業が悪業でなくなっていく。そしてそれは自分にとってとても大切なことだと認識され、オセロゲームのように黒が全部白に変わっていく。たとえ話として、旦那さんがテレビで野球を観ていて、最もよい場面で「ご飯ですよ」と奥さんが声を掛ける。この瞬間にお互いにどう出るのかという場面を設定した。多くの場合、相手よりも自分の都合に合わせさせようとして、新たな悪業を積み重ねることが多い。しかし、お互いが相手に気を遣いつつも自分のことを伝えれば、それは悪業でもなんでもなくなっていく。出来事そのものに問題があるのではなく、その出来事をどのようにして受け止めていくかに大きな問題があることが多いということをお話した。これはどんなことにも当てはまる話だ。実際の法話ではもっと細かくお話した。

昨夜高野山から帰ってきて、これからが新たな出発。いや、今日既に一歩を踏み出した。先ほど今日の自分を振り返った。私にとっても都合の悪いことが今日早速起きた。そしてそれに悪業をつんでしまったことがいくつかある。すぐに仏に懺悔した。明日はその懺悔をより大切なものに切り替えていくよう努力するつもりだ。

変化に強い自分、その変化こそが命そのもの、これをもっと自分の身につけさせていきたいと思う。

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