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2006年9月 5日 (火)

儀礼を生かすには

今日から高野山の勧学会の二年目・三年目が出席する二日廻しが始まった。初日なので、法会課の方々が丁寧に説明。私も二年目を受けて二十年近く経つ。あまりにも多くのことを忘れていた。この勧学会に参加して改めて思う。真言宗は儀礼を重んじる。時には過度なくらい形式的だ。しかし、よくよく見つめてみるとその儀礼にはかなり深い意味がある。例を出せば、挨拶で膝を落とす場合、袈裟を踏んではならないという。袈裟は法を象徴するもの。釈尊を象徴するもの。それらを重んじるという意味で袈裟を踏むことは許されない。しかし、その意味合いを無視している限り、そこにあるのはただ単なる儀礼。やはりその儀礼に参加するものの心構えが大切。真言密教は他の仏教と異なり対機説法ではない。こちらの機に合わせて大宇宙が法を説いているのではない。自分自身が法身に合わせていくことが大切。つまり、どんな儀礼でも、その意味合いを自分から掴んでいくことが大切だというのだ。この視点に立てば無駄なものなど何もない。

改めて感じた。大宇宙の真理が形あるものとしてこの現象に現れている。その意味で儀礼に参加し、その儀礼の奥を感じ取り、そ儀礼の形と意味を身につけることの大切さを。形式主義に陥りやすい儀礼。特に密教の儀礼は形式主義に陥りやすい。だからこそ、その儀礼を型だけに守るのではなく、型に血を入れ形にしていくことが大切なのだろう。

私は今まで儀礼を割合と軽視してきた。しかし、この勧学会に改めて参加させていただき、その深みを得ることは自分自身の問題であることを改めて感じる。勧学会だけではない。ありとあらゆることに、この考え方は大切なのではないかと感じている。今回、こうして参加させていただけたことに深く深く感謝する。

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