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2006年8月30日 (水)

『大日経』講伝 第二会 後半

機根論というのが仏教にある。現代語に治せば才能というものであろうか。この才能論、一般的な仏教では受けての才能に合わせて説く内容を変える。それをその人たちの才能に合わせるという意味で、対機説法という。釈尊はまさにその天才であった。一方密教では、機に合わせるのではない。仏は常に説法をしている。そしてどこに居ても、どんな場合でもその説法を聞けるという。つまり、聞き手の方に問題がある。自分の才能云々ではなく、仏という発信機が発信している電波を、受信機である私たちがどのように受け取るかということが問題であるというのが密教の機根論だ。今回の講伝ではこの機根論が問題になった。

また仏塔とくに密教における龍猛(龍樹)菩薩が、金剛サッタより密法を授かったのは、実際にあった塔なのか、現実を離れた法の塔であるのかという問題がある。真言は常にどこに居ても仏の法が説法されている。それに気づけば、この現実世界そのものが仏の塔の中であり、それは現実(事)でもあり真理(理)でもある。事塔を世間知で見た塔と見るのならば、授かった場所は事塔ではなく理塔となろう。しかし即事而真の目で見るならば事実は真理の一表現であり、この世間そのものが仏の法を説く場所であるから事塔でもあり理塔でもあるといえよう。この妙旨が分かるかどうか、ここに密教を理解できるかどうかの大切さがあると思う。

我が師匠の教えは深いものであった。感謝感謝。

その後、管長御推戴のお祝いの会を開く。幹事をしたのだが、幹事は結構大変だ。私にはあまり向いていないことを改めて知る。ただ皆が喜んでくださったことには深く感謝。

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