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2006年9月30日 (土)

得度

今日、得度を受けたいという人が訪れてきた。今まで何度も面会しメールのやり取りをし、そして私を師匠としたいというのだ。特別に坊さんになりたいというわけではない。しかし縁があり高野山の参与となり、そして得度を受けたいというのだ。お護摩に参加していただきその後にお話をし、そして得度をすることに決めた。十一月七日に執り行う。これから私は彼の戒名を探さなくてはならないが、この得度式を大切にしていきたいと思う。

ちなみに私が得度をしたのは、昭和60年(1985年)の春のこと。もう僧侶になり21年を過ぎた。そして縁があり、この9月28日に高野山の阿闍梨供昇を得ることができた。ただただありがたい。

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懺悔・・・護摩供養にて

不動護摩。本来、28日に行われるものなのだが、今月は高野山に居たために、30日に繰り越した。

朝、起きて108支を鉈で作る。一本一本気持ちを込めて。そして、焼香や供物の準備。抜けたものはないかをチェック。

そして挨拶をし、まず懺悔文。今まで護摩行では懺悔文を読むことはなかったが、今日より挿入した。不動尊の表白に「懺悔を数えて望を施す」とあるように懺悔はとても大切だからだ。仏に、生死の繰り返しの中で積んできた悪業を懺悔し、その重荷を背負っていただく。その瞬間にその業により今の自分があるということを感謝するようになると、悪業は消え去り悪業でなくなっていく。この懺悔がないと悪業を背負ったまま祈りの世界に入り、結果的には新たな悪業を作ってしまう。だからこそ最初に懺悔文が必要なのだろう。

懺悔文に続いて般若心経。太鼓をココロを込めて叩いた。その響き一つ一つの中に、大宇宙の響きが込められている。そこを強く意識した。さらにその太鼓を叩きながら、十六分月法による月輪観をし、この身が智剣であり、そして不動尊であるという観念を施す。

そして護摩。今までの護摩は一段もしくは二段護摩で、表白の後にすぐに入護摩だったのだが、前方便の大切さを感じ、神分と五悔・普供養・三力を挿入し、三力の後に入護摩へ。今日は前段階の話が長引いたために一段護摩にした。火はきれいな火が昇った。柔らかく優しい火であった。気持ちのいい火といって良いだろう。祈願までスムース。そこで今日から、私の祈願の後に信者さんにも祈願をしていただこうと声をかけた。その瞬間に段が崩れた。私の意識が飛んだためか、信者さんのどなたかの思いが強すぎたせいなのかはわからない。ただその後は上手にまとめられたのではないかと思う。

護摩を焚き終わり、後方便を施し、壇を降り、真言。太鼓を叩きながら観念を整え終了。

今日の法話。自分にとって都合が悪いことが起きたときこそチャンス。そこで、その都合の悪いことは今までの悪業が消えていくチャンスだと捉え、懺悔し喜びに変えるものこそ、悪業が悪業でなくなっていく。そしてそれは自分にとってとても大切なことだと認識され、オセロゲームのように黒が全部白に変わっていく。たとえ話として、旦那さんがテレビで野球を観ていて、最もよい場面で「ご飯ですよ」と奥さんが声を掛ける。この瞬間にお互いにどう出るのかという場面を設定した。多くの場合、相手よりも自分の都合に合わせさせようとして、新たな悪業を積み重ねることが多い。しかし、お互いが相手に気を遣いつつも自分のことを伝えれば、それは悪業でもなんでもなくなっていく。出来事そのものに問題があるのではなく、その出来事をどのようにして受け止めていくかに大きな問題があることが多いということをお話した。これはどんなことにも当てはまる話だ。実際の法話ではもっと細かくお話した。

昨夜高野山から帰ってきて、これからが新たな出発。いや、今日既に一歩を踏み出した。先ほど今日の自分を振り返った。私にとっても都合の悪いことが今日早速起きた。そしてそれに悪業をつんでしまったことがいくつかある。すぐに仏に懺悔した。明日はその懺悔をより大切なものに切り替えていくよう努力するつもりだ。

変化に強い自分、その変化こそが命そのもの、これをもっと自分の身につけさせていきたいと思う。

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2006年9月29日 (金)

いよいよ本番が始まる

お寺に戻ってきた。高野山上での修行は終わり、これからが本番。これまでの成果をいかにしてこの世間で出していくのか、ここにポイントがあるように思う。

カミサンも東京から帰ってきた。名古屋まで迎えに行った。彼女も虚しく行きて、満ちて帰ったようだ。

明日はお護摩の代替日。そして10月も目の前。新たに生まれ変わった自分がどこまでいけるか、とても楽しみだ。

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今から高野山を下山する

これから高野山を下山する。長かったようで短かったこの一ヶ月。この成果を身体に馴染ませ、より精進していくかどうかは自分次第。特に六波羅蜜の実践と四摂、これは一見波羅蜜乗(顕教)と思われがちだが、実は深い意味で密教なのだということを強く感じ取った。これからがスタートだ。

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2006年9月28日 (木)

学道(勧学会)三年目成満

今日、勧学会が終了した」。9月5日から始まり、今日で結願。一ヶ月近くもお寺を空け、しかもお彼岸に居ないという暴挙にも近いものだったが、今回はそれなりに成果が出せたと思う。形式的には「阿闍梨供昇(あじゃりくしょう)」と「三年目講讃了」をいただいた。内容的には多くの知人を得、不思議な縁をいただき、また過去帳の記入、そのほか自分自身の修法の深め方などを体得できたと思う。

金剛峯寺の上段の間で行われた儀式は圧巻だった。壇上伽藍の御影堂(みえどう)の内内陣に厳重に保管されている過去帳。そこに名を記すことができたからだ。三年目修了者のみに与えられる特権。お寺の名前と、戒名と出身地を記入する。「平成十八年 高家寺 大法師 宥智 (花押) 尾張産」緊張しながら記入させていただいた。これで私を通じて、高家寺に縁のある方々も供養できると思う。高家寺の歴史の中で、この過去帳に名を記すことができたのは初めてのようだ。記帳の後に過去の方々の名前を見た。師匠の名前を見つけた。そして修行の師であり師匠の師である南院の前官さんの迫力ある字。そのほか縁のある方々の名前を次々に見るたびに思わず涙がこぼれ出ていた。なぜ涙が出てきたのか分からないが全身から感極まる思いがあったのは事実だ。おそらく高野山でこうして縁をいただかせていただく方向へ導いてくださった多くの先師たち、高家寺に連なる歴代の住職たち、そして高家寺に連なる有縁の方々の、さらには私を高野山に導いてくださり今もなお導いてくださっている多くの方々、そのほか有縁の方々の思いが一心に込められたのだと思う。これで毎日高野山壇上伽藍で御影堂で、高家寺の名が入った過去帳が供養されることになった。ただただ嬉しいばかりだ。この縁をもっともっと大切にして進んで行きたい。

この学道で知り合った多くの方々にも感謝する不思議な縁が一杯あった。

そして何よりも、師匠と宿を貸してくださった南院さんに心より深く感謝する。

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2006年9月27日 (水)

高野山でゴキブリを見る

高野山の町を歩いていたらゴキブリを発見。ヨタヨタ歩きだった。お彼岸も過ぎかなり寒くなったせいもあると思う。ふと二十数年前のことを思い出した。ある方のお見舞いがあって高野山病院へ行ったときのことだ。

目の前でゴキブリが飛んだ。それを見て、小学校に入るかは入らないかのこどもが、「わぁ、キレイ」。思わず、耳を疑った。エッ、ゴキブリがキレイだって????高野山は、その寒さゆえにゴキブリがほとんど居ない場所だった。ただ病院は暖房施設が整っているためにゴキブリが一部生息していたのだろう。このゴキブリに対しての子供の反応がショックだった。今思えば、それにショックを覚えた私の方が色眼鏡を掛けていたことが分かる。

街中でもゴキブリが闊歩するようになってきた高野山。暖房設備のこともあるだろうが、地球温暖化によって生態系が変わってきた可能性も否めない。三億年もの間、行き続けてきた種。このゴキブリの生息地は、地球環境の変化の指針になる可能性もある。

ゴキブリを見て他にもいろいろ思ったが、あまりこのことを書き続けると、ゴキブリが大の苦手なカミサンに叱られるので、今日はこのあたりで・・・。

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2006年9月26日 (火)

本会(ほんね)が終了

勧学会の本会(ほんね)も今日が最終日だった。あれほど蒸し暑かったのが、今は乾燥していて、とても寒い。一ヶ月とはこれほど気候を変えるものなのかと感心している。

遅刻が許されない朝起きはかなり辛かった。胃が痛くなるほどだった。明日からは、出仕の時間が少し遅くなる。これで少しは楽になりそうだ。明日明後日で終了。まだ完全に終わったわけではないので気を引き締めないといけないが、今日の御本地供を終えた瞬間、とても嬉しかった。こうした縁をいただけただけでも心から感謝している。

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ある学会の環境と宗教の発表への感想

今日、自分なりのメモを整理していてあることを思い出した。

とある学会の研究発表でのこと。この学会は非常にリベラルで、なんでも発表できる場であったのだが・・・。

日ごろの研究では尊敬できるK先生の発表。しかも、環境問題と宗教がテーマ。私は忙しいのを万障繰り上げて、片道3時間の行程を掛けてその学会に向かった。
そして、発表を聞いて愕然とした。そこで以下のような質問を投げかけた。
(1)「アルネ・ネスをご存知ですか?」
ディープエコロジーという言葉を出した場合、最初に当たらねばならないのが、その言葉を生み出したアルネ・ネスの論文。エコソフィーという言葉をも生み出したのだが、それはあまり注目されず、ディープエコロジーという言葉のみが独り歩きしている。ディープエコロジーとは、一つの問題解決に焦点を当てるシャローエコロジーに対する言葉。アルネ・ネスはその両者が大切であること、そしてその考えに至った経緯、そして社会学的な見地からの見解をその著書『ディープエコロジーとは何か』で述べている。さらにその後に、追加するようにしてプラットフォーム理論というものを出して、宗教と環境のかかわりに関しても言及。このアルネ・ネスの研究はディープエコロジーを語る場合欠かせないもの。これなくしてディープエコロジーを語るのは、聖書を読まずしてキリスト教を語るのと同じくらいの問題である。
「アルネ・ネスをご存知ですか?」。ところが、K先生は全くその存在すらご存知なかった。そこでディープエコロジーを批判されるような発言をされていることに愕然とした。ここで頭に血が上ってしまった。有名大学の教授であればこんなことも許されるのか・・・と。
K先生は優秀な方であるのは分かる。だからこそ基本文献に当たられず、アルネ・ネスが何十年も前に批判的に述べたような社会学的な見地からの切り口に終始されていることに驚きを隠せなかった。。

(2)「環境問題は演繹的にではなく、帰納法で語るべきなのでは?}
環境問題を、社会学などの一理論を元に演繹的に語ること、そのものに問題がある。一般論から具体論を導き出すことは、環境問題のような自然科学と領域を共有する学問の世界では、一種のタブーではないか。一般論はあくまでも仮定であり、その仮定が崩れ去ると全ての具体論が崩れ去ってしまう。自然科学は、実験が行われたり、仮説を立て、それを検証していくことで、答えが導き出される世界。地球上の生命の絶滅という緊急事態を迎えているからこそ、具体的な例に着目し、そこを切り口に他のものも同じ問題を抱えており、そこから仮説を立てて、その解決に向けて論を進めていく帰納法的な考えをしなければ環境問題を論ずることはできない。アルネ・ネス以外のディープエコロジストを自称する方々にソーシャルエコロジストなどから批判が集まったのは、演繹的な考え方に終始し結果的には何も解決する方法を提示しないことに対する怒からだった。私はソーシャルエコロジストほど過激な人間ではないが、環境問題の基本がなされていないK先生のお話に悲しみさえ覚えた。皮肉で「演繹的な方法では意味がないのでは」というような発言をしたが、その皮肉さえ理解していただけなかった。社会学から見る環境問題は、やはりアルネ・ネスの論文は無視できないものだ。

(3)「内が充実すればこそ、自然に外に向けて活動ができるのではないか?」
一人の人間として、K先生の論理の構成そのものに矛盾が含まれていることそのものを批判したくて、私自身が何をしているのかを語った。ある方向へ進んでいく必要があるとおっしゃりながらも、自分自身が何もされていないという矛盾を強く感じたからだ。「宗教は第三者的ではいけない」といいながら、ご自分は環境問題に第三者で居られた。ここを思いっきり皮肉ったのだが、これさえ理解していただけなかった。ある意味、学問の場の限界かもしれない。その学会に集まられている先生方は皆それぞれの信仰を持っている。ある先生などは偏狭だが、その信仰ゆえに逆に深い説得力もある。ところが、K先生には全くそれを感じさせられない。何か自分とは全く関係のない世界のことを語っておられるようにしか聞こえてこなかった。

ただ私個人も、かなり感情的になり、時間も気になって、論理的な話をしなかったことに深く反省している。それ以上に、論理的な話をする以前の問題だったように私には感じさせらた。ただK先生のおかげで、他の先生方の宗教心のあり方を教えていただくことができ、とても嬉しく思えたのも事実だ。信仰を持たない方の話は、論理的であるにせよ、それが人を強く動かすことはあまりない。ところが信仰を持っておられる方々の話は、論理を超えているがゆえに、深く人の心を撃つ。こうしたことを知る場でもあるこの学会は実に面白い場。
K先生のような方も居られてしかるべし、そのような立場になっていなかった自分が、まだまだ未熟であることも知らされた。
K先生のほかの研究に関しては私も注目しているし、あくまでも環境と宗教という今回のご発表に対する私の個人的な見解が上記のようなものだ。

今読めば恥ずかしい文章だが、自分の感情が溢れ出ている文章なので、あえてここに転記しようと思った。

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2006年9月25日 (月)

四摂を意識する

今日も密教経典をつらつら読んでいた。そこで、感じたこと。やはり密教は大乗仏教だという当たり前のことだ。その大乗仏教をいかに見に修めるか、それこそが密教の眼目であることを改めて感じる。空海はその大乗仏教を内に修めるほどの宇宙観を体得したのだろうという想いも同時に起きる。特に感じたのは四摂(ししょう)と呼ばれるもの。大乗仏教に一切衆生を導く方法だ。布施・愛語・利行・同事の四種。貪りの思いの強い人には布施をし、怒りが強かったり傲慢な人には優しい言葉を用いて語り、相手の利益(りやく)になることを行ったり、素晴らしい知識を持つ人に自ら学び、相手と自分とが同じ事を成して行くという社会的にごくごく当たり前のこと。これが非常に重要視されているのだ。密教経典のあちこちにこの四摂が説かれている。

ただ学問的なことだが、四摂の菩薩である鉤索鎖鈴にこの四つを順に配当する伝統教学には疑問がある。経典のどこにもそのことは記されていない。むしろ、四摂菩薩全てに四摂の方便力が宿されており、その門に入れる順というか役割によって四人の仏になっているだけのような気がする。このあたりはもう少し経典類を調べてみようと思う。

自らが持てるものでないものに布施をし、相手に愛に満ちた優しい言葉で語りかけ、相手の利益(りやく)を考え行動をし、相手と同じ事を行っていく、この基本路線はどんなところでも大切であると改めて感じる。この四摂、これからしばらく強く意識し、自分の体に馴染ませていこうと思う。この当たり前のことが見についていなかった自分をいまさらながら反省をし、このことに気づかせていただく時間を与えてくれた勧学会に深く感謝する。私を見守って導いてくださっている大いなる命の方々に改めて感謝したい。

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2006年9月24日 (日)

高野山にもマクロビオティックの小さなお店ができた

高野山にマクロビオティックのお店ができている。小さなお店で、完全なマクロとは言いがたいが、まぁ高野山としては画期的だと思う。最近よく利用する。玄米を食べないと身体がどうも調子が悪いからだ。高野参上のお寺で玄米を食べることは今の段階では難しい。だからこそ、そのお店に通っている。そうすれば少なくとも二日に一回は玄米に戻ることができるからだ。またお店に行かない日は玄米と大豆でできているテンペを食べている。これでどうにか調子を保っているのかもしれない。しかし、自宅に戻って食生活を取り戻せる日が近づいていることに嬉しさを覚えている。マドンナのプライベートシェフの西邨まゆみさんが、そういえば面白いことをわたしたち夫婦に言ってくれた。「玄米を食べている人は皆家族」。これは面白い発想だと思ったが、今ではそれを強く感じる。

マドンナがあの小さな体で世界中の人を魅了するコンサートを行うことができるのも、今ではまゆみさんなしでは語れない。マドンナに合った食をマクロビオティックをベースに提供しているまゆみさん。彼女の凄さを日が経つに連れて思い知らされている。彼女の講演会を来年の一月に開く予定でいるが、そのときが待ち遠しい。

そして今一番待ち遠しいのは、うちのカミサンの手料理だ。食のありがたさを改めて感じる。ちなみに、真言密教では食は禅定と繋がっている。食はおなかを満たしカラダを整える。禅定は心を満たしココロを調える。この、満たし調えるということから食と禅定は結びついている。うーむ、もう少し突っ込んで一つ一つの食に密教の理論を当てはめてみたくなった。密教経典群を調べ上げて、密教の食事を見つめなおしてみよう。

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高野山の早朝は寒くなった

今日の勧学会は寒かった。頭から縮緬帽子をはずすと、ヒヤッとした。朝の6時頃だろうか。私はちょうど柱のところに座っているのだが、左側の後ろは別の部屋があり、右側の後ろは。御簾を上げればすぐ表。右だけが異様に冷えて、結構辛かった。

ただ正座で端坐しているときは、五字文殊法を観念で行っているので、あまりが外温は気にならない。むしろ、一つ一つの観念を丁寧に仕上げることに集中している。今日は不思議な感覚を覚えた。入我我入観の際に、私は五相成身という『金剛頂経』に基づく修法を行っているが、その後に、仏を我に入れ、我が仏に入っていく。そのときに特に後半に感じた皮膚感覚は驚くほどの気持ち良さであった。そして、お寺で御本地供。このときの入我我入観でも同じことが言えた。何かが変わり始めている。ただ最初この気持ち良さに気をとられていたが、ふと気づいた。この気持ち良さは気持ち良さとして、自分のうちに取り込まねばならないと。自分がその気持ちよさに取り込まれると魔道に陥りやすくなる。皮膚感覚の気持ちよさには大きな落とし穴があるからだ。明日の端坐のときは、むしろその前段階の、五相の初段階である月輪観に力点を置こうと思う。十六大菩薩について『略述金剛頂瑜伽分別聖位證法門』の内容をもっともっと自分のうちに取り込んで行きたい。一つ一つの仏のシンボルが、より明確に印じられるように深く深く掘り下げようと思う。

明日は朝の冷気を、皮膚感覚に囚われないようにするための道具として活用してみたい。

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2006年9月23日 (土)

十六大菩薩を学ぶ

月輪(がちりん)観を十六分月で修しているために、十六大菩薩を観想している。最近、かなり練れてきた。そこでもっと練るために経典儀軌を調べることにした。まず高祖弘法大師空海が唐より持ってこられたものが大切と思った。そこで弘法大師の仏身観の典拠となっている『略述金剛頂瑜伽分別聖位修證法門』(大正十八巻 288b)を紐解いた。驚いた。以前に読んだときは通読だったためか、あまり入ってこなかったが、今回はびっくりするほど感激した。やはり十六大菩薩の思想は凄い。一人ひとりの菩薩の中に深い意味がこめられている。これで明日からの月輪観が楽しみだ。どのように練ることができるだろうか?

昔、ある方に言われた。「経典は体験の後付のために大切だよね」。今、この言葉が胸の奥で響いている。

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マドンナの興行収入へのやっかみ記事に哀しみを覚えた

マドンナがこのワールドツアーで最高の売り上げをしたという。女性では新記録だそうだ。そのことを荒稼ぎと揶揄する記事を見た。あまりのレベルの低さに絶句。彼女はこのコンサートをするのにどれほどの練習を重ねどれほど練り上げたか想像できるだろうか。そしてバックダンサーズも、また彼女たちを支えるスタッフもどれほどぎりぎりのところでやっているのを知っているのだろうか。また彼女の思想的な深みやその思いの熱さを知っているのだろうか?これらを知っていたら二百数十億円の興行収入があったとしても驚くに値しないと思う。彼女は前回のコンサートで興行的には芳しくなかった。イラク問題のさなかに戦争反対のコンサートをし、共和党からは民主党応援コンサートと揶揄され、民主党員の一部からも非常識と言われた。そして数年、今あのときのコンサートが非常に評価が高くなっている。しかし、マドンナはそのときの反省からメッセージ性を落とすことなく、より原点であるダンスを取り入れ、体の芯から彼女のメッセージを伝えようとしたのが今回のConfessionsだ。このタイトルの意味を考えて、あのような記事を書いたのだろうか?あの記事を書いた記者に対して、またあの記事を載せた新聞に対して、その見識の低さに、とても哀しみを覚える。

十字架に対する弁明とした朝日新聞の記事にも疑問だ。あれは弁明ではなく説明なのではないだろうか。どうして弁明なのか?http://www.asahi.com/culture/enews/RTR200609220033.html

日本の新聞社の方々に言いたい。すばらしい記事を書く方とそうでない方との差が激しすぎる。そうでない方々は逆にマドンナを見習って欲しい。プロとはどれほど自分を磨き上げるのかを。そうすれば彼女を批判できなくなる。よくよく反省していただきたい。

ちなみにこの文章を書きながら私も自己反省している。現実的に私もシェフを通して彼女が非常に身近になった。彼女の前に立ったとき、彼女に恥ずかしくない真言学侶でありたいと思う。

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2006年9月22日 (金)

マドンナのコンサートの曲目・・・不確かだけど

カミサンによると今回のマドンナのコンサートの曲目は以下のようだったらしい。

馬の映像が流れてきて 1)・Future Lovers

ドナ・サマーの 2)I Feel Love

3)Get Together

ご存知 4)Like a Virgin を舞台向かって右袖を中心に

カミサンが大好きな曲 5)・Jump

十字架に架かって 6)・Live to Tell/Confessions Transition 前回は気づかなかったが頭に茨の王冠をかぶっていたとのこと。この歌で、束縛からの解放、本当にイエスが何を言いたかったのかを語ったのではないか?
十字架から降りてきて 7)―Live To Tell

私が大好きな曲  8)・Forbidden Love  この細胞分裂の映像は彼女の凄さを物語っている。どれだけの人が理解できただろうか?特に、二人の人がダビデの星とイスラムの象徴である月と星を胸に描いていたことに深い意味がある。カミサンも僕の説明の後だったから、かなり感動したらしい。映像がロスよりも鮮明だったそうだ。ただ最後が少し違っていたとか・・・。

インド人のお友達と歌う 9)・Isaac/Shofar

ロスでは言わなかった「ゴメンナサイ」があった 10)・Sorry

11)・Like it or Not

ブッシュ批判。世界の支配者を皮肉ったもの。12)・Sorry Remix Krump Transition  小泉さんが出なかったのは、日本はそんなに重視されていないってことかも・・・

これも私が大好きな曲 13)・I Love NY アップテンポで、他のアルバムよりこのコンフェッションズのものがいいという私たち夫婦の意見。

14)・Ray of Light  のりの良い曲。上記の曲とよく似ている。

15)・Let It Will Be  コンフェッションズの中の曲

16)Drowned World  座ってやさしく歌う曲。私も大好き。この曲をロスでは椅子に座って歌ったが、日本では椅子じゃなかったそうだ。どうやって歌ったのだろう?

17)Paradise Not For Me  スローテンポノ一曲。

18)Music Inferno カミサンの大好きな曲。大いに乗って踊ったとのこと。

19)La Isla Bonita 映像がきれいだったそうだ。

20)Erotica Disco Mix  有名な一曲。最後の前のクールダウン?

21)Lucky Star 大いに盛り上がる歌。マントのきらめきが良かったとか。

22)Hung Up  ここが最後の盛り上げ。どうもこの曲がアンコールだったようだ。

残念、私はロスのみだったが、カミサンがうらやましすぎる!

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うらやましい・・・カミサンが・・・

カミサンがマドンナのコンサートに行った。今朝になって、なかなか席のことを言わない。口ごもってしまって・・・どうしたのだろうか?・・・問いつめたけれど返事がない。昼前にもう一度電話をした。すると白状した。「フロントロー」。最前列だったそうだ・・・ゥワーオ!他の人と一緒に行ったそうだったが、逆に何も言えなかったそうだ。そりゃそうだろう。大阪ではファンクラブの席。ところがふたを開けてびっくり。オークション席だったそうだ。目の前でマドンナが現れ、ステージから下に降りてきたときは、もう触ることができるほど、息遣いが感じるほどの近さまでやってきたそうだ。そして東京ドーム。縁を得ていただいた席がフロントロー。もう腰が抜けるほどびっくりしてしまったそうだ。大阪のときのようにいつもだったら大騒ぎするのに、予想をはるかに超える席だったものだがから、カミサンは異様に神妙だった。本来私もその横にいるはずだったが、高野山に居て行けなかった。残念。でも、その分だけ彼女の親友の秘書仲間が一緒だったと聞いてホッとした。

徐々にマドンナとの距離が狭まってきている。これは意識したことではなく偶然そうなっているのだ。次回は、彼女のロンドンかビバリーヒルズのお家だったりして・・・ハハハハハ。

これもみな、彼女のプライベートシェフの西邨さんのおかげ。思わぬ副産物を得て心より喜んでいる。次は、西邨さんの企画を最大限に盛り上げたい。これが恩返しだと思っている。さぁ、ハリウッドセレブに見るこれからの食のあり方、そして給食改革に向けて・・・私もカミサンと共に歩んで行くぞ!

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2006年9月21日 (木)

学問とは・・・修学とは・・・雑考

今日で勧学会の本会も半分が済んだ。そろそろ気が緩む頃だ。そこで初心に戻って、テキストを今日は読んでみた。釈摩訶衍論はやはり難しい。三十三種の法門がいまひとつピンと来ない。ただ不ニ摩訶衍だけはなんとなく理解できる。弘法大師がこの論にこだわったのはここなのではないかと思うのだが・・・。

勧学会が進むにつれ、論議の内容が徐々に見えてきた。そしてその論議が見えてくるようになると、あまり革新的な論議ではないような気もしてくる。小さな言葉にこだわりすぎて、高祖が何を伝えようとしていたのかということがなおざりになっている気がするからである。大切なのはこの大宇宙を実感することであり、その大宇宙を人間の浅知恵で分析することではない。人間の限定された浅知恵で無限の大宇宙を表現することなどは不可能に近い。無限は体感実感するものであって分析するものではないことを改めて感じる。この小さなことにこだわる学問のあり方は真言宗的というよりは天台宗の影響が強いのではないかと思ってしまった。・・・まだまだ浅知恵の私の不見識かもしれない・・・。

それともう一つは十六大菩薩。これは面白い。月輪観で最近十六大菩薩にこだわっているのだが、調べれば調べるだけ面白いものがる。アシュクの四親近の薩王愛喜は持戒忍辱、宝生の四親近の宝光幢笑は布施、阿弥陀の四親近の法利因語は定と慧、不空成就の四親近の業護牙拳は精進と六波羅蜜にも対応しているという。確かに五相成身という観法で心を表す月は六度の薫習されるゆえに大心であるといわれている。それゆえに福智を円満するとも言われる。そう考えると、十六分つきを用いる月輪観は、実に巧妙に仕掛けのしてある観法であることが見えてくる。十六大菩薩と十六分月、観法の実践と、経軌による修学、共にこれからも実践していこうと思う。まぁ、何もせずにただただ黙って座っている時間が長いので、妄想癖のある私にとってはこの観法はありがたい。

さて明日のために今日は早く寝ようと思う。今宵はこれまで。

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2006年9月20日 (水)

九月の守護尊カードを高野山で作る

守護尊カードを昨日に作り上げ、高家寺に送っておいた。今回は、浪切不動尊の御本体の祀られる高野山南院で作られたもの。大いなる縁を感じる。今月の六体の主語尊は如来部が阿弥陀如来・菩薩部が千手観音・供養部が金剛鏁菩薩・守護部が広目天・天部1が水天・天部2が難陀龍王。以下にその意味とメッセージを記す。

阿弥陀如来
意味は
大慈悲・清浄の仏。無量の光、無量の寿を意味し、西方極楽浄土の主である。蓮華を象徴とする。別名観自在王。
メッセージは
すでに阿弥陀の大慈悲によって救われている。大いなる光に包まれている。清らかな心と智慧を使って、他者を救うとき。

千手観音
意味は
いろいろな姿に変化して救いを実践される観音様のなかで、変化しつくした観音様。慈悲の心で、あらゆる手段をもって衆生済度する。白蓮華を象徴とする。
メッセージは
悲しみをよく知るものこそ大いなる愛を知るもの。ありとあらゆる手段を尽くして他者を救う者は自分をも救う。

金剛鏁(こんごうさ)菩薩
意味は
金剛界曼荼羅の四摂菩薩の一。西門に住する。悪趣に落ちないように衆生を仏道に繋ぎ止めることを本誓とする
メッセージは
他を振り向かず今の自分をよく保ち、他者にとっても自分にとっても利益になることを心がけるとき。

広目天
意味は
四天王の一人。白銀山に住み、須弥山の西方の守護神。様々な物をもって諸々を荘厳することを本誓とする。
メッセージは
広く周りを見渡し、様々なもので周りを飾りつけるとき。心身も部屋の中も仕事場所も大いに飾りつけよ。

水天
意味は
十二天・八方天の一。西方の守護神。如来の大悲と大智を司り、天地を保持し、神と人の両世界をよく知る水の神。
メッセージは
水は布施の象徴。自分の持てるものを他者によく与えよ。財施でも良い。和顔・愛語・畏れる者の傍(かたわら)に居るのも布施。

難陀龍王
意味は
仏法護持の善龍王。諸龍王中最も優れた龍王。慶喜の徳で衆生に歓喜を与えることを本誓とする
メッセージは
雨は潤いを与えてくれる。龍王のように他者に歓喜いう潤いを与えるとき。そのとき自分にも潤いが与えられる。

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『原理主義から世界の動きが見える』書籍紹介

同志社大学の先生方による一神教の学際の本が出た。イスラム・キリスト・ユダヤ(アイウエオ順)の話。これは現在の一神教を知る上で、欠かせない本だと思う。世界の火薬庫がなぜ火薬庫なのか、彼らの思いとは何なのか、一神教とは何なのか・・・。ここを理解しないと、分からないことがたくさんある。作者のお三方は、単なる学者ではなく、その宗教の中で生きておられるかただ。そして同じ大学で、お互いが話し合い、宗教間対話も実践されている。ここが大切な点だ。心ある人にはぜひ読んでいただきたい。

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2006年9月19日 (火)

マドンナのコンサートの思い

マドンナ。来日中。20日と21日に東京ドームでコンサート。既に大阪ドームは終了した。彼女のコンサートをロサンゼルスのステープルスセンターともう一箇所(内緒なので場所は明かせません)で観た。幾つかコンサートのことこのブログでも書いたが今日はそのまとめを。

彼女のあの思いをどれだけの人が理解できるだろうか?これが少し疑問であった。十字架に掛けられた時の歌が、LIVE TO TELL。ロスの場合はこの映像が心を打つように流れていたが、もう一箇所の方は、映像はきれいだったのだがインパクトが薄かった。エイズで死んでいく子供の数。社会的な問題を取り扱うマドンナならではの社会的なメッセージ。だからこそ十字架に架かり、頭に茨の王冠をし、そしてそこから降りてきて、涙を流しながら大地に倒れこんでいく。ここの思いはあまりにも熱かった。

そしてその直後に流れた歌が、FORBIDDEN LOVE。禁断の恋と訳されるもの。流れた映像は細胞分裂により宗教のシンボルが現れるというもの。二人のバックダンサーの胸には、イスラムのマークと、イスラエルのマーク。この二人が絡み合いながらも、その間にマドンナが入りとても仲良くなっていくというもの。世界の火薬庫である中東の情勢を憂えるマドンナが、それを越えて平和を希求するというもの。彼女は宗教の持つ弊害を知っている。しかし、その宗教を否定するのではなく、それぞれをありのままに受け入れ、そしてお互いが認め合っていくことの大切さを教えてくれている。宗教のシンボルマークも、まさにそのことを教えてくれたのだろう。しかし、日本人であのシンボルが各宗教のシンボルであると気づく人はいったいどれだけ居るのだろうか。これも、知っているか否かの差だ。目が開かれればマドンナの思いが熱いほど伝わってくる。そうすればもっと盛り上がるのだろうけれども・・・。

またブッシュはじめ、政治家たちの映像が流れた瞬間があった。日本ではこの映像は分からないのではないかと感じた。おそらく理解できる人は10人に一人居ないのでは・・・。しかし、それを理解する人にとってはマドンナが自分の心の中に流入してくることを感じる。きおの政治家たちに対するマドンナの強烈な批判精神をぜひ体感してもらいたい。

うちのカミサンが21日にコンサートに行くらしい。そこでどのような状況だったのか、後ほど聞いてみたいと思う。

マドンナの思い、一人でも多くの人に受け取ってもらえれば、それをせつに願う。

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2006年9月18日 (月)

『わかるユダヤ学』 お勧めの一冊

世界のニュースを見つめると中東問題が毎日のようにトップに近い記事で出ている。しかし日本ではそれほど大きく取り扱われることはない。ある意味、日本の方が特殊事情なのかもしれない。それはユダヤやイスラムを知らなさ過ぎるともいえるだろう。

ユダヤを専門とされる同志社大学の手島先生と知り合うことができ、彼の著作を読み始めた。まずは手軽なものからと思い、『わかるユダヤ学』を読み始めた。面白い!一般的な日本人よりはユダヤを知っているつもりでいたが、それがつもりであったことが痛いほど感じた。やはり私は知らなさ過ぎた。さまざまな切り口からユダヤを語った本。

ヨルダンのフセイン国王であったアミール・ファイサル・フサイニー(1933年アラブ過激派により暗殺)、ファウジ・エル・フセイニ(1946年暗殺)、マルティン・ブーバーらの推進していたイフード運動をどれだけの人が知っているだろうか?ファウジと比べるとアラファトは子供だといわれるくらいの人物だそうだ。

ユダヤ人にはスファラディーとアシュケナージという二つの流れがあり、それが何を意味しているのか正確に知っている人がどれだけいるだろうか?

ユダヤ人といった場合、ユダヤ民族とユダヤ教を信じる人という二つの意味を持っていることを一般的に知っている人はどれほどいるだろうか?

旧約聖書という言葉はあくまでもキリスト教をベースにした考えでありユダヤ教ではありえない言葉であることをどれだけの日本人が知っているだろうか?

まだまだ数え切れないほどの知識が詰まっているにもかかわらず、とても読みやすくなっている。世界を知るためにはユダヤは避けて通れない。それを手早く正確に知るには、この本はお勧めだ。

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法爾と願い事

高野山はすっかり涼しくなった。半袖では夜はもう寒い。足も裸足では冷たいほどだ。今年の高野山は日中が34度を越すこともあったそうだ。温暖化のせいなのだろうか。それでも秋を迎えると涼しくなる。日本には今も四季は現存している。自然の流れの大きさに改めて感じ入っている。この二日ほど奥の院へお参りに行っているのだが、往復一時間四十分の間に途中でいろいろと季節を感じ取ることができる。法爾とはなんなのか、現象も真理の現れとはどういうことなのか、いろいろ考え感じながら足を進めている。台風の影響の風を感じ、西に沈む太陽を感じ、ありのままにある自然に法爾を思う。そういえば、スピノザだったか、こんなことを言っていた気がする。神とは自然の法則そのものであり、奇跡を信じたり、奇跡を願ったりするのは、その神の法則を捻じ曲げることに他ならないというようなことだ。なるほど、と今は思う。自然の流れそのものが法爾であり、それを大日如来と見るのならば、スピノザが言うように神?=大日如来に願いをすることそのものが実は法爾ではないのではないかと感じる。だからこそ、真言宗では大日如来を本尊にすることは少ない。やはり願い事ができるのは、それぞれの性格を特化した神仏。願い事は、真理の中心よりも少しはずれた神仏の方が祈りやすいのかもしれない。そんなことを思いながら、今日の奥の院の参道を歩いた。

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2006年9月17日 (日)

勧学会の本会が始まる

9月16日 夜 面白いことがあった。話したくて話したくて仕方がないが、残念ながらそれは秘密。うーん、もったいない・・・。ごめんなさい。

9月17日 午前 勧学会 本会 初日 朝4時に起床した 衣がいつもと違うので正座が結構辛かった。眠かったこともあり、正座の間の瞑想があまりうまくいかなかった。寝すぎることはご法度だが、やはり適度な睡眠は大切だ。その後、皆で壇上参拝。お寺(南院)に戻ってからは御本地供。午後からは師匠のお宅で懇談。夕方には奥の院参拝。結構、忙しい。特に奥の院へは約二時間かかる。だれだ・・・「勧学会の本会は暇で暇で仕方がない」といったのは・・・結構忙しい・・・

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2006年9月16日 (土)

明日から本会 寝坊しないように・・・

いよいよ明日から勧学会本会初日。朝の五時半に集合して行う行事だ。

朝寝坊しないように、時間の調節をせねばならない。今日は午前中、思い切り身体を休めた。今日は夕方寝を一時間ほどして、とりあえず徹夜をするつもりだ。そして初日。初日は緊張するので、大丈夫だと思う。そこから二日目に向けての体調作りをして行こうと思う。

今回の行事に参加していろいろなことを感じた。事前の準備は絶対的に必要だが、それと同時に、本番が始まってからの調節ももっと必要であるということを強く感じている。しかし、この本番中の調節も事前の調節があってからのもの。

そういえば、初年目の私は酷く叱られた。あまりにも酷いことをしたからだ。20代半ばだった。しかしそのおかげで事前の準備の大切さを痛いほど味合わされた。果たしてそれが今に生きているのか・・・?今回の勧学会に参加させていただけたことの大きな目的の一つは、この事前の調節と、本番中の調節との関係を思い出させることなのだろう。ここに導いてくださった明神様はじめ師匠等、多くの方々に深く感謝する。

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2006年9月15日 (金)

静と動

今日は篭りといって、外出が基本的に禁じられている日。朝の行法以外は一日中部屋に居た。いただいた論文を読み、経典を読み、思索を練り、こういう日もたまには欲しいものだ。岐阜に戻った後も、こうした日を大切にしたいと改めて感じる。毎週一回というよりも、月に連続三日間は欲しい。こうした日が、動きを与えてくれることを改めて感じる。毎日の中にも静と動が必要なように、月にも同じものが必要であることを改めて知る。年にも同じことが言えるだろうし、一生にも同じことが言える。大宇宙の法則というものは実に面白い。いろいろなことが、さまざまなことに適用できる。この静と動もまさにその一つ。言葉を変えれば陰陽なのかもしれない。

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月輪観の工夫

月輪観を11日に記した。心そのものを月として観想する方法だ。その内容をもう少し詳細にしようと思う。ただし何度も繰り返すようだが、瞑想は必ず師より学ぶことを忘れないで欲しい。

一肘ほどの直径の満月を胸の辺りに観想するのだが、まずその月を16分割する。その満月の16分の1の月を、最初に左辺から現していく。伝統読みをすれば、 オン シッタ ハラチベイトウ キャロミ 。この真言を通達心の真言という。その真言を随意に唱える。その真言の波動が月となると観じる。その16分の1の月が現れたら、その月の波動から青い光が発せられ、まず金剛サッタの三摩耶形(象徴)である五鈷金剛杵が飛び出してきて、自分の座った大きさになり、自分自身とその五鈷杵が一体となる。次に、金剛王菩薩で鉤。次に金剛愛で弓矢・次に金剛喜で喜ぶ姿。次に黄色い光が発せられ、金剛宝で摩尼宝珠。次に金剛光で太陽よりも輝く光。次に金剛幢では縦長の仏の旗。次に金剛笑で笑う姿。ここで半月が完成。次に赤い光が発せられ、金剛法で白い蓮の華。次に金剛利で何物をも切り裂く鋭い利剣(三鈷杵の真ん中が延びたもの)。次に金剛因で法輪。次に金剛語で話す言葉。次に緑色の光が発せられ、金剛業で羯磨金剛。次に金剛護で甲冑。次に金剛牙で何物をも噛み砕く牙。そして最後に金剛拳で二手で、左を仰向け、その上に右を下向けにする。ただし二手は引っ付くか引っ付かない程度に離す。ここまできたら満月が完成する。その満月をより明確にするために、今度は自分自身がなった象徴から波動が発せられ、再び小さな象徴になり、その象徴が16分の一の大きさの月となり、より明確なつきとなると観想する。それを十六大菩薩の分観想する。最初の四菩薩のときはアシュク如来の青い光の波動、次の四菩薩が宝生如来の黄色い光の波動、次の四菩薩が阿弥陀如来の赤い波動、次の四菩薩が不空成就如来の緑色の波動。そして満月がありありとなったら、最後の最後に伝統読みではオン ボウジシッタ ボダハダヤミという発菩提心の真言を唱え、その真言の波動が真っ白に強く光り輝く大満月となると観想する。

なかなか高度なようだが、実は霧に覆われた満月が徐々に晴れ上がって満月になると観想するよりも、こちらの十六分月の方が私にとっては観想しやすい。

月輪観は自分なりにどんどんと工夫を凝らして欲しい。伝統では、月が霧に覆われており、それを通達心の真言で晴れやかにし、最後に発菩提心で明確にするというものと、私のように十六分月を用いるものとの二種類がある。十六分つきに十六大菩薩を相当させるのは伝統的なものだ。ただし、そこから象徴が飛び出し、自身と一体化し、その象徴が再び明確な月を構成するというやり方は、伝統のものではなく私の工夫である。ここは越三摩耶の咎を恐れるところだが、ぜひぜひ伝統のものを練りに練って自分自身のものとして習得していただければと思う。

実を言うと、ここから本格的な密教の観法へと入っていくのだが、ここから先は直接師にに従って学んで欲しい。

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2006年9月14日 (木)

スピノザの視点から自らを見つめる

ユダヤ教に関する論文をいただいた。メタファーとプシャット。その中でまずスピノザに関するものが記されていた。スピノザというと『エチカ』を代表とする著作家で、汎神論を唱えて、伝統的なユダヤ教から破門された経歴を持つ、そのように捉えていた。『エチカ』に関しては倫理学の最初のものというイメージが強い。ところが彼の態度は、違っていることに気づいた。彼は純真に神と共に生きていたユダヤ人だった。人間の欲望によって色づけられた神ではなく、純粋に大宇宙の法として存在している神の中に彼は生きようとし、そのように実行し続けた。それは思想もまたそうであらねばならないという峻烈な彼の思いだ。単に汎神論と片付けてよいものではないと感じた。密教でも仏身論を大切にする。学生時代はかなり片隅に追いやっていたのだが、最近は自性法身(じしょうほっしん)ということがかなり重要になってきている。大宇宙の法そのもの。そこには人為的な奇跡は不要である。その大宇宙そのものが奇跡そのものであり、その視点に立つと人為的な奇跡などは安価なマジックと異ならないことになる。スピノザを見つめることで、私自身が自性法身の大日如来の中で、その法に純粋にしたがって生きているかどうかを感じてしまうようになった。純粋に自性法身に従って生きることなく、人為的な思い出それに逆らって生きている部分、このことをもう少し意識せねばならないのかもしれない。

このことに気づかせていただいた同志社大学の手島勲矢先生に深く感謝する

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2006年9月13日 (水)

西邨まゆみさん講演会と収穫祭のプレチラシを作成

マドンナのプライベートシェフの西邨まゆみさんの講演会のプレチラシを作った。まだ日付が決まっていないのと東京では会場が決まっていないので、プレチラシの段階だ。それをホームページに掲載した。マイクロソフトパブリッシャーで作ったので、うまく表示できない方も居るかもしれない。そのあたりはお許しいただきたい。高野山から岐阜に戻り次第、修正する予定だ。また、10月28日の収穫祭のプレチラシも作った。こちらも同じことが言える。高野山に居てもお仕事とは・・・まぁこれも自分の歩む道。納得は自分的にはしているつもりだ。

<西邨まゆみさん講演会in各務原 主催:MaMaの会> 

表面http://www.kokeji.com/mayumilecturekakami.mht  

裏面 http://www.kokeji.com/mayumilecturekakami2.mht

<西邨まゆみさん講演会in東京 主催:MaMi's> 

表面 http://www.kokeji.com/mayumikecturtokyo001.mht  

裏面 http://www.kokeji.com/mayumikecturtokyo002.mht

<収穫祭みのりの市 主催:いただきますの会 共催:高家寺>  

表面http://www.kokeji.com/shuukakusai001.mht 

裏面 http://www.kokeji.com/shuukakusai002.mht

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2006年9月12日 (火)

金剛峯寺にて悠仁様のことを聞く

金剛峯寺に居た。行事に参加しており、行事から出てくると内局の方々が恐い顔をしてバタバタしていた。その上、マスコミ関係者までウロウロ。何かあったのか?また悪いことでも・・・

納所部屋に行くと、その理由が分かった。秋篠宮様の三番目のお子様の名前が悠仁と決まり、そのシンボルが高野槙になったのだ。まさに高野山のシンボルの一つである高野槙。それが将来、陛下になられる可能性が高い方のシンボルとなったものだから、金剛峯寺は上を下を野バタバタ劇だったようだ。紀子様が紀の国和歌山の関係者だからだと思う。

日本のシンボルになられる可能性が高い方。生まれ出でた全ての子供たちに健やかに育って欲しいが、悠仁様は日本のシンボルに最も近い方なので、やはり全ての子供たちのシンボルのようになっていただき健やかに育っていただきたいと思う。

ただし、ここで裏話。高野山で売られている高野槙のほとんどが岐阜県の付知地方で採られたものらしい。それでも高野山で売られているのだから、それはそれで良い気もする。同じようなことはあちこちにある。岐阜県のシンボルの木である一位の木。皇室が手にする杓に使われる気だ。高山では彫り物によく使われ土産物屋で売っている。この一位の木は実は北海道産がほとんど。まぁこんなことはいろいろあるのだろう。それを自分自身がどう思い納得するかだと感じる。これは本文と関係ない余談。

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2006年9月11日 (月)

自行用の月輪観をパワーポイントで・・・よく師について欲しい

僧侶は他者が作法を行っている時間に何もしないでただ座って待っていることが多い。無念無想というが、なかなかできることではない。ついつい妄想が先走り、いろいろなことを考えてしまう。まさに言葉が先行し、いろいろ考えてしまったり思い浮かべてしまったりする。そんな時、私がいつも行じているのが月輪観だ。伝統のものと、学術のものを組み合わせたもので、あくまでも私個人の自行に修している。あるときこれを話していたら公開して欲しいという要望があり、今回公開することにした。この先も実はあるのだが、それについては伝授などの問題があるので別項にしたい。

まず、息を整える。ゆっくりゆっくり吐き、自然に吸う。秒数でいうと、12秒ほどで吐き、3秒で吸い、5秒待つ。つまり20秒で一回の呼吸、一分で3回の呼吸である。その呼吸に意識を凝らし、だいたい10回から20回ほど呼吸をする。次に以下のURLで公開したように、月を観想する。 http://www.kokeji.com/moon.htm  この月輪観で、結構良い時間を過ごせる。煩悩に覆われたときはこうした観想を用いると、その煩悩に悩まされることは少なくなる。私は月輪観だが、そのほかの観想を用いても良いと思う。自分なりに工夫を凝らすべきであろう。ただし、できる限り師についてその方法論を学ぶことを強くお勧めする。一人勝手に行うものには大きな落とし穴に陥り易いからだ。よくよく師を探して欲しい。

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2006年9月10日 (日)

スターバックスの秘密

スターバックスコーヒー。シアトル発の、かの有名なコーヒーショップ。10年ほど前に私も初めてこのコーヒーショップを知り、五日間の滞在中毎日、利用させていただいた。また日本では私の教え子の一人がここで学生時代にアルバイトをしており、その社員教育の充実度には目を奪われた。そして、今回同志社大学の先生よりその理念の素晴らしさの一端を聞かされた。それは研究者や教育の場にお店を出店するというものだ。日本のコーヒーショップの多くはどうだろう。おそらく人通りが最も多く、経済的に潤う場所を選ぶに違いない。スターバックスはどうなのか。もちろん徹底的に市場を分析し、この場所はという一等地に作ることも少なくない。しかし、「教育や研究の場に」という理念はやはり頭が下がる。何かというと、アメリカの巨大資本に対しては日本は反感を持つか追従するが、そうではなく、その素晴らしさは純粋に見習うべきなのではないかと感じた。研究者や教育者には飲み物が必要。この視点がすばらしいと思う。日本の飲食業界もぜひこの点を見習って欲しい。また教育関係現場も、この視点を飲食現場に投げ掛けて欲しい。「生徒が来ない」と嘆くのではなく、どうすれば最も適した教育現場になり研究現場になるのかをもっと広い視野で見つめて欲しい。そんなことを考えさせられる話だった。スターバックスの力の秘密の一端を知るお話だった。教えていただいた同志社大学のT先生に深く感謝する。

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2006年9月 9日 (土)

『空海 般若心経の秘密を読み解く』

月に一回、師匠のお宅で「祖典講読会」が開かれている。テキストは『十巻章』のうち『般若心経秘鍵』。刺激的な輪読会だ。この著述に関して師匠が本を出された。『空海 般若心経の秘密を読み解く』。高野山大学大学院の通信講座のテキストでもあり、その後に手を加えられたものだ。昨日、師匠よりこの本をいただいた。まだ読みきっては居ないが、学術的にも大学院の授業に耐えうるだけ高レベルであり、しかも一般の方々にも読んでいただけるほどの平易さで書かれた好著である。最初は少し難しいかもしれないが、逆に言えばそうした部分は後日の楽しみにしていただいて、自分の琴線に触れる部分を読んでいただければと思う。この本は頭で考えるばかりなく、心でも感じる本だといっても良いかもしれない。日本で最もよく読まれ、もっとも有名なお経の『般若心経』を、あの弘法大師空海がどのように読み込まれていたのか、十分に楽しんで欲しい。ちなみに著者は、僧侶としても学問の上でも我が師匠であり、この十一月十五日に高野山真言宗管長・金剛峯寺座主に就任される。

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2006年9月 8日 (金)

高野山に今日で五日目。

同志社大学と皇學館大学の先生方と高野山奥の院へ。メンバーは、キリスト東方正教、ユダヤ教、神道、そして私の真言密教と多彩な顔ぶれ。まずは大秦景教の碑、すなわちキリスト教ネストリウス派の碑のレプリカの見学。ユダヤ教の先生はシリア語を直接読まれた。こうした経験はなかなかできない。皆で奥の院に行き、その後はコーヒーを。ライスドリームでコーヒーを割ったもの。そこでも宗教談義。私こそ学者ではないが、だからこそ一番多くを学ばせていただいたのではないかと思う。昨日から実に充実した時間だった。

その後、師匠のお部屋へ。いろいろ話をさせていただき、本をいただいた。しばらくこの本を読ませていただくつもりだ。

その後に大学へ。そこで学長先生に、メッセージを届けた。これは年末から年始に掛けて面白い話の一つになると思う。

昼からは勧学会。残念なことに、お一人がドロップダウンされた。私も悔しい気持ちがある。最後まで何とか頑張っていただきたかったのに・・・・。しかしこれも仕方があるまい。別の形で、その方を支えられればと強く感じた。

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2006年9月 7日 (木)

n高野山国際密教学術大会のレセプション

高野山国際密教学術大会のレセプション。最初は気づかなかったが、一角にベジタリアン用のコーナーがあった。おかげで食事は助けられた。生井学長が、私がベジタリアンになったことを「仲間が増えた」と悦んでくださった。

その後、宗教倫理学会の先生方と夜11時まで懇談。この方々は実に面白い。今日は東方教会(オーソドックス)、ユダヤ教、イスラム教、浄土真宗、神道、心の宗教の先生方との懇談だった。お互いが違いを認識しつつも語り合うこの姿勢こそ、実は宗教の枠を超えた異宗教間対話の実践のような気がする。

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2006年9月 6日 (水)

高野山国際密教学術会議にて発表

高野山国際密教学術会議に参加させていただいている。今日、私も発表した。
その草稿は http://www.kokeji.com/study0001a.html
そのスライドは http://www.kokeji.com/study0001.html に掲載した。

20人ほどの方に聴いていただいたが、満足できるものではなかった。やはり対象者をもっと研究すべきだったように思う。私の独りよがりの部分が強かったのかもしれない。

ただし、この発表のおかげで私の持つ密教観がかなり明確になってきた。
弘法大師の教えのどういったものを自分のものにしてきたのか。
何が欠けているのか。
またどういう点で超えようとしているのか(超えられるかどうかは別問題)。

声をかけてくださった生井学長に深く感謝する。

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2006年9月 5日 (火)

十字架に架かったマドンナの熱き思い

マドンナのコンサートで彼女が十字架に科かあってくることを批判する勢力がかなり居るらしい。モスクワでは開催を拒否する人々も居るくらいだ。それは彼女の宗教性を知らないからに他ならない。彼女はキリストが嫌いなのではない。そのキリストを商売にし、イエスを使って人々を縛り付けていることそのものが厭なのだ。だからこそ、この時の歌がLIVE TO TELLなのだ。そしてそのときに流れている映像が、クリントン財団と手を組んだ貧困やエイズに対する強きメッセージ。クリントン財団のホームページはhttp://www.clintonfoundation.org/index.htm ここにアフリカに対する熱き思いがある。このことを批判するということは、自らがイエスを商売にする輩に身を任せていることを意味していると感じる。もっと目を見開いて欲しい。彼女のこの行動が何を意味しているのかということにもっと感じて欲しい。彼女の宗教性はこの後に続く、映像で明らかだ。間もなく彼女は来日する。彼女の熱い思いを日本人が一人でも受け取ってくれることを切に願う。

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儀礼を生かすには

今日から高野山の勧学会の二年目・三年目が出席する二日廻しが始まった。初日なので、法会課の方々が丁寧に説明。私も二年目を受けて二十年近く経つ。あまりにも多くのことを忘れていた。この勧学会に参加して改めて思う。真言宗は儀礼を重んじる。時には過度なくらい形式的だ。しかし、よくよく見つめてみるとその儀礼にはかなり深い意味がある。例を出せば、挨拶で膝を落とす場合、袈裟を踏んではならないという。袈裟は法を象徴するもの。釈尊を象徴するもの。それらを重んじるという意味で袈裟を踏むことは許されない。しかし、その意味合いを無視している限り、そこにあるのはただ単なる儀礼。やはりその儀礼に参加するものの心構えが大切。真言密教は他の仏教と異なり対機説法ではない。こちらの機に合わせて大宇宙が法を説いているのではない。自分自身が法身に合わせていくことが大切。つまり、どんな儀礼でも、その意味合いを自分から掴んでいくことが大切だというのだ。この視点に立てば無駄なものなど何もない。

改めて感じた。大宇宙の真理が形あるものとしてこの現象に現れている。その意味で儀礼に参加し、その儀礼の奥を感じ取り、そ儀礼の形と意味を身につけることの大切さを。形式主義に陥りやすい儀礼。特に密教の儀礼は形式主義に陥りやすい。だからこそ、その儀礼を型だけに守るのではなく、型に血を入れ形にしていくことが大切なのだろう。

私は今まで儀礼を割合と軽視してきた。しかし、この勧学会に改めて参加させていただき、その深みを得ることは自分自身の問題であることを改めて感じる。勧学会だけではない。ありとあらゆることに、この考え方は大切なのではないかと感じている。今回、こうして参加させていただけたことに深く深く感謝する。

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2006年9月 4日 (月)

高野山へ

午前中に支払いで銀行へ。キャッシュカードの上限があると走らず、三件の銀行をはしごすることになってしまった。だんだん不便になりつつある気がする。すべてのお金の流れが金融機関に知られることになる。それは機関として把握することには問題は感じないが、一金融機関の人が携わるわけだから、は金融機関の人たちの倫理観の向上がまず先なのではないのか?日本銀行ほどの厳しさがもたれる必要がるのではないかと感じてしまった。

さて、午後から高野山へ。午後七時に到着。

明日から一ヶ月、高野山での勉強だ。古い時代の勉強方法を学ぶ。私は約20年ぶり。

ここのところ、この高野山へ上ることとかなんやかんやで忙しい日々が続き睡眠不足に陥っている。今日はゆっくりと休ませていただくつもりだ。

浪切不動尊に見守られながらゆっくりしようと思う。

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2006年9月 3日 (日)

英語を訂正していただけた

久しぶりにマナーズに行く。そこでスティーブンさん、通称ブリちゃんと会う。ラッキー!国際密教学術会議で使用するパワーポイントの英語文を見てもらった。ブリちゃんは英語の先生だけあって、文法をちゃんと見ていただけた。しかもブリティッシュ英語、私は運がいいようだ。やはり私のはジャパニーズイングリッシュが多かった。間違いをかなり訂正していただいた。感謝感謝。これで内容はともかく、英語はまともになった。ホッとしている。

さぁ、明日から高野山。勧学会三年目。そして国際密教学術会議と、『大日経』の講伝など、結構目白押しだ。本を一冊は書きたいと思っているが、さてどうなることやら。とにかく楽しみな一ヶ月。明日からは光ケーブルではないので少し情報入手が遅くなるが、それもまた一つ。情報過多な時代に情報から送れるのもまた楽しいかも知れない。

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2006年9月 2日 (土)

カレー祭に行くが・・・

カレー祭に出かけた。生徒たちと自転車で。何年ぶりだろう。風を切るのも気持ちが良かった。また普段なかなか気づかないことにも気づく。たまに自転車もいいものだ。

さて、カレー祭に出かけたのだがあまりにも人が多くて、カレーにありつけなかった。そこで生徒たちを連れてサイゼリアに行き食事した。もちろん私は野菜ときのこのリゾット。

まだ国際密教学術会議の原稿が出来上がっていない。なんとか明日の朝までに仕上げたいと思っている。

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2006年9月 1日 (金)

高野山へ日帰り

朝、5時40分にお寺を出る。名鉄電車・近鉄・南海と乗り継ぎ、お昼前に高野山に到着。4日から必要となる備品の購入。4日から29日まで、高野山に滞在予定。宿泊する予定の南院へ。さてさて、この機会に、浪切不動尊の御前でしっかりと拝ませていただくつもりだ。20年前の修行のことを思い出しながら、ご本堂で不動尊をお祈りしてきた。ここの御住職としばし歓談。その後、師匠のお宅へ。本来は勉強会だったのだが、すぐ下山。そして岐路に。日帰りの高野山はちょっと辛いかもしれない。

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