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2006年8月31日 (木)

国際密教学術会議の準備

現在、国際密教学術会議で発表する内容を校訂中。講演っぽくなりそうだが、私的には気に入っている。いままでの環境問題や宗教関連ではあまり語られてこなかった内容だと確信するからだ。私は研究者であるよりも学問僧でありたい。学問僧は学術研究そのものよりも、その学術研究をいかに身につけていくかを大切にするもの。新たな発見に身を驚かすよりも、どのように感じどのように全身全霊に刻み込むかを重要視する。その意味で、今回は宗学の「一即多 多即一」「即事而真」「一門普門 普門一門」などを利用し、地球環境問題にどのように絡んでいくことができるのかを提示することにした。パワーポイントを使った研究発表。さてどうなるか・・・もう少し練り上げたいと思う。明日は朝早くから高野山。少し睡眠不足が気になるところだが、電車内は寝るつもり。起きていたらこの内容をもう少し深めて行きたいと思う。

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2006年8月30日 (水)

『大日経』講伝 第二会 後半

機根論というのが仏教にある。現代語に治せば才能というものであろうか。この才能論、一般的な仏教では受けての才能に合わせて説く内容を変える。それをその人たちの才能に合わせるという意味で、対機説法という。釈尊はまさにその天才であった。一方密教では、機に合わせるのではない。仏は常に説法をしている。そしてどこに居ても、どんな場合でもその説法を聞けるという。つまり、聞き手の方に問題がある。自分の才能云々ではなく、仏という発信機が発信している電波を、受信機である私たちがどのように受け取るかということが問題であるというのが密教の機根論だ。今回の講伝ではこの機根論が問題になった。

また仏塔とくに密教における龍猛(龍樹)菩薩が、金剛サッタより密法を授かったのは、実際にあった塔なのか、現実を離れた法の塔であるのかという問題がある。真言は常にどこに居ても仏の法が説法されている。それに気づけば、この現実世界そのものが仏の塔の中であり、それは現実(事)でもあり真理(理)でもある。事塔を世間知で見た塔と見るのならば、授かった場所は事塔ではなく理塔となろう。しかし即事而真の目で見るならば事実は真理の一表現であり、この世間そのものが仏の法を説く場所であるから事塔でもあり理塔でもあるといえよう。この妙旨が分かるかどうか、ここに密教を理解できるかどうかの大切さがあると思う。

我が師匠の教えは深いものであった。感謝感謝。

その後、管長御推戴のお祝いの会を開く。幹事をしたのだが、幹事は結構大変だ。私にはあまり向いていないことを改めて知る。ただ皆が喜んでくださったことには深く感謝。

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2006年8月29日 (火)

『大日経』講伝 第二会 前半

京都種智院大学で師松長先生による『大日経』講伝。今日は伝統的な総論といえる玄談の講義であった。最近、私はよく「この現象界に起きている出来事や、事物に対して、それも大いなるいのちの現われ」と信者さんたちに伝えている。実は来月の6日に行う国際密教学術会議でもそれをテーマにお話しするつもりだ。日本の伝統的な真言密教ではそれを即事而真という。伝授のときに、故内海有昭大阿によく教えていただいたものだ。「この境地に密教の独自性がある」と。そして今日は師よりこの「即事而真」のお話が出た。『性霊集』の最初の文。ここにもその妙旨が説かれている。

では逆はどうなのだろうか。即事而真の境地で現在社会的に注目されている現象を見たとき、それは如来からのどんなメッセージなのだろうか。どのように捉えるか、まさに受けてである私たち個人個人によって異なるのであろうが、ここに真言密教の眼目がると私は思う。社会現象も実は私たち一人ひとりの心に訴えかける大きないのちからのメッセージであるということを知ると、こころの広さが無限であることに気づくことができる。

今日の講伝は、その意味で最近の私が扱っているテーマとリンクしていた。深く感謝。

夕方は親友のF氏と共に食事。和食。お肉や卵えびなどを食べられない私にとってはわがままを聞いてくれるお店が必要だった。そこで京都駅にある吉兆に行った。料理の美味しいのは有名。そして何よりもここは接客がすばらしい。塗れ箸に代表されるように、実に細やかな神経が行き届いている。この接客の中にも仏の言葉を見た。仏の説法はまさに常住。どこにでもある。この店を教えてくれたのは、我が家内。彼女にも深く感謝している。

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2006年8月28日 (月)

不動護摩にて「過ちを革むるに憚ることなかれ」

不動護摩。今日は父がごそごそやっていたので、最初は気がとられてしまった。まったく三昧には入れなかった。ちょうど芥子粒で結界を張る瞬間だった。父に注意を促し、その後に呼吸を三回深くして、もういちど入護摩からやり直し。すると驚くほど気持ちを入れられた。これも父がゴソゴソやってくれたおかげである。「過ちを革むるに憚ることなかれ」まさにそんな思いがした。実は父の問題ではなく私自身の問題だったのだ。今日の炎は優し形だった。護摩の後、父に感謝した。

法話の後、洒水加持の際に21日に来られなかった方のために守護尊カードをおみくじしていただいた。そしてその後に相談二件。

所用があり外に出かけたが、帰ってくるとあまりの睡魔に襲われてしまい、爆睡。よく考えてみるとここ最近まともに寝た日がない。かなり睡眠不足になっていたようだった。

カミサンの手が荒れていたので、今日は私が夕食の準備と片付け。その後、腸内洗浄を一週間ぶりに。

それからは国際密教学術会議の準備。

明日からは『大日経』の講伝で京都。

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2006年8月27日 (日)

友人たちと共に

26日の夕方から親友と呼べる友たちに会う。国際密教学術会議の内容をチェックしてもらった。うーむ。なかなか厳しい評価だった。しかしそこが嬉しかった。単に持ち上げられるだけなら相談は要らないからだ。今回の私の発表は、「オゾン層は語る 密教と地球環境問題」をテーマとする。オゾン層生成の歴史。フロン開発の歴史。オゾン層破壊の歴史。オゾン層破壊物質削減の歴史。それらの歴史の中で、オゾン層破壊をテーマに、私たち人間がとってきた行動に対する疑問点を顕にし、密教との関係で地球環境問題を語るつもりだ。

友と語るのは楽しい。彼らとの会話こそお坊さんとしての対話であったように思う。三人が三人とも異なった道を歩んでいる。しかしそこを流れる思いは非常に近い。そこに面白さがある。彼らに深く感謝する。

三日連続の夜更かしだった。それを笑って見守ってくれたカミサンにも感謝する。

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2006年8月26日 (土)

高山にて友人たちと

25日に高山に行く。シアトルの友人レスリーさんの教会仲間を案内するために。やはり自分の英語力のなさが残念だった。説明がうまくできないし、かなり体力も気力も消耗した。少し相手のペースに合わせすぎたようだ。

ここで車を貸していただいたナチュラルクリニック21の中島先生に深く感謝する。

その夜、高山の住む友人たちと飲み会。私は麦茶で。なかなか楽しい会話をさせていただいた。友人の一人堀川さんたしが来月からインドネシアに行くという。音楽療法を引っさげて、地震で被害のあった場所に行き、民間レベルの交流をするというのだ。イスラムとの交流などいろいろな話をさせていただいた。意義深いひと時だった。気づくと、既に未明の二時半。帰宅したら既に四時を回っていた。

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2006年8月25日 (金)

第三回MaMa'sの会

マドンナのプライベートシェフの西邨まゆみ講演会準備委員会の第三回目の会合。今回は三人だけだった。そこでカミさんの手作りカレー風味の野菜シチューをいただきながら、マドンナのDVDを鑑賞。改めて思う。この人は凄いと。まゆみさんのおかげでマドンナのことをかなり勉強させていただいた。宗教的にも政治的にも人間的にも深みのあるこの人は凄いと。そしてその要望に応えているまゆみさんの偉大さを改めて感じる。こういう方と共に活動をさせていただけることは本当に嬉しい。

今回はプレチラシを作った。ワクワクする。この講演の成功はもう目に見えた。次のステップの、この講演の後をどうして行くのか、このあたりをもっと見つめて行ければと思う。

ところで、もう朝の二時半過ぎ。こんなに遅くまで話し込んでしまった。今日は11時頃までに高山に行かねばならない。まぁ、これもありかぁ・・・。

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2006年8月24日 (木)

坊さんの坊主嫌い

今日の『オーラの泉』は面白かった。丸山弁護士。彼の宗教性に少し驚いた。また昔から彼には何か共鳴するものを感じていたが、実にいろいろな部分でそれがあった。法律・宗教・国際・寺子屋・商売下手・体制に対する反逆・中間の排除などなど。もし私にお勉強的な才能があったら、彼のような生き方をしたかもしれない。しかし、ここに同じように思っていた方が居たと知り安心した。私自身はやはり宗教者なのだということを。

また美和明宏さんが述べた「坊さんの坊主嫌い」。まさに私にも適する言葉だった。

この番組は僧侶の私にもとても感じさせられるもの。江原啓之さんにしても、彼の導く方向というか方便力はやはり正当に評価すべきものだと思う。

この番組は出演者の読み解きではない。その出演者を通して自分自身の心を掘り下げていく番組だ。こうした番組が夜中であるにもかかわらず高視聴率を得ていることに、日本の奥深さを感じる。まだまだ日本は大丈夫だ。

取り急ぎアップ・・・今宵はこれまで

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2006年8月23日 (水)

守護尊カード

20日の夜のことだ。今回も21日の直前になるまで守護尊カードができて居なかった。しかも七日と仕事が入ってしまい寝不足の状態。ついに日を越えて21日になっていた。しかし、不思議なことに、意識を強烈に集中し始めたら、自然に声が降って沸いてきた。今回は文殊菩薩・多羅菩薩・金剛華菩薩・軍荼利明王・羅刹天・恵比寿。それぞれに必要なメッセージだったと思う。

そして当日面白いことにお花の先生には金剛華菩薩が渡り、商売関係の方には恵比寿天。また親の問題を抱えていた人には多羅菩薩。今回も、必要な人に必要なメッセージが渡ったようだ。八月分はホームページへはさきほど転送した。http://www.kokeji.com/shugoson.html

自分で作っているのだが、このカードを作っている最中は自分はそこに居ない。この肉体はまさに道具となっている。このカード作りは、信者さんにはメッセージであり、私自身にとっても大いなる学びがあるようだ。このことに気づかせていただいたこと、また作らせていただいていることにも感謝感謝。

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2006年8月22日 (火)

寺子屋の合宿終了

寺子屋の合宿が終了。子供たちは自分たちで食事を作り楽しんでいたが、最後の花火が風で中止になり少し気落ちしたようだった。それにしても今年は皆、ほとんど寝ないでよくがんばったと思う。その点は高く評価したい。

私が久しぶりに体調不良(睡眠不足の連続のためか微熱が出た)であったために、カミサンが良くがんばってくれた。深く感謝する。

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2006年8月21日 (月)

一言

今日の月例弘法大師での法話は「一言」。

人はその一言が足りなかったり多かったりして、人間関係を壊すことが多い。特にアメリカの影響を受けた昨今では、一言がとても重要視されるようになってきた。相対的に男性は女性への一言が足りない。女性は一言余分に言いがちだ。もちろん一言余分に言う男性も少なくないし、一言が足りない女性も少ないとは思えない。それでも、優しい思いやりのある一言はすばらしい癒しの薬になるし、厭味な棘のある一言は猛毒と等しくなることが多いのは事実だ。

僧侶としての私は他者の相談を受けることが少なくない。今日も若い仲間から相談があった。そういう人に対しては、優しい一言が掛けられる。ところが身内に対してはどうしても一言が足りなかったり、言ってはいけない一言を言ってしまう。ここに大きな甘えがあることを指摘された。

そのアドヴァイスをしてくださったのが、西邨まゆみさん。あの世界のスーパースターのマドンナの絶大な信頼を得ているプライベートシェフ。最近、私たち夫婦は公私共にまゆみさんとメールのやり取りをしている。その中で、彼女が「一言足りない日本人男性」を指摘してくださった。また人の相談を受けるからこそ身内を放ったままにしておくことの弊害を伝えてくださった。彼女は長年、マクロビオティックの講師として病気癒しやハリウッドセレブの食事などのい携わっているだけに、そうしたことにも大きな気づきを得ている人だ。このまゆみさん、なぜマドンナのように要求の厳しい人の要求に長年応えているのあろうか?それは、自分の身を常にぎりぎりのところに置いて、マドンナの最高の食事を作ることに意識を傾けられているからだと思う。そこにあるのはシェフとしての料理道。彼女は合気道をされていたからこそ、その料理道も合気道も一本に繋がるのだろう。まさに道を行く求道者そのもののように思える。だからこそ彼女と話をしていると楽しい。その彼女の今回のアドヴァイスは、心に響いた。

「一言」ここにもう毎日意識を傾けることで、もっともっと自分を変身させられることを知った。三日前の自分と比べ、どこまで深まっているのか、そんな求道者として生きて行ければと思う。

深く厚く感謝する。

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2006年8月20日 (日)

願成観音太鼓・・・渥美半島潮音寺の一行

Drum001 願成観音太鼓。http://www8.plala.or.jp/rikan/ 曹洞宗の潮音寺のご住職がリーダー。そのチームが高家寺に泊まった。元某宗教新聞の記者さんが紹介してくださったのだ。高校生を含む総勢10名。夕方に到着。彼らはまず美人の湯というスーパー銭湯に行き、食事。私は寺子屋の夏期講習。その後、宮本住職と深夜まで対話。各宗派に共通の問題と、これからの僧侶のあり方やお寺のあり方、そして地域のあり方、食の話題、教育、道などの話が弾んだ。またこの宮本住職のお寺に対する取り組みは随分と勉強になった。伽藍に安穏としていては人の出入りはありえない。自らが外に赴き、何らかのアピールをしていくことで人と人の交流ができる。そのことを大いなるいのちが私に伝えてくださったようだ。おかげでいろいろなプランが浮かび始めている。宮本住職にも、彼をここに導いてくださった大いなる意思にも感謝。ふと気づいた。潮音寺は渥美半島にある。今は田原市。この田原という場所。三河の地。そうだ、この高家寺を作ったお姫様の家である戸田松平家の出生の地が田原であった。先日までは、戸田松平家の江戸時代の最初と最後の封じられたのが長野県の松本。この松本とびっくりするくらいの縁を得ていた。そしてまたまた戸田松平家の流れが私を導き始めている。まさに深い縁を感じる。またこの宮本住職は出色の人。昨日も記したが、「お坊さんも人間なんていうのは言い訳だ。人間がお坊さんをしているということを忘れてはならない。」と言い切られる。これもとても勉強にある言葉だった。

そして今朝方、朝のお勤めの後、朝食を作り、皆でお食事。そして観音太鼓の奉納。すばらしい太鼓だった。本堂が共鳴し、本堂の道具も、仏具も共鳴し、まさに響き渡る世界を感じた。思わず手を合わさざるを得ない感覚を受けた。この願成観音太鼓を聴く機会がある方は幸せである。この音の響きの世界に自分を置けたということは嬉しいことだ。

このご縁を大切に先に進めればと感じる。今日も深く厚く感謝の一日だった。

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2006年8月19日 (土)

ある僧侶との会話

曹洞宗のお坊さんとお話しする機会を得た。約3時間。いろいろなお話をした。心ある方がここにも居られた。嬉しかった。

人が居ないのではない。その人を探さないから居ないように思えるのだ。そのことを改めて感じる。

このお坊さんの言葉で面白かったことがあった。「お坊さんも人間なのではない。その人間がお坊さんをしているのだ。」これは示唆に富む言葉であると思う。

この方の詳しくは明日にでも記そうと思う。今宵はこれまで。

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2006年8月18日 (金)

ペンギン物語

今日は小学生たちと授業前に『ペンギン物語』のDVDを観た。キングペンギンの生態だけでなく、その周りに居るゾウアザラシ・シャチ・オットセイ・その他の鳥たちの生態も映像に映し出されていた。ゾウアザラシには子供たちも目を奪われた。オスのうち子孫を残すことができるのはなんと3%。しかも、そのボスのオスは100匹ほどのメスを従えるという。しかしそのオスも長くその座に君臨するのではなく、2・3年でその座を追われ、最後はボスの座を追われた戦いの傷が元で死んで行き、鳥たちに狙われて三日のうちに骨だけになってしまうという。過酷な自然の姿がそこにあった。しかし、それを残酷と見るのは人間の視点。その流れがあるからこそ、たくさんの生態が守られ種が保存されていく。シャチにしてもそうで、ペンギン側から見ればシャチの狩から逃れたペンギンたちは拍手もの。しかしシャチ側から見れば、親が個に狩の仕方を教えるその知能は驚愕もの。どこに視点を移すかで残酷なのか否かが異なってくる。これは人間世界にもいえることではないだろうか。自然の流れには残酷とか残酷でないというものはない。それは自然が自然の姿としてそこにあるだけ。それを残酷と見るのは人間の視点に過ぎない。逆に言うと、残酷と見てしまうほど、人間界は反自然なのだということを改めて感じる。反自然だからこそ、人間界には残酷ことが多い。それゆえにその残酷だという視点を自然界にも持ち込んでしまい、論理のすり替えを行っているのかもしれない。自然の動植物のあり方を見つめて、それを残酷物語と見るのではなく、人間そのもののあり方を見直すことが大切なのだろう。

自然な人間のあり方は他者を支配し、異邦人を攻撃することなのだろうか?全てのものに愛を注ぐことなのだろうか?

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『ああっ女神さまっ』

劇場版『ああっ女神さまっ』のDVDを中学生たちと寺子屋の授業前に観た。テーマは「愛」とは何か。主人公のベルダンディーという女神と森里蛍一という学生のカップルの絆。それはお互いの立場を越え、お互いの環境を越え、試練を越えてより深く結びついていく。しかしその愛情はべたべたというよりも、かなり爽やかなもの。中学生たちも食い入るように見ていた。

ギャグアニメぽい部分も少なくないが、だが馬鹿にできない。日本のアニメをジャパニメーションというが、その映像のすばらしさばかりではなく、ストーリーやテーマがしっかりしていることは評価されている気がする。日本のテレビドラマや映画以上にジャパニメーションの質は高い。だからこそ世界的に注目されるのだと思う。

『ああっ女神さまっ』は「男性から観た理想」と中学生の女性とたち。そこで彼女たちに尋ねた。「では女性から見て理想じゃないの?」。すると、「やっぱり理想かなぁ」と一様に応え。ありえない世界を日常的に描くアニメは人気が高いのかもしれない。また登場人物たちを自分に投影したりしょいやすい。キャラクターがはっきりしていて魅力一杯だ。そういえばスタートレック史上の中でもっとも人気があったThe Next Generation(邦題『新スタートレック』:略称TNG)でも同じことが言える、登場人物一人ひとりのキャラクターがはっきりしており、だからこそ人物に自分を投影しやすくなっている。

「私たち夫婦がベルダンディたちのような夫婦?」という質問が出た。それに対しては、「想像にお任せする」それが今の私の応えだ。

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2006年8月17日 (木)

カラオケ

昨夜は若い人たちと共にカラオケに行った。身体の芯から疲れている感覚があり。それを吹き飛ばしたかったからだ。フォーク、アニメ、演歌、POPいろいろ歌ってみたが、皆の反応はやはりアニメソングが抜群だった。お経で鍛えた(?)声量があるので、宇宙戦艦ヤマトのような音楽は抜群に響くようだ。ビブラートの長さも皆が笑うほどだった。とりあえず最高得点は91点と、機能の参加中最高得点をとらせていただいた。思い切り声を出して歌ったせいかスッキリ!身体中の疲れも癒えて気持ちよく帰った。カラオケは馬鹿にできないと改めて感じる。音楽祭そこで皆で歌うのは大切かも!

今日は「MaMaの会」(西邨まゆみ講演会準備委員会)。そしてそれと平行して「いただきますの会」(感謝祭準備委員会)。申込用紙作りやチラシ作り。その中でいろいろな個人的な話。こうした会を開きながら個人的に話を煮詰めていくことは大切なことだと感じる。会は一人ひとりの心のを耕す道具でもあるのかもしれない。

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2006年8月16日 (水)

四季の祭りを考える(2)

昨日は「いのち感謝祭」水の祭であり施餓鬼でもあった。なかなかよい趣のあるお祭ができたように思う。お手伝いをしてくださった方々の笑顔がとてもすばらしく、これからもより良いものになっていくと実感。やはりお祭は私が独りで作り上げるものではなく、参加者の方々が作り上げていくもの。その方向性を示すのは私であって、実際に動かすのは信者の方々お一人お一人であることも深く感じた。

一昨日の準備、昨日の本番、今日の後片付けでお手伝いをいただいた方々とお話をしていて、三ケ月に一度くらいのお祭が欲しいという意見が出てきた。スタッフが三ヶ月に一度くらいは集まって、お互いの近況を報告し確認取りたいというものだった。この考え方に納得。そこで少し考えてみた。四半期に一回、つまり四季の祭。それらを羅列してみると
四季    五行             五感        五仏
冬から春へ 火(金を弱め春の木を高める) 触覚 節分・火渡り  アシュク
春から夏へ 土(水を弱め夏の火を高める) 聴覚 音楽祭     宝生
夏から秋へ 水(火を弱め秋の金を高める) 視覚 いのち感謝祭 阿弥陀
秋から冬へ 木(土を弱め冬の水を高める) 味覚 収穫祭     不空成就

これらがすぐにできるかどうか、またその細かい意味づけなどは別として、なかなか面白いアイデアだと感じた。

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2006年8月15日 (火)

いのち感謝祭

今日はお寺で「いのち感謝祭」。昨年までは施餓鬼といってきた。施餓鬼とは目に見えない、飢えたいのちに対して施して恵みを与えること。しかし、周りを見てみると人間世界にもこの現世にもいのちをあまりにも粗末にする例が多すぎる。そこで今年からは思い切って、全てのいのちに感謝する「いのち感謝祭」とした。見えるいのちも見えないいのちも大切にするお祭である。そしてそのいのちの源である水をテーマに、水祭ともした。秋を迎えるこの季節、金のエネルギーが自然に高まってこなければならない。それを阻害するのが夏の火のエネルギー。火のエネルギーを抑えるのが水のエネルギー。水によって火のエネルギーが弱まれば自然に金のエネルギーが高まり秋の力が強まっていく。そうした意味でも、季節感を高めてくれるお祭でもある。四季感も自然の流れ。地球全体のいのちの流れ。こうした行事を通して、一人でも多くの人が自然感を取り戻してくれることを、心より望む。

いのち感謝祭・・・施餓鬼・・・水の祭・・・初秋の祭・・・こんなお祭をさせていただけることに深く深く感謝する。

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2006年8月14日 (月)

道・・・

午前中はお盆のおまいりと母を病院へ。午後からは明日の「いのち感謝祭」の準備。15人の方々にお手伝いをいただいた。こうしていろいろな人と作業をすることはいいものだ。みなの気持ちが一つの方向に流れていく。こうしてまた絆がまた一つ出来上がっていく。大きな道が出来上がった思いだ・心から感謝したい。

ただこの四日間で睡眠時間が10時間程度。かなりきつくなってきて夕方から3時間ほど休ませてもらった。汗ばみながら寝付けなく、ちょっとしんどい思いをした。ふと気づくと、いつの間にか夢の中に落ちていて、8時前に目が覚めた。

今日の中日戦は・・・雨で中止・・・今年はドラゴンズが調子がいい。特別なドラゴンズファンではないが、やはり地元。ついつい応援してしまう。落合監督。彼には見習う点が多いからだ。彼はベースボールプレイヤーでもベースボールの監督ではない。彼は野球の監督でも選手でもないことに気づいた。彼は野球を野球道として捉えている。日本人が得意の道にまで昇華している。昨日までの阪神の三たてを見ながらそっれに気づいた。そしてそれに魅せられている自分にも。私も仏教の僧侶ではなく、仏教の寺院の住職ではなく、仏道の僧侶として、仏道の寺院住職として今後も自分を追及し活動を続けていければと感じる。

政治にも政治道があるのだろう。経営にも経営道があるのだろう。この「道」というものを見つめ、多くの人に伝えていければと思う。

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2006年8月13日 (日)

お盆参り佳境

お盆参り、朝6時半に出発して夕方7時過ぎに戻る。それにしても朝は涼しかったのに昼の暑さには参った。やはり34度。うーん。この蒸し暑さはやはり苦手だ。さすがにちょっと疲れた。今年はBIOBIO酸性水(http://www.kiriku.co.jp)を持参した。おかげで汗臭くならずに済んだ。二件に一回の割合で、手足にこのBIOBIO酸性水を吹き付けたからだ。汗がくさくなるのは黄色ぶどう球菌の繁殖が主な原因らしい。それを滅することができたようだ。ありがたい水だ。

今回のお参りでは、全ての家庭で全く異なる法話を心がけた。対機説法がどこまでできるのかということを試したのだ。まだまだ未熟な点が露呈した。話の内容そのものよりも、話のテンポや流れ、リズム、間合い、このあたりはまだまだ改良の余地がある。

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2006年8月12日 (土)

母の左足 靭帯損傷

母が今朝方、自転車で転倒し足が腫れ上がったていた。お盆のお参りを終えた私は県病院に連れて行った。旧名緊急センター。今日は緊急に指定されていたために人でごった返していた。30分ほど待って診察。レントゲンを撮り、人体が損傷していることが分かった。最悪の場合はボルトを入れねばならぬらしい。ただそれは最悪の場合で、可能性としては低いそうだ。最近、母に対する加重が多すぎたように思える。おそらく彼女に対しては休むように、私を含め周りのものに対しては母に頼りすぎるなといメッセージなのかもしれない。最近、物がよく落ちていたが、私のカバンばかりでなく、母の怪我も含まれていたような気がする。暗示を与えてくれていたいのちに感謝。

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お盆参り

お盆参りから今帰ってきた。今日は午後から各務原市外ばかり。岐阜市に江南市、稲沢市。明日は各務原市が中心。早朝から夜まで。

月参りをしていないので、各檀家のお宅に伺うのは年に一回このお盆のときだけ。だからこそ、10分の読経に10分の法話は欠かさないようにしている。今日は師匠の管長御推戴の話がよくでた。私が想像する以上に檀家さんにとっては嬉しい出来事だったようだ。人の感情というものを私は今まで無視してきたような気がする。仏教の理論面を押し出しすぎたきらいもある。しかし、人の心は理論とは別のところにある。この感情と理論の両者を包摂するものを今後はもっと考えて行こうと思う。

檀家さんとお話させていただくことそのものにも感謝する。

明日は6時45分出発。ただこれから足の怪我をした母を病院に連れて行かねばならない。骨に異常がなければよいのだが・・・。

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2006年8月11日 (金)

個人の深化・泥田に咲く蓮の花

明日からお盆参りが始まる。今日はゆっくりさせてもらった。時が流れるのが実にゆったりとしていた。こうした日は久しぶりだ。人はたまにはこうした日を持つことが大切だと改めて思う。

さて、今日信者さんが来られていろいろ話をした。その中で、私自身が思わず口にしたこと。

1)社会的な出来事や個人的な出来事、さまざまなことが世間では起きている。しかしどれもが実は個人個人への複合的なメッセージになっているということ。ニュースを知った人にはいろいろな思いを抱かせる。その視点こそが実に大切なこと。社会的な出来事にも個人的な出来事にも、それに意味を持たせるのは個人の思いであり経験であり思想である。その視点で読み解くことが大切。普遍的な意味を得ようとすることも重要だがそれ以上に、個人的な意味を得ようと努めることは個人を深化させるにも大切なこと。

2)仏教の花といえばロータス。蓮の花。蓮の花は泥田に咲く。そして何物にも染まらず美しく咲き誇る。仏教も泥田であるからこそ役に立つ。肉体を持っている限り人には苦が伴う。悲しみが伴う。これは避けられないこと。この苦であり悲しみの世間だからこそ、蓮の花のように何物にも染まらない仏教の花が咲く。蓮は大慈悲(慈愛)を表し、清浄さを象徴する。世間から離れるのではなく、世間に染まるのではなく、世間の中にあってその泥に染まることなく花を咲かせるのが仏教の花である。

そんなお話をした。この話をしたのは他者であったのだが、私はそれ以上に自分に言い聞かせるように話をした。私自身を導いてくださるいのちからのメッセージだと感じている。深く感謝する。

明日から数日は忙しくなる。今宵はこれまで。

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2006年8月10日 (木)

色と音(色聴)

色は光の波の周波数の違いによって区別されている。また音も周波数がある。この両者を区別するのは、目と耳という認識器官があり、それを区別するようになるからだ。まだこの区別が未分化の幼児では、音も色も区別がない。その未分化が音を聞いて色を認識するという「色聴」をもたらしたといわれる。原始人には広くあった感覚で、現代でも幼児に多くある感覚であるという。稀に大人にもあり、多くの場合は絶対音感を伴っているという。

1931年にカール・ジーツという人がこれを調べた。ドは赤色、レはスミレ色、ミは黄金色、ファはピンク、ソは空色、ラは黄色、シは銅色に対応するという。ハ長調は白、ニ長調とホ長調は橙色や黄色、ヘ長調は緑色、ト長調は青色、イ長調は赤色が対応するそうだ。

特にこの長調に対応する色には驚いた。仏教が示す五色と一致するからだ。

波動ということばは一人歩きしているのであまり使いたくないが、誤解を恐れずあえて使うならば、色も音も人間の感覚器官が分けているだけであり、何も異なったものではないように思える。そうなると、感覚器官で捉えるものは全て同じものなのかもしれないと感じる。五感は本当はないものなのかもしれない。人が勝手に名前をつけ、分化したもの。本当は全てが一つのもの。そう考えると、意識もまた波であるといえる。

波について思いをめぐらせるととても面白い。長調や音階に色を当てはめる・・・これはとても面白い。

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2006年8月 9日 (水)

遺伝子組み換え技術が油にまで

http://biotech.nikkeibp.co.jp/fsn/kiji.jsp?kiji=684 のニュースを見てびっくりした。ついに油にまで遺伝子組み換え技術が使われるようになってしまった・・・。

我が家ではサラダなど使ういわゆる火を通さない油は亜麻仁油(フラックスオイル)やエゴマ油を使っている。これは、アルファ3と呼ばれる油で、青魚などに由来する油と似通っているものだ。しかしなにせ高価であると共に、火に弱く酸化しやすい。それを遺伝子技術によって、大豆など全く異なるアルファ6と呼ばれる油を切り替えてしまおうというものらしい。ここまでする必要があるのだろうか・・・。

80年前、アンモニアを冷媒とした冷蔵庫が使われていた。しかし、アンモニアの取り扱いは難しいために、安定しており無色無臭無毒の別の冷媒の研究が進められた。そして作られたのがフレオンだった。日本では戦時中の商標の名の関係でフロンと呼ばれている。このフロンは夢の化学物質としてもてはやされ、増産に継ぐ増産であちこちの分野で用いられた。ところがこの安定しているということが厄介なことであった。自然界では崩壊しづらい。しかも空気よりも重たい。そのためにゆっくりゆっくり成層圏まで上っていき、その成層圏で紫外線の照射を受け、フロンは崩壊して行った。その分解したもののうちの塩素がオゾンと結びついて、オゾン層を破壊して行ってしまった。これがオゾン層破壊である。オゾンホールができたり、オゾン層そのものの厚さが薄くなったりして、地表には届かなかった紫外線Bが地表に届き、地表の生物の生存さえ脅かすようになった。

遺伝子組み換え技術はこのフロンと同じことを引き起こしはしないだろうか。私にはそんな危惧がある。自然の回復力の範囲内で行う科学技術はとても大切なものだ。それは大宇宙が私たちに与えてくれた恩恵だと思う。しかし、それを超えたことを行うとどうなるのか?核の問題・人口爆発・地球温暖化・酸性雨そのほか電磁波・化学物質問題など地球にとってあまり好ましくない状況が生まれているように思う。

人にとって大切なものは何か?これを見つめる必要があろう。

もちろん遺伝子レベルの研究そのものは私は悪いとは思わない。そこを見つめると、「大いなるいのち」への畏敬の念がよりいっそう増すからである。しかし、それに手を出すことはまた別問題だ。遺伝子組み換え技術がオゾン層破壊のような予想もしない事態を引き起こさないことを心より願う

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2006年8月 8日 (火)

会場の下見 MaMaの会

マドンナのプライベートシェフ西邨まゆみさんの講演会の各務原会場の下見に行く。市民会館。1200名収容。思った以上に広い会場だった。楽屋3、託児所1を追加予定。託児所をどうするかを随分と考えた。お母さん方が多いからだ。会場に行ったおかげでかなりのイメージがハッキリしてきた。やはり百聞はお一見にしかず。今日は冷房が入っていなかったのでかなり暑かった。当日は冬になるので結構寒いかもしれない。ひざ掛けの持参もお願いしなければ・・・。

その後、下見の後、お寺でミーティング。そこでこの講演会の準備委員会の愛称を決めた。「MaMaの会」。まゆみさんのMa、マドンナのMa、おまんまのMa、MatherのMa、ママのMaその他いろいろな意味を兼務した名前だ。ついでに東京の会の名前も仮名でつけた。MaMiの会。

この講演会が、日本の食改革の大きな一石になることを望む。

今宵はこれまで。

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お手伝いのご利益

日曜日、いのち感謝祭のお手伝いの方々にお集まりいただいた。そこでは事務作業というよりはお互いの信仰や思いを語り合う場になり、とても雰囲気よく話し合いが進んだ。お手伝いに来られる方々のメリットはここにある。一つの縁ある場に集まり、お互いの思いを語り合う。そしてその思いを受け止め自分の内面を深め、また一人の人間として成長していく。ただたんにおまいりに来ることも大きなメリットを得られるが、お手伝いをするということは奉仕をするということであり、大きな大きな利益を得ることになる。今回はお手伝いに来られる方々のご利益とは何なのか、その一面をまざまざと見せ付けられた思いだ。

お手伝いそのものにも、内面的な深化にも深く深く感謝する。

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2006年8月 7日 (月)

今日はカミさんと大喧嘩。結論的には私に非があるのだが、男は対面を傷つけられると火山噴火してしまうことを実感させられた。女は愛がないと生きていけない。男は面子がないと生きていけない。これはどこまで行っても平行線。今回のカミサンとの喧嘩はやはりこの平行線が原因だった。

この愛という言葉が曲者だ。「あなたは何のために生きるのか」と問われれば、「大いなるいのちの愛の表現だ」と応えるようにしている。しかし、この愛と女性が求める愛とは実は相反している面もある。大いなるいのちの愛とは人類愛であり普遍の愛。これは仏教用語で言えば大慈悲心。ということは女性の求める個人的な愛情とは相反するものともいえるのだ。

あえて言えば、その両者を包み込むもっと大きな愛を想定する必要があるのかもしれない。どちらの愛も否定しない愛。理屈ではなんとなく創造できるようになった。さて次はそれの体現だ。カミサンと喧嘩がなくなったとき、まさにその体現なのだろう。

私の頭の上のほうで、何人かの「いのち」が笑っているように感じるのは、私の勘違いだろうか?

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2006年8月 6日 (日)

四季の祭りを考える

お寺での会合。いのち感謝祭(水の祭り:お施餓鬼)の打ち合わせ。いろいろな問題がある。しかし、この問題を克服することが実は大きな意味を持つ。節分と共にこの祭りが大きな意味を持っていることを知っていただかなくては。そこから祈ってみた。そして出てきた応えは以下の通り。

火の祭り・・・・節分・星祭:立春前   水の祭り・・・・いのち感謝祭・お施餓鬼:立秋前

そして今後考えているのが

木の祭り・・・・収穫祭:立冬前     土の祭り・・・・???:立夏前

春は木のエネルギー。木のエネルギーを剋すのが金のエネルギー。その金のエネルギーを弱めるのが火のエネルギー。それゆえに大護摩火渡などの節分星祭。方角は東。アシュク如来・金剛サッタ・普賢菩薩・金剛香菩薩・金剛嬉菩薩・降三世明王・不動明王に祈りを捧げる。

夏は火のエネルギー。火のエネルギーを剋すのが水のエネルギー。その水のエネルギーを弱めるのが土のエネルギー。これはまだ模索中。方角は南。宝生如来・虚空蔵菩薩・金剛華菩薩・金剛鬘菩薩・軍荼利明王に祈りを捧げる。

秋は金のエネルギー。金のエネルギーを剋すのが火のエネルギー。その火のエネルギーを弱めるのが水のエネルギー。それゆえに水をさまざまに扱ういのち感謝祭。方角は西。阿弥陀如来・観音菩薩・文殊菩薩・金剛灯菩薩・金剛歌菩薩・大威徳明王に祈りを捧げる。

冬は水のエネルギー。水のエネルギーを剋すのが土のエネルギー。その土のエネルギーを弱めるのが木のエネルギー。それゆえに木のエネルギーを持つ植物の収穫祭を。方角は北。不空成就如来・弥勒菩薩・金剛塗菩薩・金剛舞菩薩・金剛夜叉明王・不動明王に祈りを捧げる。

まだ何か足りない気がする。陰陽の四季・五気と密教の四方の如来菩薩明王の組み合わせ。それぞれに深い意味を持つと私は感じた。この四季の祭りを推進して行こうと思う。

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2006年8月 5日 (土)

自分自身の才能のマネージャー

自分をどのように捉えるのか?このことが最近とても大切に思えている。普通は肉体の自分を自分と感じ、その五感に囚われて外界に対応してしまう。そうしたときは実に狭い判断をし、広い道を見失いがちだ。一方、心を自分の肉体よりもはるかに広がる無限の大きさであり、その表現の一部として肉体があると感じると何事にも無限の可能性が見出せる。もちろん、後者にすぐなれるものではない。毎日の少しずつの積み重ねがあり、その積み重ねがあるとき突如として大きな壁を突き破る。硬い壁の同じ場所を何度も何度も叩いてもなかなか壊すことができないが、じつはその繰り返しが壁にヒビを入れさせて、あるとき突然にその壁を破壊するものだ。学問でもスポーツでも同じだ。何度も何度も同じことを繰り返していくうちにとてつもなく大きな壁を突き破る。これはこの世の大きな秘密なのかもしれない。何にでも通じること。

大きないのちの自己表現の一部としてこの肉体がある。それを思うと、この肉体はまた大切になるし、この肉体を通して何かを表現できるのかもしれない。そういえばマドンナが言っている。「私は私自身の才能のマネージャーよ」。まさにこれだと思う。自分自身の才能のマネージャー。これは大切なことだ。

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2006年8月 4日 (金)

宗教倫理学会合宿

滋賀県の琵琶湖西畔にある同志社大学リトリートセンターという施設で宗教倫理学会の合宿があった。この学会の合宿は面白い。昨年は高野山であった。朝の四時まで語り合った。今年は朝の三時まで。

今回、勉強になったのはギリシア正教・イスラム教。

ギリシア正教はオーソドックスと呼ばれ、その内容は神秘主義に彩られたキリスト教。呼吸法や坐法・真言などがあり、またイコンなどのシンボリックなものもあり、実に真言宗に近いものを感じた。日本ではラスプーチンのイメージが強いが、もっともっと中身を知る必要がることを感じた。ロシアとギリシアに残るものだが、オーソドックスということばに表されるように、もともとのキリスト教のあり方を知るためには不可欠なものだ。

イスラム教。発表は10世紀頃のイスラムから見た仏教。これは刺激を受けた。ちょうど後期密教が展開している頃であり、外から見た場合どのように写っていたのか、勉強になる。ただ発表以上に驚いたのは、イスラムが実に穏健的な教えであるということだ。イメージとしては過激なイメージを感じる。しかし、その内容は実に穏健なもの。しかも学ばされたのは、自分で考えるのではなく、神に考えていただくという発想。自我に固執することなく神の規範の中で自由に動くというのがイスラムの考え方のようだ。そしてこの世は幻であり、次の世である真の世界へ生まれたときに神の玉座の近くに行くことを大切にしているという。いろいろな問題点もあるが、もう一度見直さねばならないと思い、帰宅してから岩波から出ている井筒先生の『コーラン』を読み始めた。

今回は五井昌久師のことやユダヤのカッバーラについて書かれたレジュメもいただいた。これの刺激も少なくない。また神道やキリスト教のこと、また同志社大学のことなどいろいろ学ばされた点も少なくない。またこれらについては書く日もあるだろう。

今朝までの対話で興奮していたが、そろそろ眠くなってきた。今から沐浴し、床に就こうと思う。今宵はこれまで。

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2006年8月 2日 (水)

般若心経講座で

今日の般若心経講座は少し視点を変えてお話をした。

多くの解説書はその時代にのみ読まれるものがほとんど。時を経て、多くの人に読み次がれるものはあまり多くは無い。しかし、弘法大師が著述した『般若心経秘鍵』は、1200年近くもの間、多くの人に読み次がれてきた稀有な書。しかも、その視点は、この肉体を持った視点ではなく、全く異なった視点で解き明かした書であるということをお話させていただいた。

そして輪廻転生のこと、末那識、阿頼耶識のこと。大きな自分のこと、大きないのちのこと。天使のこと菩薩のことなど、流れるままにお話をした。終了後、参加者のお一人が「長年疑問に思っていたことが解消されました。」とお声をかけていただいた。とても嬉しい瞬間だった。

私自身、子供の頃に体験し、その後に何度も体感してきたこの感覚。実覚。これについては仏教書には多く説かれていた。特に密教関連には多くあった、しかし、それは仏教書に限定された。だからこそ真言宗を選んだにもかかわらず、その内容を公言することは憚られてきた。しかし、最近になり、五井昌久氏が同じ思いを持っていたことを知り、また飯田史彦氏も同じような体験をして実感したことを知り、ようやく仏教以外の言葉でも語ることができると思い、この私の輪廻転生や大いなるいのちについて語り始めた。まだ一ヶ月にもなっていない。

この話をこれから堂々としていこうと思う。私自身も語るときがきたと感じている。全ての人に理解していただこうとは思ってはいない。分かっていただける人に分かっていただければと思う。いやそれ以上に、この言葉が耳に入っていればいつかは必ずその人に理解していただける日が来るはずである。それは死の瞬間かもしれないが、大切なことであると今は強く感じ始めている。

今日の方々にもいろいろな視点で質問をいただいた。その方々の大きないのちに深く深く感謝する。

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2006年8月 1日 (火)

物が落ちる

昨日から棚からやたらと物が落ちている。何もしていないにも関わらず。なにかメッセージがあるのか?寺子屋の生徒たちもビックリしているくらいだ。そういえば昨日行った名古屋のチベットのお寺。強巴林。ここで本尊の若い釈迦如来像と文殊菩薩像。この二体だけが他のものとは違うと感じたときから、奇妙な感覚を得ている。言葉には表せない。何かが始まっているのか。足元に気をつけろというメッセージと今は受け止めているが、果たして何が起きているのか、楽しみでもある。

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