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2006年9月21日 (木)

学問とは・・・修学とは・・・雑考

今日で勧学会の本会も半分が済んだ。そろそろ気が緩む頃だ。そこで初心に戻って、テキストを今日は読んでみた。釈摩訶衍論はやはり難しい。三十三種の法門がいまひとつピンと来ない。ただ不ニ摩訶衍だけはなんとなく理解できる。弘法大師がこの論にこだわったのはここなのではないかと思うのだが・・・。

勧学会が進むにつれ、論議の内容が徐々に見えてきた。そしてその論議が見えてくるようになると、あまり革新的な論議ではないような気もしてくる。小さな言葉にこだわりすぎて、高祖が何を伝えようとしていたのかということがなおざりになっている気がするからである。大切なのはこの大宇宙を実感することであり、その大宇宙を人間の浅知恵で分析することではない。人間の限定された浅知恵で無限の大宇宙を表現することなどは不可能に近い。無限は体感実感するものであって分析するものではないことを改めて感じる。この小さなことにこだわる学問のあり方は真言宗的というよりは天台宗の影響が強いのではないかと思ってしまった。・・・まだまだ浅知恵の私の不見識かもしれない・・・。

それともう一つは十六大菩薩。これは面白い。月輪観で最近十六大菩薩にこだわっているのだが、調べれば調べるだけ面白いものがる。アシュクの四親近の薩王愛喜は持戒忍辱、宝生の四親近の宝光幢笑は布施、阿弥陀の四親近の法利因語は定と慧、不空成就の四親近の業護牙拳は精進と六波羅蜜にも対応しているという。確かに五相成身という観法で心を表す月は六度の薫習されるゆえに大心であるといわれている。それゆえに福智を円満するとも言われる。そう考えると、十六分つきを用いる月輪観は、実に巧妙に仕掛けのしてある観法であることが見えてくる。十六大菩薩と十六分月、観法の実践と、経軌による修学、共にこれからも実践していこうと思う。まぁ、何もせずにただただ黙って座っている時間が長いので、妄想癖のある私にとってはこの観法はありがたい。

さて明日のために今日は早く寝ようと思う。今宵はこれまで。

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